黒猫と護りの刀 5
* * *
無。
無。
無の中で漂っている。
感覚はなく、意識はなく、自覚はなく、自我はなく。
浮かんでいる。
只々、どこまでも黒い世界が広がっている。
黒。
黒。
純粋な黒。穢れすら知らないその空間は、どんな外部干渉も受けないはずだった。
あの時までは。
…………声が聞こえた。
聞こえるはずがないのだ。人の器を持たない、自分には。私、僕、俺、という一人称すらも持っていない。
■は、しかし確かに声を聞いた。
ニクイ。ウラヤマシイ。イトシイ。
誰の声だろう。知らない、いや、知っている。眠っている間に聞いた、幾つもの声の中の一つ。
『―――――――――――――――――その声、応えてやろう』
もう一つ、聞こえた。
恐ろしく、畏ろしい声を。
なかったはずの自我が、はっきりとした形になって意思を持つ。
……どこからそんなものが芽生えたのだろう。
そんな疑問が浮かんだのに、思考は黒く塗りつぶされてしまう。
■は、その声に応じてしまった。
たった一つの想い。意思が芽生えるずっと前からあった気がするもの。それを叶えたいがために、応えてしまった。
伸ばされた手を、何も考えず掴んだ■は、さながら――――――――――。
◇ ◇ ◇
ニクイ。ウラヤマシイ。イトシイ。
その声は、確かに微弱とはいえ憎悪を孕んでいた。
なのに。
とても哀しげだった。
見たことのない、しかし知っている景色が走馬灯のように流れる。
ああ。なんて哀しい。
なら、彼女の想いに答えたいと思ったのだ。
◇ ◇ ◇
止められない。何が善か悪かもわかっていない。きっと破滅しかないのだ。
彼女の想いは今消えた。なのに。■は■を止められない。
手を伸ばしてくれた青年。青年を救おうとする妖怪。彼らを傷つけてしまうのだろう。
もう嫌だな。自分の意思ではなく傷つけてしまうのは嫌だな。
それが、初めて抱いた人間的な感情だったのだろう。それか、本体そのものに刻まれた性なのか。
紅い揺らめきが、黒く塗りつぶされていく視界に映る。
いっそのこと。
その炎で溶かしてくれたらいいのに。
こんなことになるなら、生まれるんじゃなかった。
そして、何の間違いか、■は生き残ってしまったのだ。
◇ ◇ ◇
彼は、名をくれると言った。
彼は、笑顔でいて欲しいと言った。
彼は、いってらっしゃいと言った。
彼からもらったものは些細で何でもないものだけれども。
それが、とても温かかった。
これが温もりなんだ。
カーン……、カーン……、カーン……
心地よい音に微睡みながら、想う。
なりたい自分……。それは、彼を□□□に――――――。
◇ ◇ ◇
* * *
落ちたその閃光は白銀だった。砂埃が舞う。正体が見えないまま、一頭の雷獣を光が両断した。一頭の雷獣は妖力と身体機能を維持できなくなって消滅した。
「主の呼び声に応じ、馳せ参じました」
凛とした声が聞こえる。砂埃の中の影はこちらを振り向いた。砂塵は徐々に落ち着き、雲がかった月が徐々に晴れるがごとく、その姿形があらわになっていく。
肩より上までしかない髪は黒く、白と黒のコントラストが絶妙な着物を身に着け、手には二尺ほどの打ち刀。瞳はアメジストのような美しい紫。
その人物は、主の姿を見つけると子供のようににっこりと微笑んだ。
「黒龍、無事生まれ変わって戻ってまいりました!」
裕昌と黒音はぽかんと口を開けて呆気に取られている。
「え。お前誰?」
黒音が思わず問う。黒音のみならず、裕昌までもが心の中でそう思ったほどだ。
笑顔でいて欲しい。そう願ったのは裕昌だ。確かにその想いは反映されている。
だがしかし。以前のあの無口で恥ずかしがり屋で今にも消えそうな儚さを持った女性とは思えない変わりようで、裕昌達の脳の処理が追い付いていない。
仲間を殺され、残された雷獣二匹が怒りの雄叫びを上げる。黒龍は雷獣を見据えると、その手に持った刀を構えた。すらりとした刀身は、触れれば切れてしまうような、澄んだ美しさを放っていた。
「主。ここは私に任せていただけますか」
そう問われた裕昌は、先ほどまでの混乱状態から一転して、高揚感のような歓喜にも近い感情で胸が満たされていた。
自分だけの、自分のための護身刀。彼女は紛れもなくあの呪いの刀で、しかし、裕昌の願いに応えてくれた存在。
ゲームで強キャラが味方に付いたときのような頼もしさ?いや、そんなことよりも。願いに応えてくれたという事実が、どうしようもなく嬉しかった。
だから、護身刀に向かってしっかりと頷いた。
「うん。任せた」
背を向けながら、主人の答えに満足げな笑みを浮かべる。そして、すぐに獲物と対峙する不敵な笑みへと変化した。
雷獣親子が同時に雷撃を放つ。彼らも目の前にいる存在を脅威ととらえたのか、今までのものよりも激しさを帯びている。
しかし、二体分の雷を黒龍は造作もなく刀で弾く。
「遠距離攻撃など、弾いてしまえば無力です。さあ、その牙と爪で殺し合いましょう」
雷獣二匹は雷をまとわせた爪で黒龍に襲い掛かる。黒龍が防ぎ、攻撃、雷獣が防ぎ、攻撃。その攻防を幾度も繰り返す。華麗な身のこなしで攻撃を躱す黒龍の姿を見て、裕昌は再びあの夜の出来事を思い出す。
この姿に、あの夜見惚れてしまったのだ。彼女に関わった件はトラウマものだったとはいえ、呪われていた時よりもずっとこの姿のほうが好きだった。
雷獣が爪で黒龍の右肩を着物ごと裂いた。しかし、その肩からは血は流れていない。傷にも動じず、黒龍は確実に雷獣に手傷を負わせていく。
一方そんな様子を見ていた黒音は、ぎり、と歯噛みする。
正直言って悔しかった。自分が怪我をしているとはいえ、手こずった雷獣を一匹のみならず、二匹も同時に相手をしているのだ。
裕昌が戦力として助けを求めた、ということにも嫉妬していた。
もっと強く。もっと、もっと、もっと、もっと強くならなければ。仇敵大蛇にも敵わないどころか、この付喪神にでさえ勝てるかどうか。
水仙に止血してもらったはずの傷口がやけに疼いた。
さて、見事にほとんどの攻撃を防がれてしまう雷獣二匹は、どうやら雷で攻撃する体制に入ったようだった。
先ほどよりも更に激しく、びりびりと肌を刺すような雷を。二匹は追い詰められた獣の目をしている。あせびの毒と、黒音の炎、黒龍に負わされた傷。満身創痍だというのに追い詰められてなお、最後の力を振り絞って全力で抵抗する、往生際の悪さ。ただがむしゃらに力を解き放つ獣を止める術はない。
「――――――――その程度ですか」
黒龍は裕昌たちに背を向けて誰に向けたものなのかわからない言葉を紡ぐ。
「負けたまま終わってしまうほどの力なのですか。貴女は」
裕昌たちは誰に向けられたものか分からず、その言葉の意味を掴みあぐねている。ただ一人を除いては。
「では、遠慮なく。私が主の一番にならせていただきます」
「……は、言ってくれるじゃねえか……!」
ただ一人、今までの言葉が自分に向けられていたと気が付いた黒音がにやりと口端を吊り上げた。脇差――紅龍を地に刺し、それを支えに立ち上がる。
「ぽっと出の付喪神に後れを取ってたまるか!」
あ、と制止しようとした裕昌の声も気にせず結界の外に出る。あとで怒られるだろうが、仕方ない。紅龍に妖気を集める。血が熱い。沸騰しそうなほど昂っているのがわかる。次に、四肢から急速に熱が失われていくのがわかる。
いや、脇差に集まった妖力が熱を帯びて、火のように、炎のようになっていく。外が熱すぎて、体温を感じなくなっているようだ。
必ず雷獣共を討ち取る。付喪神に手助けされ、挙句の果てに譲られたのは癪だが。
雷獣が先に動いた。雷はまるでSF映画のように光線となって黒音と黒龍に向かって真っすぐ飛んできた。だが、黒龍が黒音を守るように刀で防ぐ。
ああ、そう言えば妖力を断つ力なんてもの持っていやがったな。なんてことを思い出す黒音である。ならば、こちらはその存在ごと消し炭にしてやる。
さあ、こちらも準備は出来た。後はタイミングを見計らって燃やすだけだ。
もうすぐ光線が尽きようとしている。黒龍は合図を出した。
「今です」
それと同時に黒音が軻遇突智の炎を放つ。黒龍は自分の背に炎が迫ったのを確認して、跳躍して躱した。炎が雷を巻き込んで雷獣二匹に向かっていく。炎に呑み込まれた雷獣は、苦しみ悶えながら消失していった。
敵が消滅したことを確認し、黒音は安堵のため息をついた。同時に、視界がぼやけて足元がおぼつかなくなる。倒れ込みそうになったところを、誰かに抱えられた。
空を見る。空を見たはずだったのだが、視界には心配そうにのぞき込む裕昌の顔があった。
心配そうだった裕昌の表情はたちまち眉が吊り上がっていく。
「ばか。無茶ばっかりして。しばらくは安静だからな」
その語気が怒るというにはあまりにも優しさを孕みすぎて、黒音は、
「はーい」
と素直に返事をしたのだった。
意識を手放す寸前。自分を抱きかかえるその手がやけに大きく感じ、温かく、不意に男らしいと思ったのだ。変な感情が胸の内を満たす。それに気が付いた黒音はどうしてか、恥ずかしくなった。
◇ ◇ ◇
今思えば、私は未熟児だったのだろう。欠陥だらけだった私の心と
カーン……
―――君には笑顔でいて欲しい、かな。
カーン……
―――きっと、笑顔のほうが似合うと思うんだ。
カーン……
―――え、と……うちに来る?
カーン……
足りなかったものが埋められていく。年月は足りないけれど、この想いなら十分すぎる。たった三つの言葉だけでこんなにも眩しいのなら、この先どんなことになるのだろうか。
……ああ。そっか。これが幸せというものなんだろうか。
いつの間にか、あの音は止んでいた。心地よかったのに、と少し残念に思った。
私は二回、伸ばされた手を掴んだ。何も考えずに。さながら赤子のように。
でも、今回は違う。自らの意思で、彼の刀となろう。
溢れる想いは急速に落ち着きを取り戻し、思考をクリアにしていく。更に感覚が研ぎ澄まされ、意識がはっきりとしてくる。いつも付いて回ったあの黒い靄はなくなっていた。
『――――――――――――――――――!』
その声はとても遠い。しかし、すぐに飛んで駆けつけることができる自信があった。
彼が呼んでいる。
◇ ◇ ◇
烏丸は何もなくなった作業台を眺めていた。先ほどまでここに一振りの刀を置いていたのだが、綺麗さっぱりなくなっていた。完成はしているからいいのだが、もう少し手を加えたかったのが本音だ。
「兄やん。それ蛇足っていうんだぞー」
呑気な狐丸はお茶と団子を傍らに休息をとっている。
「あの完成が刀の姉やんらしいと思うんだよねー、丸は」
「…………まあ、そうかもしれないな」
ずず、とお茶をすする音が鳴った。
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