黒猫と慕情の雨橋 5

 昔々、白い狐が橋に現れるという噂がありました。その狐はいつも、食べ物をもらっては巣に運ぶ、というのを繰り返していました。

 町の人々はそれを珍しがっていましたが、決して邪険にすることはありませんでした。

 ある日、狐はひとりのお姫様に出会いました。彼女はまっすぐに、狐を見つめ返してきます。狐は、彼女に一目惚れをしてしまいました。ですが、彼女は人間です。自分のような獣が好かれるはずがない。狐は、最後に一目だけ見て帰ろうと、お姫様の屋敷の庭に忍び込みました。 すると、彼女は狐を見つけたのです。彼女はとても優しい人でした。狐が喋っても、楽しそうにおしゃべりをするのです。

 お花の話をしました。着物を褒めたりしました。そんな風に、会う回数が増えていくと、彼女は狐に名前を与えました。ちょうど、お姫様が狐とお姫様の物語、「玉水物語」を聞いた後の日でした。お姫様は言いました。


「……狐様、あなたのお名前、玉水、という名で呼んでも構いませんか?」


 狐は嬉しさのあまり、再び泣いてしまいました。本当に本当に幸せな日々でした。ある日、お姫様が遠くの国へお出かけすることになりました。


「帰ってきたとき、この橋に来ます。そして、私を連れて行って下さいな」


 二人は約束しました。必ずこの橋で再開して、幸せになるのだと。

 狐は待ちました。来る日も来る日も待ちました。晴れの日も、雨の日も。

 そして、ある時気が付いたのです。あの人はもう戻ってこないのだと。

 ですが、いつまでも待ち続けることを決めました。

 のどの渇きも、腹減りも感じなくなっていきました。

 待っていた日々はほとんどが雨の日でした。それも、優しい雨の日。

 しんしんと、しんしんと。さらさらと、さらさらと。

 生糸のような、柔らかい雨が降る。

 その中であっても、狐はずっと待ち続けるのです。

 いつか、お姫様と再会できる日を夢見て。



 そして、これは夢の続き。ちょっとお姫様を探しに行きたくなって、狐は橋を離れました。

 あちこちを回りました。そしてここに戻ってきたとき、狐は不思議な人たちと出会いました。黒猫又と暮らしている人間、刀の付喪神の三人に。

 彼らと過ごした時間は短くて、しかしとても楽しかったのです。

 それこそ、はるか昔に死んでいたことに気が付かないくらい―――――。





「すでに死んでた……?」


「はい。自分でもいつ死んだのかはわかりませんが……。それでも大分昔のことです」


 玉水は麻子を見上げる。麻子は悲しそうに、目を伏した。


「申し訳ございません……私が、約束を守れなかったばっかりに……」


「麻子様、顔をお上げください。仕方のないことです」


 白い狐が淡く微笑む。そのやり取りを見ていた黒音が、一歩前に出た。


「玉水。お前はこちらに長く留まりすぎている。気づいていないようだが、ある種の地縛霊と同系統だ。簡単に、そちらへはいけないんじゃないか?」


 白い狐は苦笑した。まさかそこまで見抜いているとは。このような頼もしい黒猫を傍に置いているのだったら、裕昌は安心だろう。と思う。


「そこでだ。黒龍の妖気を断つ力で送ることが出来そうなんだが……、やってみるか?」


 狐は一つ頷くと、お願いします。と頭を垂れた。


「では、失礼しますね」


 黒龍がすらりと刀身を抜く。妖気を断つ、それに集中する。その時、黒龍の目に玉水から細長い糸のようなものが見えた。その先を目で追うと、霧の中にぼんやりと光る塊があった。それは、獣が丸くなって寝る体勢と同じ形をしていた。


『あとで供養させていただきます……』


 黒龍は糸のようなものを見据える。きっとこれは、玉水の妖気を保つチューブのような役割でもあり、魂の緒でもあるのだろう。

 その人生に、敬意をこめて。

 刃がすっ、と糸を切った。

 雨が降り始める。まるでそれは、狐と姫君の再会を喜ぶような涙にも似た雨だった。


『皆様。本当にありがとうございました』


 玉水の声が二重に歪む。麻子は玉水を抱えた。


『私たちは行こうと思います』


「……さようなら」


 裕昌が少し寂しげに呟く。あせびも手を振る。ふと、麻子があせびをまじまじと見つめた。


『貴女……どこかでお会いしたような気がするのだけれど』


 あせびは苦笑した。昔よりも成長しているし、見た目はがらりと変わっているのだ。実の妹だと気付けなくても仕方あるまい。

 だから、敢えてこう言った。


「さあ、どうかしら?」


 麻子はその意地悪な答えにすこし不思議に思っていたが、くすりと微笑んだ。


『まるで、妹を見ているみたい』


 あせびはただ微笑み、何も言わない。今の彼女は鴆の娘のあせびなのだ。舞子という人間はもうこの世には存在しない。

 麻子と玉水が燐光に包まれる。


『皆様、どうかお元気で』


『ご縁があれば、来世でお会いしましょう』


「良い黄泉路を」


 黒龍が温かな言葉を贈る。裕昌たちは玉水たちと手を振り合い、彼らが消える最後の時まで別れを惜しんだ。

 静寂が漂う。ここにはもう何もない。霧はまだ深いままだが。


「さて。一件落着、だな」


「雨降ってるし、風邪ひかないうちに帰らないと」


 そう言って踵を返した時、裕昌を引き留めた声があった。


 『なーん』


 猫の鳴き声、だった。


*       *      *

 ずっと一緒だと思っていた。

 ずっとではなくとも、別れはもう少し先だろうと思っていた。

 そんな、甘い考えがあったから。


 あの夕方。声がかれるくらい、泣き叫んだ。

 

 忘れたくても忘れられない。オレンジ色の夕日が、いつもより朱かったあの日。逆光になって黒いシルエットとして浮かび上がっていたそれは、



 じめっと暑い日だったのに、冷たかった。



 昔。大切なものを失くした。たった一匹の兄弟であり、親友である三毛猫を。

 自分より少し前に生まれたその猫とは共に遊んで、共に寝て、たまに怒られて、たまに怒って、よく甘えて、よく甘えられて。

 当時小学生だった裕昌は、友人とも遊ばず、三毛猫に会いたいがために家にまっすぐ帰ってきていた。


「ただいまー!つむぎー!」


「なーん」


 少々癖のある鳴き方をするつむぎは、毎回出迎えてくれたのだ。学校でも、祖父母にも家族は大切にするように。それが動物であっても人間であっても。と教わってきたのだ。

 純粋だった裕昌少年は、兄弟猫に愛情をこれでもかというほど注いでいた。両親は共働きで日中は顔を見ない。兄もまだ学校だ。しかし、裕昌はつむぎがいる限り寂しくなかった。

 だが、裕昌が小学四,五年だった時。突然、つむぎはいなくなった。

 つむぎは十三歳だった。猫の寿命は十五年ほど。病気もなく、元気に過ごしていたのに突然倒れて、そのまま虹の橋を渡ってしまった。

 朝、学校に行くときには何もなかった。いつも通り見送られ、いつも通りいってきます、と言って学校に出かけた。

 帰ってきたときには、もうつむぎは息をしていなかった。

 裕昌は呆然と立ち尽くした。その瞳からは水が一滴流れた。


『突然だったわ……』


『病院には健康だと言われたんだろう』


『裕昌、泣かないで』


 両親や兄の言葉は裕昌には届かない。

 猫は体調不良を隠したがる。もし、何か見つけていたら。何か違和感を抱いていたら。

 つむぎは救えていたかもしれないのだ。自分がもっとしっかりしていれば。

 もう迎えてくれることも、見送ってくれることもないのだ。

 もう、会えない。

 そして、堰を切ったように涙が溢れ、嗚咽が漏れた。



 もうあんな思いは、したくない。



 あまりのショックに、しばらく裕昌は学校に登校できないほど憔悴した。


*       *       *


 

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