裕昌と鈴鳴の陰陽師 4

 晴明が帰った後、裕昌は黒音の様子を見に自室へ上がった。出来るだけ起こさないようにと、物音を立てずに入ったつもりだったのだが、どうやら気配で分かったらしい。


「ん……?ひろまさ……?」


「調子はどうだ?ましにはなったか?」


「……まだしんどい」


 だろうなー、と裕昌は苦笑する。黒音の額に乗せていたタオルはもうぬるくなっている。氷嚢はまだ冷たそうだが。ぬるくなったタオルで黒音の額に滲んだ汗を拭ってやる。そして、優しく頭を撫でた。黒音はもう一度布団をかぶりなおすと、心地よさそうな表情を浮かべた。


「もっと」


「もっと、って……、タオル濡らしに行かなくていいのか?暑いだろ?」


「いいの」


 黒音は猫の姿であればゴロゴロと喉を鳴らしそうなほど甘えている。こんな姿は珍しい。

 裕昌は頭を撫でているだけだと面白くなくなってきたため、撫でる箇所を変えてみる。

頭から猫耳、輪郭をなぞるように手を滑らせ、頬骨当たりを親指でそっと撫でる。すると、黒音が顔を横に向けたため、裕昌の手が下敷きになる形になった。


「これじゃあ撫でれないんだけど……」


「……ひろまさのて、すき」


「……、…………、……!?」


 裕昌の思考が一瞬硬直する。裕昌の人生の中でもおとぎ話の中でしか聞いたことがない単語が飛び出し、その意味を理解するのに時間がかかる。

 いや、別にそういう感情とかないだろう、多分。いつも猫の姿で撫でているから、そのマッサージ的な、撫で方というか、そういうものが好きなんだ。そういうことだ。

 生まれて二十四年。裕昌はやっと今年に入って異性と関わる機会が増えた初心な青年である。


「本当にどうしたんだ……?黒音……」


 もしかすると、病などで弱くなると人が変わるタイプか。いつもはつんけんしているのに、逆にデレるのか。

 裕昌の手を下敷きにしたまま、黒音が再びすやすやと寝息を立て始めた。


「……可愛い」


 少しだけ名残惜しそうに裕昌は下敷きにされた手を抜く。そして、タオルを冷やしに一階へ降りて行った。

 





 その夜。一匹の妖怪が追い詰められていた。蟷螂妖怪、とでも言った方が良いだろうか。鎌を振り上げ、威嚇する先には晴明と雫がいた。


「ったく、人間に危害を加えたお前が悪いんだ。さらに意思疎通拒否、即臨戦態勢、これは滅する理由に十分に値する。……縛」


 首に着けていた数珠を妖怪めがけてばらまいた。散らばった玉は妖怪を閉じ込める檻となり、鎖となった。


「百鬼消除」


 晴明は冷たく蟷螂妖怪を見据える。その表情は、温厚だった昼間とは別人のようだ。懐から静かに一枚の符を取り出した。


「急々如律令」


 妖怪に向かって投げた符は矢のように飛んでいき、蟷螂妖怪を貫いた。核を砕かれた蟷螂は、妖気を維持できなくなって消滅した。晴明は一つ息をついた。やはり妖怪退治というものは体力も精神も削るため、普通の運動よりも疲れる。額に滲んだ汗をぬぐい、符と同じところに仕舞っていた携帯を取り出した。耳に押し当て、相手が出るのを待つ。


「もしもし、依頼を受けていた御門です。その件なのですが、無事消滅を確認しましたので……。はい、よろしくお願いします。ではまた何かありましたらご相談ください」


 ぷつ、と電話を切る。こっちも疲れるんだよな、とぼやく。後ろの方で始終を見守るという名の傍観をしていた雫の元へ歩いていく。

 雫は晴明の様子に軽く肩をすくめた。


「その様子だと、またいつもの感じだったようだね」


「お察しの通り。あー、陰陽師辞めようかなー」


「お前の場合、半分本気だから笑えないんだよ」


 雫の横を通り過ぎて歩き始める晴明、そのあと追う形で雫が歩き出し、二人はその場を立ち去る。


「そういえば、今日出会った裕昌と菜海っていう子、あの二人なら信用できそうだ。やっと晴明にも友達が出来たんだね。僕は嬉しいよ。よよよ……」


「勝手に人に友達を作るんじゃない。その泣き真似もやめろ。うざい」


 晴明はじとっと雫を睨む。雫はてへっと舌を出す。

 まったく、この式神は一応水神ということを忘れているのだろうか。

 だが、ふざけているように見えて何を考えているか分からないのが神というものでもある。彼女は式神で水神。神の祭壇を降り、人間のもとで力を貸しているにすぎない。雫はまだ親しみやすい部類の神だ。


「……、晴明」


 ふと、雫の声音が変わる。妖気だ。その出所を探る。大分遠い。だが、それは晴明が探している妖怪のものだった。向きは山を北にして南東。


「僕の想像通り。彼はどうやら妖を惹きつける天才のようだね」


「……五十鈴屋か」


 妖怪が次のターゲットにしたのは、人間の青年か。それとも弱っている妖か。





 時はほんの少しだけ遡る。黒音がベッドで寝ているため、裕昌は床に布団を敷いて就寝した。思わぬ客人や黒音の看病、店の仕事で疲れ切っていた裕昌は布団に入ってから十分も経たぬうちに眠ってしまった。しかし、ふと目が覚めた。いつもなら寝ぼけたり二度寝したりと、比較的寝覚めが悪い裕昌だったのだが、はっきりと意識が覚醒したように思考はクリアだった。風でかたかたと窓が揺れている。


「主、どうされましたか?」


「黒龍。いや、なんか急に目が覚めて……」


 その時、裕昌の背に、冷たい何かが滑り落ちた感覚があった。何かいる。

 黒龍がかたかたと鳴る窓に向かって刀を構える。裕昌を背で守るようにして前へ出る。


「主!」


「俺は大丈夫。何かあったら黒音を守ってくれ」


 裕昌は、ちょっとだけ借りるぞ、と言って部屋の隅に置いてある黒音の筆架叉を手に取った。これで防ぐぐらいなら生身でも出来るだろう。身体能力を向上させる藍色の羽織はすぐに手に取れる場所に置いてある。

 窓が鳴る音が大きくなっていく。いつの間にか風の音はしなくなっている。不気味に窓だけが鳴っているのだ。裕昌は窓のしたにあるベッドで眠る黒音に、布団を頭まですっぽりとかぶせた。万が一ガラスが飛び散って怪我をすれば大変だ。

 がたがた。がたがた。

 ひとしきり大きな音を立てた後、窓は嘘のように静かになった。


「……………………来ます!」


 黒龍がそう言った刹那。窓が割れると同時に白い糸のようなものが裕昌に向かって襲い掛かってきた。裕昌は何とか糸を筆架叉で払うが、払いきれるはずもなく両腕に意図が絡みつく。それはやけに粘っこい質をしていた。


「主、動かないでください」


 黒龍が粘性のある糸をまるで髪を切るように切断していく。いつの間にか部屋はまるで蜘蛛の巣の檻のようになっていた。糸から解放された裕昌は窓の方を見て息を呑んだ。

 爛々と赤い瞳が輝いている。それは四つ。強靭な顎をガチガチとならし、逆さになって部屋を覗いている、否、獲物を見据えている。


「ありがとう。助かった」


「どういたしまして。……蜘蛛の妖怪ですか」


 蜘蛛の妖怪はその口から大量の糸を吐いた。それらは裕昌ではなく、今度は黒龍に向かって放たれる。鮮やかな剣技で糸を斬っていくが、刀を振るには部屋が狭すぎた。黒龍の動きが僅かに鈍ったその隙に、黒龍の左腕、首、胴、足首に糸が巻き付いた。


「黒龍!」


「大丈夫です!主は黒音を!」


 裕昌は黒音の様子を伺う。布団をかぶせたのが功を奏したのか、蜘蛛妖怪には見つかっていないようだった。一方、黒龍はじりじりと蜘蛛の顎へ引きずられていく。


「ぐっ……」


 ぴんと張った糸を手繰り寄せ、蜘蛛は獲物を逃さない。黒龍は刀を右手に持ち変えると、自ら蜘蛛の懐へ飛び込んだ。狙うは目。

 黒龍は昏く光る、蜘蛛の目に刀を突き立てた。


「――――――――――――!!!!!!」


 蜘蛛は悲鳴を上げ、足で異物を取り除こうと足掻いた。糸が緩み、黒龍はその場から脱しようと刀を抜こうとした。その時、蜘蛛の脚に備わった鋭い爪が黒龍の肩を抉った。初めての痛みに黒龍は顔を歪めたが、第二撃が来る前に撤退した。

 

「黒龍、肩!」


「大丈夫です。面倒なことに痛覚は備わっているようですが、出血まではしないので」


 黒龍がそう言って抉られた肩を一瞥した。裕昌はそれにはっとする。一言でいえば、割物だった。形容しがたいのだが、人間らしい肉々しさはない。皮膚の部分に罅が入り、抉れた部分はぽっかりと穴が開いている。見た目の質感は土器や鎧のそれだ。

 彼女は人の姿になれるだけ。黒音とは違い、彼女は本来意志を持たない刀から生まれたものだ。五臓六腑を模した機能も、記憶を司る脳も、すべては本物そっくりの紛い物。故に、人間に必要な食事もしなければ生理現象も起こらない。それは、怪我をすれば血が流れる、ということも例外ではなかった。だから、支障が出るとしたら身体ではなく本体のほう。


「む、少し刃毀れしてしまいましたか。せっかく打ち直してもらったというのに」


 黒龍が蜘蛛妖怪を冷たく睨む。蜘蛛妖怪も目を一つ失い錯乱しているようだった。一触即発の中、動いたのは蜘蛛妖怪の方だった。何かを感じ取ったのか、その巨体とは思えぬ素早い動作で撤退していく。後を追おうと黒龍が窓から顔を出したが、既に視えなくなってしまった。


「逃げた……?」


「そのようです。主、御怪我はありませんか」


「うん。ちょっとべたべたするだけ」


 裕昌は黒音にかぶせた布団の上の惨状をみて一つ息をついた。ガラスが飛び散り、安易に近づけないようになっている。臥せっているのにこんなことになって申し訳ない気持ちでいっぱいの裕昌だ。すると、布団が少しだけ動いた。


「ん……、……重っ!?」


 黒音のいつもの調子の声が聞こえる。そのまま起き上がろうとする黒音を慌てて裕昌が制止する。


「す、ストップ黒音!ちょっと被せた布団の上が大変なことになってるから出るな!」


「は?布団の上が大変なこと?」


 今片付けるから、と掃除機と箒と塵取りを用意する。黒龍が大きな破片を箒と塵取りで取り、手では拾えない細かな破片を裕昌が掃除機で吸っていく。じゃりじゃりと破片が吸われる音に、黒音は心底不思議そうな声を出した。


「じゃ、じゃりじゃり?お前ら一体何してたんだ……?」


「いいから」


「病人は寝ててください」


「いやうるさくて寝れんが」


 黒音が布団の中から正論を言うが、二人は黙々と片付けていく。布団の上の大きな破片を黒龍が片付けると、裕昌はちょっとごめん、と言って布団の上も掃除機で吸い始めた。黒音は終始困惑気味に布団から出られる時をおとなしく待つのだった。



「ふう、これで大丈夫かな。黒音、いいよ」


 裕昌がそう言うと、黒音が恐る恐る布団から顔を出す。何が行われていたのだろう、とあたりを探るうちに、やけに風通しが良いなと思った。

 ふと上を見上げると、窓枠にガラスが僅かに残っている様が見えた。


「ガラスが割れたのか……なんで?」


「ちょっと妖怪が侵入してきた」


 気づかなかったな。と黒音は何処か納得がいっていないようだった。座ろうとしたが、ずきん、と頭痛に見舞われて動きが緩慢になる。


「ほらまだ治ってないし、黒音は寝なさい。あ、でもまだ破片が散らばってるかもしれないし……」


 裕昌は少し思案するそぶりを見せると、おもむろに黒音を抱きかかえた。


「よいしょ」


「っ!?!?な、何やってるんだ裕昌!?」


 俗に言うお姫様抱っこをされた黒音は、慣れない体勢にじたばたと足掻く。その顔は羞恥心で真っ赤に染まっていた。


「こら暴れるんじゃない。病人なんだし、隣の部屋まで歩かせるわけにもいかないだろ。顔も赤くなってきてるし」


「や、ちが、これはそうじゃなくてだな」


 わたわたと慌てふためく黒音は裕昌の背後にいた黒龍に視線だけで助けを求めた。しかし、刀の付喪神はにっこりと微笑んで一言。


「羨ましいです」


 こいつ……!

 黒音は黒龍をぎんっ、と睨むのだった。嫌味のように聞こえたそれは黒龍の嫉妬心でもある。だがそれよりも黒音はこの状況をどうにかして欲しかった。


「……たく、もうどうにでもなれ」


 とうとう黒音は諦めた。裕昌に抱えられながら隣の部屋まで移動する。隣にもベッドが置いてある。どうやら昔老夫婦が使っていたものなのだが、綺麗に手入れされていたため、まだ使えるのだ。ひとまず明日の夜まではここで寝ることにした。

 裕昌は黒音をベッドに寝かせる。


『か、顔近っ……』


 黒音の鼓動が早くなる。その様子はまるで乙女のようだった。それが裕昌の手にも伝わったのか、裕昌は心配そうに黒音を見る。


「なんか心拍数速くなってない?不整脈じゃ」


「違うから!大丈夫だから!」


 若干食い気味に答える黒音に不思議そうに首を傾ける裕昌だったが、布団を掛けなおしてやるとそのまま黒音は潜り込んでしまった。

 裕昌はひとまず粘着質な糸がくっついたままの服を着替え、新たに布団を敷きなおして眠るのだった。

 黒音も裕昌も眠りについた後。ただ一人、黒龍は刀を持った。

 月光に刃を照らすと、刃の部分に一部だけ刃毀れがみられる。黒龍の身体が受けた傷をそのまま刀に表しているかのようだった。

 傷はもう痛まない。痛みは傷ついた、という信号のためだけのシステムである故一瞬なのだ。だが、刀身を直すまで肩は治らない。

 ひとまず着物だけ妖力で生成する。破れた部分は瞬く間に修復されていく。

 不覚だった。室内ゆえの身動きのとり辛さに慣れていなかった隙をまんまと見抜かれた。黒龍は独り密かに、あの妖にリベンジを行う決意をしたのだった。

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