黒猫と最凶の蠱毒 5

 菜海の研修が終わり、二人、いや一人と一匹は既に帰宅した後。


「黒音、どうだった?」


「あいつ、かなり図太いぞ。あたしが構ってやろうとしたら知らん顔して寝やがった……!」


 黒音は構ってもらえなくて寂しかったのか悔しかったのか、ぎりぎりと歯噛みしている。

 その様子を見た裕昌は、今日は思う存分かまってやろうと、部屋の片隅にある猫のおもちゃ箱をあける。釣り竿型の猫じゃらしを取り出すと、左右に振り始めた。

 本能を刺激され、黒音は激しく動くネズミのぬいぐるみを追いかけまわす。


「ふっふっふ、しかと見よ、あたしの大ジャンプ!」


 黒音は華麗な空中一回転を披露する。おおー、と裕昌は歓声を上げるのだった。


「ところで、いつぐらいに出かけるんだ?」


「うーん、夜の9時くらいかな。今日はとりあえず、知り合いのところに行ってくる」


「知り合い?」


「ああ、毒とか薬に詳しいやつらがいるって言ったろ。そいつのこと。まあ、機会があればお前も会うかもしれないな」


 裕昌は、黒音の知り合いか、と小さくつぶやいた。多分妖だろう。毒や薬が専門ならば、黒音が怪我をしたときはその人に会いに行けばいいのか。

 じっ、と黒音が裕昌を見つめている。


「な、なんだよ」


「何度も言うが、夜は絶対に出歩くなよ。おとなしく布団の中で過ごしておけ」


「わかったって」


 釘を刺されたのをまた深く刺され、裕昌は夜はおとなしくしておこうと心に決めるのであった。

 



 黒音は夜明け前に戻ってきた。何故か、例の刀の付喪神がうろうろしていたのが気になったが、特に問題はなさそうだったため、裕昌の部屋へと戻っていった。





 黒音が戻ってきて一時間と数十分が過ぎた。五十鈴屋の一階はしんと静まり返っている。

 今日は月明りも少ない。差し込むのはわずかな街灯の光だけだ。

 黒く長い髪の女の姿をした刀の付喪神が、件の壺を眺めている。

 ふと、光が差している場所が影で覆われた。付喪神は振り返りざまに影を両断する。


 しかし、真っ二つに裂けた影はゆらりと陽炎のごとく溶けていった。





 朝、裕昌はいつもの時間帯に起きる。六時ごろに起床し、郵便受けの確認と朝食の支度は毎朝のルーティーンだ。しかし、今朝はそんな気分ではなかった。異様に疲れている気がする。体が重い。


「なんだ……?昨日張り切りすぎたか……?」


 いやそんなわけないと首を振る。大したことはしていない。激しく動いたと言えば黒音と猫じゃらしで格闘していた程度だが。

 倦怠感を覚えて、洗面所に足を運ぶ。蛇口をひねり、手で冷水を掬うと躊躇いもなく顔を水で洗い流した。


「うーん、大分すっきりしたかな」


 心なしかシャキッとした気がする。ふと、階段の方から小さな足音が聞こえた。


「裕昌おはよー」


「おはよう、黒音」


 黒音は、くあー、と大きく口を開けて欠伸をする。そしてそのまま床にへにゃっと伸びた。


「黒音?どうした?」


「裕昌あー、抱っこ―」


 黒音の聞きなれない声音に困惑する裕昌。子供のように駄々をこねるのは珍しい。

 床で寝て、踏んでしまったら大変だ。とりあえず、裕昌は黒音を抱きかかえた。

そのまましばらく裕昌の腕の中でうとうとしていた黒音は、唐突にはっと、飛び起きた。


「なんだこのやる気がでない感じ……!気を抜くとついつい怠けるぞこれ……!」


「やーい怠け者―」


 いつもの調子に戻った黒音を見ながら、裕昌が茶々を入れる。一拍置いて、黒音の猫パンチならぬ、猫キックが裕昌の顎を直撃した。衝撃に思わず両手で顎を抑えてうずくまる。

 裕昌の腕から解放された黒音は華麗に着地を決めると、ぶんぶんと首を横に振り、怠惰な衝動を振り払った。


「裕昌!蛇口の水出してくれ!顔洗う!」


 裕昌は蹴られた顎を擦りながら、蛇口を捻った。念のため洗面器に水を張ると、黒音はそこに顔を突っ込んだ。

 猫が水に顔を突っ込むところなど見たことがない。珍しい光景に裕昌が目をぱちくりさせている。バスタオルを用意して黒音の洗顔が終わるのを待つ。


「ん、ありがと」


「どういたしまして」


 びっしょり濡れた黒音の顔を、裕昌がふわふわのバスタオルで包み込む。一通り乾かすと、黒音はぶるぶると顔を振った。


「ところで、昨日の収穫はどうだったんだ?」


「大したものは何もなかった。頼りにしていた知り合いの方には会えなかったしな。若いほうしかいなかった。ったく、どこで何やってんだか」


「若いほう?」


「ああ、あたしの知り合いってのは薬屋をやっててな。若いほうっていうのは見習いだ。今回尋ねたのは長生きしてる店主のほう。ま、長くなるから、この話はまた今度」


 なるほど、と裕昌が相槌をうつ。その知り合いとやらの話、今度詳しく聞こう。

 ふと視線を感じて裕昌は振り返った。扉の陰から、白いワンピースの裾がちらちらと見えている。

 なにか用があるのだろうか。


「どうした?」


 一応声をかけてみる。が、白い裾はどこか慌てたように引っ込んでしまった。

 

「裕昌?」


 胡乱げに眉を顰める黒音。刀の付喪神に気が付かなかったのだろうか。


「なんでもない。朝ごはん作らないと……」


 行くぞ黒音、と体の重みを無理やり払うように、元気よくキッチンへと向かった。




 数日後。


「ぜっんぜん倦怠感治らないし……」


「さらにここ数日情報収集に出かけたものの、収穫はゼロ……」


 店番をしながら裕昌と黒音は机に突っ伏していた。少し気になる程度の倦怠感は、悪化の一途をたどっていた。

 さらに蠱毒の壺の対処法を調べに出かけていた黒音だが、成果は見ての通り全くない。


「こんにちはー」


 菜海の声が聞こえる。もうシフトの時間か。


「えっ……!?裕昌さん!?大丈夫ですか?」


「あー、うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけだから」


 力ない笑みを返す。が、どう考えても大丈夫なわけがなかった。黒音と裕昌は、同じことを昨晩から考えていた。

 どう考えてもこの状況はおかしい。

 なにか原因があるはずだが、あるとすればあれしかない。怪しい壺。

 蠱毒の瘴気でも漏れているのだろうか。しかし、陰陽師によって厳重に封印されているはずなのだが。

 裕昌はもちろん、黒音もここ数日はあの壺に近寄っていないし、触ってもない、様子を見てもいない。


「萬屋さん、ちょっとだけここ頼めるかな。飲み物取ってくる」


 裕昌が席を外すと、いつもの定位置で丸くなっていた黒音と菜海が取り残された。

 ふと、黒音が背後に気配を感じた。


「……、どうしてこの間、その壺のそばにいた」


 返事はない。


「少しでも裕昌に危害を加えてみろ。あたしがその刀へし折ってやる」


 黒音の忠告を聞くと、音もなく気配が消えた。

 黒音自身、ああ言ったものの、今回の壺の件に関してはあの付喪神は関係なさそうだと目星をつけている。しばらくは泳がせておいてもいいだろうと。

 それにしても。


「こう体が怠くっちゃなあ……。やる気も削がれるってもんだ」


 へのん、と溶ける黒音。ただでさえ情報収集に行き詰っているのにこの体たらく。我ながら情けない。

 蠱毒は思っている以上に厄介だ。妖怪といえど、呪いの類には汚染される。対処法がないとなるとお手上げだ。


「ありがとう、萬屋さん」


 裕昌がペットボトルの水を手に戻ってきた。


「萬屋さんも疲れとかあったら全然休んでくれていいよ」


「ありがとうございます。でも、今は大丈夫です。とても元気です!」


 菜海の言葉通り、ぴんぴんしている。その様子を見ながら若いっていいなあ、としみじみ思う裕昌であった。歳は二つほどしか変わらないが。


「うち、前も言ったけどちょっと色々いるからさ。何か不調があったらすぐ報告してね」


「はい」


 そういうと、菜海には少し事務作業を手伝ってもらい、客を待つ。何事もなく一日は終わりを迎えた。





 裕昌と黒音の不調は日に日に酷くなっていった。最初は倦怠感だけだったのが、頭痛や微熱を伴うようになっていったのだ。

 そうして、黒音は漸く気が付いた。

 

「……なんで今まで気が付かなかった……!」


 夜、違和感を覚えた黒音が下に降りると、そこにはまだ薄いが、瘴気が充満していたのだ。瘴気は人にも妖にも毒になる。濃ければ濃いほど死に近づく。酷いものは瘴気に触れただけで骨だけになってしまう。

 今すぐに瘴気を浄化しなければならないが、生憎黒音にそんな力はない。浄化できるのは陰陽師、巫女、神くらいか。

 ふと、壺の裏から何かの影が黒音に向かって飛び出した。


「ちっ!」


腰に佩いた刀で両断する。しかし、影はただ瘴気をまき散らしただけだった。


「くそっ、瘴気の塊か」


 肘から先がない腕で何とか鼻と口を覆う。まだ、吸って内臓が爛れるほど濃くはない。

 もう一つ、影が飛び出した。黒音が斬ろうとしたその瞬間。

 一筋の光と共に、漂っていたはずの瘴気が綺麗になくなった。

代わりに、白い衣をたなびかせた女が刀を握っていた。


「……お前、そんな力隠してやがったのか」


 黒音が低く問う。付喪神は答えない。

 付喪神が瘴気を斬った。更に斬っただけではなく、浄化もしたのだ。

 すると、付喪神は壺を指さした。


「何?」


 黒音が胡乱げに眉を顰めるが、付喪神は無言で、ちょいちょいと指をさしている。

 黒音は仕方がないと言わんばかりに、壺に近づいた。


「あのなあ、口で言わなきゃわからないこともあるんだぞ。お前はんだからちょっとは……」


 意思疎通を図ろうとしろ、と言おうとした時だった。黒音は重大なことに気が付いた。壺の蓋に縄と一緒についていた霊符、それが気になった。何故瘴気が漂っていたのか、その答えがこの霊符だ。


「おいおい、これ偽物じゃねえか……」


 確かにこの壺を預かった時は、れっきとした霊符だった。その証拠に、結界の残滓も残っている。だが、今この場にある霊符は何の効力もない、ただの紙切れだ。元の霊符はというと、縄と蓋の間に挟まった、黒い塵だと思われる。

 何者かが霊符を無効化し結界を解いてしまい、瘴気が漏れ出した。気づかれないよう、ご丁寧に偽物の霊符を用意して。


「お前、誰か見たか」


 黒音の問いに付喪神は少し思案するそぶりを見せた。しかし、首を振る。


「これは警戒態勢に入らないとn」


「姿は見ていません」


 突然、付喪神が声を発した。思わぬ展開に黒音は固まった。


「何かの影は見ましたが」




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