5話 黒猫と慕情の雨橋
黒猫と慕情の雨橋 1
しんしんと、しんしんと。
さらさらと、さらさらと。
生糸のような、柔らかい雨が降る。
その中であっても、ずっと待ち続けるのだ。
いつか、再会できる日を夢見て。
◇ ◇ ◇
ずっと一緒だと思っていた。
ずっとではなくとも、別れはもう少し先だろうと思っていた。
そんな、甘い考えがあったから。
あの夕方。声が枯れるくらい、泣き叫んだ。
忘れたくても忘れられない。オレンジ色の夕日が、いつもより朱かったあの日。逆光になって黒いシルエットとして浮かび上がっていたそれは。
じめっと暑い日だったのに、冷たかった。
◇ ◇ ◇
は、と目を覚ます。嫌な夢を見た。鼓動は早鐘を打ち、額には汗をかいている。
横にはすやすやと眠る、黒猫がいた。
そのぬくもりを感じたくて、艶のいい黒い毛に手を伸ばす。毛並みにそって、そっと撫でる。当然だが、人間より少しだけ温かい。
あの夜。黒猫が自分を庇った日を思い出す。
ぎゅっと、胸の内が急速に冷えていくような感覚。
もう来ないはずの「もし」を考えて、少しだけ臆病になってしまう自分がいた。
この季節、寝苦しいほど夜も暑いはずなのに寒い。芯が冷えていく感覚がある。その理由を知っている。病気ではない。ただ一つの感情がそうさせる。
黒猫を抱き寄せて、それを紛らわした。
朝。先週あたりに梅雨前線が本土に到来。ここしばらくはあいにくの雨だった。五十鈴屋は、そこそこ築年数が経っており、古き良き木造建築の家だ。だから、雨漏りなどはたまにある。
店内も湿気をなんとか防ぐために、冷暖房を除湿モードにしているが、それも気休め程度。売り上げも今の時期は停滞している。だからこそ、暇な時間を費やし、手作り雑貨の新商品を考えるのにはうってつけの時期だった。
「雨ばっかで気が滅入る。うーん、陽の光が恋しい」
「うん、そうだね」
「あたしの毛も湿気てるし」
「うん、そうだね」
「べたべたする―」
「うん、そうだね」
猫用ベッドで仰向けになっていた黒音は、先ほどから同じ返事しか繰り返さない裕昌に構ってほしくて仕方がない。だが、どうも様子がおかしい。
「裕昌どうした。今日、元気ないぞ」
「え?そうかな」
カウンターで事務作業をしていた裕昌が顔を上げる。黒音は心配そうに顔を覗き込んだ。
「な、なんだよ」
「明らかにいつもより顔色が悪いし、若干隈もできてるぞ。……何があった」
黒音が剣呑な表情を浮かべる。裕昌に何かあっては困る。どんなに些細な体調の変化も見逃さないようにしている。
裕昌は、力なく笑って答える。
「大丈夫だよ。別に体調悪いとかないし。低気圧でやられてるのかもしれないけど」
「……それならいいんだが」
どうも黒音には何かが引っかかる。その時、奥から黒龍が顔を出した。
「主。ごみの分別終わりました!大きいものは切り刻んでしまいましたけど」
「ありがとう、黒龍。助かる」
主に褒められて嬉しいのか、満面の笑みを浮かべる黒龍。
裕昌はおもむろに立った。
「二人ともちょっと店見てて。奥から物出してくる」
「お任せください。いってらっしゃいませ」
黒音は返事の代わりに尻尾を振る。去っていく裕昌の背を見て、黒音は黒龍に視線をやった。
「黒龍、お前何か知らないか」
「主の元気がない理由ですね」
黒龍は笑みを消し、目を伏せた。
「昨夜、一度目を覚まされたようでした。しばらく黒音を撫でて、抱き寄せられたあと、もう一度眠りにつかれました」
「あいつ、一回起きたのか。気付かなかったな」
「起きたと言っても、ベッドの方からは出たというわけではないので、気付くのには少し難しいかと」
だから、隈が出来ていたのか。それからちゃんと眠れていなかったのだろう。
一度目を覚ましたということは、その原因は外的か、それとも、
「夢、かな」
夢は空想のものから、実際にあった事象まで様々なものを映す。もし魘されるのなら、過去かイフのどちらかだろう。
黒音は裕昌の過去を知らない。今は居候しているが、どんな家族がいて、どんな環境で育って、どんな経験をして、どんな思いをもって今の「裕昌」が構築されたのか知らない。
知ろうともしなかった。何故ならば、黒音にとっての裕昌は、今目の前にいる「裕昌」だけで、それで十分だったからだ。
「たく、人の過去は知りたがるくせに自分のことは何も話さないタイプだな、あいつ」
これは聞き出すしか無い、が。
「今は逆効果ですよ、黒音」
「わかってるよ」
黒音は不機嫌そうに尾を振る。
「こうなったら甘えてご機嫌取りするか」
そう言うと、黒音は丸くなって昼寝をし始めた。
そして、数刻もしないうちに黒音の昼寝には邪魔が入った。
戻ってきた裕昌と、黒龍、黒音の前にいたのは。
「ごめんください。橋を知りませんか」
白い、狐だった。
裕昌は思わず唖然とする。
「人間じゃないお客さんは初めてだ……」
などと口を開けている。
白い狐はふわふわの毛並みに覆われており、尻尾は思いのほかボリュームがある。瞳は澄んだ空色をしていた。
黒音がカウンターの猫用ベッドから、顔だけを出す形で見下ろす。
「お前、妖狐だな?喋れる時点でそうだろうが」
「はい。妖狐です」
何のためらいもなく、妖狐は即答する。裕昌と黒龍は顔を見合わせた。妖怪なら、無害かどうか確かめなければならないが、見たところ害はなさそうだった。
その考えを察したのか、黒龍がそっと耳打ちをする。
「主、妖狐は狐です。化かされている可能性も無きにしも非ず、です」
「そ、そっか」
裕昌は見た目だけで判断した自分の思考の甘さを払い落すように、首を横に振った。
これではいつか、悪い妖怪に騙されてぽっくり、とか言うこともあるかもしれない。気を付けよう。
「私は何と幸運なことでしょう……二百年しか訪ね歩いていないのに、存在に気が付いてくださる方に出会うとは……しかもお優しい方々で……」
「に、にひゃくねん」
裕昌はその年月の長さにめまいを覚えた。妖怪と人間の時間感覚というものは異なりすぎる。しかし、今回に限ってはそんなことはなかった。
「お前、二百年しかっておかしいだろ」
「長すぎます」
黒音と黒龍が口々に言う。狐はその言葉にがーん、とショックを受けていたようだ。
「ううっ、今まではそもそも気付いてくださらなかったり、気付いても悲鳴を上げて塩をかけられたり、とにかく散々な目にあってまいりましたので……」
「か、可哀そう……」
「出会いの運、なさすぎだろ」
三人はそれぞれ狐を哀れんだ。よよよ、と涙を本当に流す狐は、前足で涙をぬぐい、三人の方へ顔を上げた。
「ところで、橋をご存じではありませんか。大きくて木造の橋です」
「橋?うーん、あってもコンクリとか石造りだと思うんだけどなあ」
「木造の橋なんて近頃見ないな。あっても、どっかのお偉い殿様がいたお城とか、時代劇の撮影場所とか、伊勢神宮とかじゃないのか」
「いいえ、この町にあるはずなのです」
裕昌と黒音が首を傾げるが、狐はある、と豪語する。黒龍はこの町のことは良く知らないため、口は出さずにいる。
「黒音、思ったんだけどさ。こいつ、ここに暫く居させてやったらどうだ」
「奇遇だな。あたしもそう思ってた。あたしたちが知らないなら、この町の妖怪に聞くのが一番だし。ま、人畜無害なポンコツだから、裕昌に憑くとかはなさそうだし、大丈夫だろ」
そう言うと、黒音は狐を見下ろした。
「お前、名前は?」
狐は一礼して答えた。
「玉水、と申します」
たまみず。どっかで聞いたことあるな。どこだったっけ。
と、裕昌は記憶の引き出しを開け続けるが、出てこない。
「玉水、しばらくここに居ていいぞ。あたしが許す」
すると、玉水は目を輝かせたかと思うと、たちまちぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
突然の出来事に、三人はぎょっとする。
「よ、良いのですか……?このようなけだものを置いていただいても……?」
「けだものって……あたしだって獣だぞ」
「うう、優しさが身に染みて、目から水が止まりません……」
大袈裟だなあ。と裕昌は苦笑する。黒音はというと、こんなんで生きていけるのかこの妖狐、と内心不安で仕方がなかった。
「と、いうわけで一匹増えたから、不知火もよろしく」
「はあ……」
同じく白い毛並みを持つ不知火の赤い瞳が、珍しく困惑の色を見せる。推定年齢千は優に超えているだろう、最凶の蠱毒は、おそらく人生で一番の脱力した声を出した。昨日の今日で妖怪が増え、しかもそれは狐。困惑と呆れとその他諸々合わさって、思わず声が出た。
『ここは動物園か』
などと心の中でぼやく不知火である。
一方、妖が見えない不知火の飼い主、萬屋菜海はというと、怖気ることなく普段通りだ。
「視えないけれど、そこにいるのはわかるわ。よろしくね、玉水くん」
と、言葉だけかけるのだった。雄狐は、視えないのを承知で元気よく、満面の笑みではい、と頷く。
「ご飯は食べるわよね……?ひろくん、今日は私がお昼ごはん作らせてもらっていい?」
「え、いいの?なみちゃん。じゃあ、お言葉に甘えてお願いしようかな」
以前同居していた老夫婦が店を引退し老人ホームへ住むことになり、五十鈴屋は現在、裕昌一人と妖怪たちだけが住んでいる。しかし、裕昌と黒音は食事が必要だ。お弁当でも作ればいいのだが、それも飽きてきた。そこで、菜海が一つ提案したのだった。
自分たちの食費は出すから、裕昌、菜海、黒音、不知火、黒龍全員分の昼ご飯をまとめて作ってしまう、というのはどうだろう、と。当初は菜海が一人で作っていたのだが、だんだんと申し訳なくなり、裕昌と菜海の交代制で行うことになった。ついでに晩御飯も一緒に作ることが増えている。
裕昌としては、店の手伝いをしていると菜海の帰宅が遅くなり、必然的に晩御飯の時間も遅くなってしまうのが心配だったため、こちらの方が安心だ。帰りは不知火が付いているため心配はないが、午後八時くらいになってしまうと、泊ってもらって構わないことになっている。
普段から優秀な菜海に返せるものとしては、このくらいしかない。給料を上げたくても少し厳しいのが現状だ。
もう少し余裕が出てきたら、給料の値上げも考えている。
閑話休題。
さて、と裕昌は玉水を自分の膝に乗せる。
「不知火はこのあたりに詳しかったっけ?」
「いや、さっぱりだな。日本中をうろちょろしてて、いい感じの段ボールの中で休んでたら菜海に拾われたからな」
そっか、と裕昌は腕を組む。
「なあ、お前たちは何か知らない?木造の橋。ここら辺の」
裕昌がそう問うと、五十鈴屋に住みついている小妖怪たちがわらわらと集まってきた。
「木造?知らないなあ」
「そんな橋あったら珍しくて覚えてるはずだけどなあ」
小妖怪たちが一斉に首をひねる。すると黒音が口を開いた。
「あせびとか、水仙のばばあに聞けばわかるかもしれないな。ほむ姉は鈴鳴怪道からほとんど出てこないからあてにならないと思うが」
これでは情報収集待ちだけになってしまう。今回ばかりは地道に橋を探すしかなさそうだ。
「あたしはあせびとばばあに聞いてみる。丁度顔出す用事があるからな」
「え、まだあの傷治ってないの?」
あの傷とは、がしゃどくろに襲われて負った傷だ。先月はしばらくそれの所為でおとなしくしていたのだが。かなり深かったが、水仙の処方した傷薬で早くに治ったと思っていた。
しかし、黒音は首を横に振った。
「違う違う、あれはもう何ともない。今回は何故か腕を見せに来いって呼び出された」
もう腕を失って何十年も経っているが、今更見せに来いとはどういうことだろう。それは黒音自身も疑問に思っていた。だが、わざわざ橋一つの情報を聞くために往復しなくて済んだ。
「というか、何故橋を探してるんだ?落とし物か?」
「いいえ、人を待たなければならないのです」
白い狐は何かを慈しむような瞳で語る。
「あの方と、迎えに行くから待っててと約束したのです」
不知火と小妖怪たちは健気だな、と思っているが、裕昌と黒音、黒龍の脳裏によぎったのは嫌な予感だった。思い出すのは呪いの刀事件。あれも待ち合わせ云々という話があり、結局二人はすれ違ったまま小さな憎しみを生み出したのだ。それに巻き込まれた裕昌と黒音、呪われていた刀自信だった黒龍には「待ち合わせ」という単語に良いイメージを持っていない。それが妖怪であるならなおさらだ。
「待て。お前、二百年間もそれを守っているのか!?」
「はい」
「相手は妖怪?」
「いえ、人間です」
裕昌は膝から崩れ落ちた。人間が二百年も生きることは現時点では不可能だ。狐はそれに気づかずに彷徨っているのか。
「人間は二百年もしたら大概は死んでるよ」
「それでもいいのです。そこに行けば何かわかるかもしれませんから」
ここまで執着する妖怪は珍しい。妖怪は長生きだからこそ、関係的なものに関してはすぐに吹っ切れたりする。
ま、あたしは人の事言えないんだけどな。と黒音が首の後ろを後ろ足で掻く。
「じゃあ明日、地図でも広げて探してみる?」
裕昌は地図どこにあったっけな、と口元に指をあてる。昔、小学生、中学生の頃に地図帳を使っていたな。しかし、すべて捨ててしまっている。アナログの地図があればわかりやすくて見やすいのだが、どうやらインターネットに頼るしかないようだ。
一瞬、景色が浮かんで消え去った。橙色の、寂しい風景。ざっくりとしか映らなかったその景色を、裕昌は覚えていた。裕昌の表情に影を落とす。
ああ、あの日の授業って社会だったっけ。
首をふるふると横に振って、先ほどの光景を忘ようとする。
「明日定休日だし橋探し、俺も手伝うよ」
「ありがとうございます……!」
「あたしは薬屋の二人に聞いてみるよ。あと泣くな」
既に目を潤ませている狐に黒音は容赦ない。裕昌は苦笑を浮かべた。
「みんなー。ご飯できたよー」
菜海が居間のほうから顔を出す。今行くよ。と返す裕昌の後に、黒音、玉水、不知火、最後に黒龍が続く。だしの優しい香りが漂っている。
「今日はきつねうどんにしてみました」
菜海がにっこり微笑んだ。
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