黒猫と護りの刀 2
裕昌の目が再び覚めたのは、大体朝の6時だった。そこで、はっと気が付いた。そういえば五十鈴屋のことをすっかり忘れていた。老夫婦もいるし、菜海も来る日だ。
「やべっ」
ばたばたと取り敢えず帰る支度をする。毛布は綺麗にたたみ、自分の姿を確認する。服には黒音の血がべったりつくどころか、もはや染物のようになっているが仕方がない。
「あら、おはようございます。早起きですね……」
ふあ、と欠伸をしながらあせびが顔を出した。
「おはよう。ちょっと家に帰って色々事情を説明してくるから!」
「じゃあ、家の方まで送りますよ」
いいよいいよ、と手を振って遠慮する。流石に家の方までは申し訳ない。
「大丈夫です。10分ほどで送れると思いますので」
ん?
裕昌の頭にはてなが浮かぶ。見送る、という意味でとらえていたが、どうやら違うらしい。ここから家までは歩いて、走っても30分はかかる。それを10分で着くようにするなら、車でも使わないといけないが。
「え?どういうこと?」
「はい。ですから、飛んで運びます」
あせびの笑顔はとても眩しかった。
じゃあ黒音のこと、よろしく。と頼まれた刀の付喪神は、依頼主が消えていった空を見上げていた。そこに、昨晩出かけていた水仙が、小屋から出てきた。付喪神の隣に立つ。
「あの坊主なら大丈夫じゃろう。あせびの運搬はやや荒いが、酔うまでではなかろうて」
水仙が付喪神を見上げる。付喪神は相変わらず表情が読めない。だが、長い時間を生きてきた水仙には、生まれて間もない付喪神のことなど手に取るようにわかる。
「今の因縁。断ち切りたいかい?」
突然の質問に、付喪神が僅かに動揺する。図星か。
「……どのように」
水仙はにやりと口端を吊り上げる。まるで子供がいたずらを思いついたかのように自信に満ち溢れた笑みだった。
「もちろん、打ち直す。生まれ変わるということじゃよ」
人間は徐々に行動し始めている。朝早くから学校や仕事場へ向かう者、犬の散歩をするもの、朝のジョギングをしている者。その頭上を、普通の人は視ることができない鷲ほどの大きさの鳥が飛んでいく。その脚には一人の青年がぶら下がっていた。いや、獲物のように捕まえられていた。
「ど、どういう仕組みで飛んでるんだ……」
鷲ほどの大きさしかない鳥が、成人済み男性を持ち上げて飛ぶとはどういうことだ。明らかに大きさと運ぶ重さが比例していない。
「そこは、妖力の関係でどうにかなっちゃってるんですよー」
なんて都合のいい妖力という力。下手をすればなんでも解決してしまうのではないだろうか。
「まあ妖怪にも得手不得手というものがありますからね。例えば私は鴆なので、毒と飛行系の妖力が使えます」
「なんとかモンスターのタイプとか、ラノベでよくある属性とかみたいな?」
「そうそう」
なるほど。これはわかりやすい例えだ。と、納得してしまう裕昌だった。
もうすぐ五十鈴屋だ。さて、どこに降りようか。玄関前に降りても、人通りが多くなってきている。ならば、庭の方が良いだろう。
「あせび、庭に降りてくれない?」
「かしこまりました」
あせびが急降下する。裕昌は振り落とされまいと、何とかあせびの足にしがみつく。そして、無事に着陸した。
「また何かあれば送ってあげますよ」
「うん、ありがとう。…………もういいかな……」
最後は本当に小さな声だった。裕昌は地に立ったもののしばらく足元がおぼつかず、ジェットコースター乗車後の独特の浮遊感のようなものに襲われていた。
裕昌は乗り物酔いをしやすい体質である。故に、あせびのちょっと荒い運搬で危うく酔う寸前まできていた。
少し顔色が悪い裕昌が家の中へ戻っていくのを見届けたあせびは、羽ばたいて水仙堂へ帰っていった。
裕昌は音を立てないように家の中へ入ると、まず、自分の部屋へ向かった。プルオーバーパーカーとジーンズと下着などなどを取り出す。そして、風呂場へ向かう。
ひとまず体に付いた血を洗い流す。来ていた服も持ち込み、さっとシャワーで濡らす。裕昌は着替え終わると、シャワーで濡らした服に漂白剤を塗布し、洗剤を溶かした液につけ込んだ。赤黒色のものが滲み出る。これで何とか落ちるだろう。後で洗濯物と一緒に洗濯機で回してしまおう。
次は、朝食の準備である。現在は7時前。もうすぐ老夫婦が起きてくる時間だ。
献立はあせびに運ばれている最中に考えておいた。簡単にできるもの三つ。
まずはだし巻き卵。卵に適量のだし醤油を混ぜ、焼いていく。次にほうれん草のおひたし。そして、冷蔵庫に余っていた鶏肉のそぼろを生姜と醤油、みりんなどと合わせ、白米の上に乗せてとりそぼろ丼にする。時短朝食の完成である。後は味噌汁なのだが、出汁と味噌だけはちゃんと作り、具材は乾燥わかめ、麩、乾燥ネギを使用する。
「よし、何とかなった……」
ここ数年で鍛えられた家事力をフルで稼働させ、すべてのタスクをこなしていく。残るは洗濯物を干すのと店の開店準備。これらは老夫婦が起きてからで問題ない。
開店準備を終わらせたあと、なるべく早く黒音のもとへ戻らなければ。
少し、一休み。
裕昌は冷蔵庫からよく冷えたお茶を取り出した。想像以上に喉が渇いていたらしい。500mlのペットボトル一本をあっという間に飲み干してしまった。
「あれ?裕昌、黒猫は~?」
「姿が見えませんが……」
「も、もしかして噂してた妖怪に食べられちゃったとか……!?」
小妖怪たちがわらわらと集まってくる。
「食べられてないし、勝手に殺すな、って黒音に怒られるぞ……。黒音は大怪我を負ったから静養中」
裕昌の脳内では、黒音が甲高い声で講義をするさまが浮かび上がった。
「裕昌……、結構疲れてる?」
「大丈夫か?覇気がないぞ?」
「うん……大丈夫」
小妖怪たちが裕昌の顔を覗き込む。
ほぼ徹夜、髑髏との戦闘、あせびの飛行、黒音を心配する心労などが重なって、顔色は見せられる物じゃないだろうな、と裕昌は思う。
ふう、とソファに倒れこみ、そのままうとうとし始めた。二時間ほどしか睡眠がとれていない。少しくらい、そうだな、十分くらい寝よう。
そう思ったのが、3時間前だった。
「……、……っ!?嘘おっ!?!?!?!?」
裕昌は時計を見て驚愕する。針は10時前を指していた。
慌てて店の方に出ると、菜海と老婦が談笑していた。ついでに不知火もいる。
「あら、ひろくんおはよう」
「おはよう、じゃなくて!ばあちゃん、起こしてよ!?家事、俺がやるって約束だし!」
「あらあら、だってすっごく疲れてそうな顔してたのよ?」
「そんなの気にしなくてよかったのに……ご飯は!?」
「おいしくいただきました。だし巻き卵、おいしかったわねえ」
ゆっくりとした口調でにっこり微笑む。ひとまず朝食は無駄になっていないようで安心した。
「じゃあ、お爺さんのところに行って手伝ってくるわねえ」
「うん、ありがとう。行ってらっしゃい」
老婦はくしゃっ、とした無邪気な笑みを浮かべて、可愛く手を振る。まるで子供の用だ。
「菜海ちゃんもごめん。お店任せちゃって」
「ううん、気にしないで。ゆっくり眠れた?」
「うん。爆睡だった」
裕昌は苦笑してそういった。
「そういえば、黒音ちゃんはどうしたの?」
「あ、えっと、そのー……」
裕昌はなんと説明しようか迷う。だが、嘘をつくことは嫌だった。
裕昌は正直に、昨晩の事の顛末を菜海と、不知火に話した。
「そうだったの……。じゃあ、早く黒音ちゃんのところに戻らなくちゃ」
「まあ、一応傷は治してもらったみたいだけど」
「でもね、きっと黒音ちゃんはひろくんに近くにいてほしいと思うの。だって、二人ともとっても仲良しでしょう?信頼できる人が傍にいてほしいって、弱ってるときはそう思うものよ?」
裕昌は菜海のやさしさが身に染みて思わず涙がでそうになった。
『優しすぎる……!優しすぎるのにFPSゲームは上手いというこのギャップ……』
オンラインゲームというものには、必ずといっていいほど暴言やら妨害行為やらマナー違反やらチート使用者やらが一定数いる。その中でよくこんなに純粋に育ったものだ。いや、もしかしたら浄化してきたのかもしれない。
などと埒もないことを思った裕昌であった。
「安心しろ。俺が見ておいてやる。まあ、賢い妖怪はここには近づかないだろうからな」
最凶の蠱毒でもある不知火がそう言うとやけに信憑性が増す。裕昌は二人を信用し、店番を老夫婦と共に任せることにした。
水仙堂に着いた裕昌は、しばらく膝をついたまま項垂れていた。裕昌は顔面蒼白になりながら、あせびの方を見る。
不知火と菜海に店をまかせた後、玄関に出てみれば満面の笑みであせびが待っていたのだ。そのまま連行され、激しい羽ばたきと猛スピードの相乗効果を体験し、今に至る。
「……ちゃんと道覚えとこう……」
多分これからも水仙堂に訪れることになるだろう。そのたびにあせびが送り迎えをすることだけは何としてでも避けなければ、体がもたない。
「戻ってきたか」
水仙が小屋から顔を出す。その隣には刀の付喪神がついて来ていた。
「裕昌、少し話がある。あせび、すまんがあの小娘を監視しておいてくれ。目覚めたら何をしでかすかわからんからの」
「承知いたしました」
あせびがててて、と駆け足で小屋に入っていく。水仙と付喪神は、裕昌の前までやってきた。
「裕昌よ。一つ問う」
その真剣な面持ちに、裕昌はごくりと唾をのむ。何を言われるのだろう。黒音の事か、それともほかのことで何かまずいことがあったか。
「お主、護身刀はほしくないか?」
予想していなかった問いに裕昌の頭にはてなが浮かぶ。
「ご、護身刀……?」
そうだ。と言わんばかりに水仙が頷く。
「これからも火夜……黒音に係るのであれば、お主の身にも危険が及ぶことは多々あるだろう。それに、今の黒音にはお主を守る力の余裕がほとんどない」
裕昌は大蛇の話を思い出した。黒音は左腕を奪われたときに、妖力もごっそり持っていかれたのだと言っていた。
「それは、欲しいけど……俺、刀持ったことないし、中学の時に体育の授業で剣道やったくらいだし……」
「それは心配ない。なぜなら刀には意思が宿っているのじゃからな。いざとなれば刀がお主を守るじゃろうて」
裕昌は目をぱちくりとさせる。
「それは、どういう……」
「彼女はどうやら生まれ変わることをご所望の用じゃ」
水仙は優しい瞳で、刀の付喪神を見上げた。
「お主の刀として、な」
* * *
銘もなく、意思もなく、武器としてただ振るわれる。
その結末はいつも、誰にも知られずに折れていくか、置物と化すかの二択だった。
たった一つの拠り所は、自分を知っている、「主」という存在だけだった。
* * *
かーん、かーん、かーん
鋼を打つ音が響く。その音を、裕昌は知っていた。テレビ番組で一度見たことがある。匠が物を作り出すときに生まれる音色。
「ごめんくださーい」
音が止まる。槌を打っていた背中が、ゆっくりと動き出した。
目元には刀傷、鋭い眼光に筋骨隆々とした体躯、褐色の肌に金色の瞳が映えている。
その威圧感に裕昌は思わず気圧される。
「あの、護身刀が欲しいと依頼したもの、なんですけど……」
男は裕昌とその斜め後ろにいる付喪神を見ると、低い声で一言、
「はいれ」
とだけ言った。
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