黒猫と呪いの刀 5

 ひやりとした冷たい木の感触が足の裏を伝う。

 ひたひたという不気味な足音に、何かを引きずる音が混じる。月明かりのみに照らされた廊下を人影がゆらゆらと歩いている。

 自分がだれか、此処は何処か。そんな疑問が、答えを得ないまま浮かんでは消えていく。 

 ただ思うのは、憎い。殺したいほどに憎い。影は一直線に奥の部屋へ向かう。その一室だけ、蠟燭の灯が揺らめいている。その障子には小さく丸まっている影が一つ。少し空いた障子の隙間から風が吹き、蝋燭の灯が消える。代わりに、障子に廊下にいる人影が照らし出される。

 老人が怯えた目で人影を見ている。人影は右手をおもむろに振り上げた。その手には鋭く光る、長いものが握られている。人が振り上げる動作をするとき、たいていは何かを壊すため。  

 たとえそれが、人の命であろうとも。

 手がその光るものを振り下ろそうとする。

 しかし、その少し前に外殻である人間の中の理性が復活した。


「っ!?」


 生気のなかった瞳に光が宿る。

自分が何をしようとしているか理解するのに少し時間がかかる。自分は誰で、どこにいるのか。深呼吸でもして考えたいところなのだが、そんな悠長なことはしていられない。

 自分の名前は五十鈴裕昌。それが分かるだけで十分だ。


「なっ!か、体が勝手、に……!」


 自分の手を見ると、あの刀が握られている。裕昌は刀を見て息を吞んだ。徒人には視えない、濃密な黒い霧がかかっている。裕昌の理性でとどめている刀が、わずかに動いた。


「逃げて!」


 老人が慌てて数歩ほどの距離を這いつくばって後退する。それとほぼ同時に、先ほどまで老人がいた場所の畳に刃が刺さっていた。

 裕昌はひやりとした。あと数秒遅かったらこの部屋には血だまりが出来ていたことだろう。再び刀が勝手に動き出す。

 裕昌は何とかして止めようとするが、腕が自分のものでなくなったように言うことを聞かない。


「ぐうっ……!」


 刀が老人にまた斬りかかろうとする。刀の軌道を少しでもずらそうと力ずくで引き寄せる。老人も、顔を見知った青年に殺意がないことを理解すると、冷静さを取り戻したのか、なんとか逃げようと部屋中を腰が抜けたまま這いずり回る。三回、四回、五回、と刀が振り下ろされる。

 裕昌は肩を上下させ息をする。全力で刀をコントロールしようとしていたが、それも体力の限界だ。

 ふと、刀が、いや、裕昌の手が刀の刃の向きを変えた。


「え?」


 その右腕が勝手に水平に動く。その先にあるのは裕昌の首だ。

 

 あ、まずい。


 人生で初めて、死を実感した。その刹那。

 廊下側の障子が蹴破られ、裕昌の耳元で金属がぶつかり合う音が響く。頸動脈まであと数センチのところで、刀は止まっていた。


「裕昌を殺ってその体を奪い、あの爺さんを亡き者にしようってか」


 聞きなれた声が怒りを孕んで低くなっている。


「裕昌、許せ」


 そう言って黒音は裕昌の右肩を噛んだ。裕昌は痛みに思わず「いだっ!?」と叫ぶ。操られているといっても、痛覚は裕昌のものだ。その刺激にほんの少し、刀を握る手が緩んだ。そのすきに黒音が脇差で刀を跳ね飛ばす。庭まで飛んだ刀を黒音が追いかける。

 飛んだ刀と共に、裕昌の中に巣くっていた刀の妖気が本体へ向かう。

 裕昌は噛まれた右肩を押さえて自分の右腕を動くか確認した。しっかりと自分の意志で動くことを確認すると、黒音の後を追った。


「黒音!」


 廊下へ出ると、黒音が刀と対峙していた。よく見ると、刀の周りに黒い靄がかかっている。


「早くその姿を現したらどうだ。その様子だと、もう妖力はんじゃないのか」


 黒音の言葉に応じたように、黒い靄が何かを形どっていく。それが人の姿に代わると、靄の中から、女が現れた。雪のような白い肌に、それを縁取る長い黒髪。目は前髪に隠れていて見えない。そして黒いワンピース。裕昌の頭の中で、何かがはじけるように、記憶が鮮明に思い出される。あれは、意識を失う直前に、上木の隣にいた女。


「お前はっ……!」


 裕昌が叫ぶ。女は首をことり、と横に傾け、にぃ、と嗤った。その口の角度、嗤い方があの血の涙を流しながら嗤っていた表情に重なる。どうして今まで忘れていたのだろう。あれが元凶だといっても過言ではないというのに。


「裕昌、一つ教えておいてやろう。物に憑くのは念だけじゃない」


 黒音が脇差の切っ先を女へと向ける。


「物自身が自我を持つことがある」


 裕昌のいろいろな知識の中で一つだけはじき出される答え。長い年月を経て、精霊や霊魂が宿り、自我をもって妖になることがある。唐笠お化けや瀬戸大将がメジャーである。


「付喪神……」


「その通り。その中でもかなり悪いほうのな」


 人畜無害な五十鈴屋の妖たちより、目の前にいる黒い猫又より、刀の纏っている妖気は禍々しい。


「どうやってそんなに禍々しくなったのかは知らないが……あたしが全部断ち切ってやる!感謝しろ!」


 そう吠えると、脇差と打刀が火花を散らしてぶつかり合う。刀の付喪神は重い刀をものともせずその細い腕で斬りかかる。黒音は片腕だけで刀をはじき返す。

 両者一歩も引かない攻防戦に、裕昌はその空気に呑まれていた。黒音が本気で戦う姿を見るのはこれが初めてなのだ。視えるようになったあの夜、あれはただただ邪魔だった霊を払っていただけだった。

 はっと、裕昌は我に返る。ここで突っ立っている場合ではない。


「俺も何か……っ!?」


 何か武器になるようなものを探そうとした瞬間、黒音が裕昌のすぐ横に吹き飛ばされてきた。その衝撃を回避すると、黒音はまた女に向かっていく。


「……無理か……」


 黒音が吹っ飛んできた衝撃に思わず唖然。

 さすがに生身の人間が突っ込んでいってもすぐに殺されてしまう。

 ふと、あの駅にいた霊のことを思い出した。裕昌は上木家の蔵に向かう。一番手前の書物の山の上に、あの手記があった。それを持つと、今度は上木家を飛び出して五十鈴屋へ向かう。


「おい裕昌!?」


 黒音の声が聞こえるが、片手をあげて応じる。裕昌はわき目も降らず夜道をかける。走りながら裕昌は一種の後悔の念に襲われていた。

 そもそもあんな事態になったのは、あれだけ妖たちに忠告されたのに、思わずあの刀や当事者たちに同情してしまったからだ。裕昌が振りまいてしまった事態でもある。


「くっそ……!視えてても俺は……!」


 視えてるからといって、裕昌自身が変わるわけでもない。ちょっと普通の人じゃなくなっただけでは何もできないままだった。妖たちの警告は何の力も持たない裕昌を案じて故の警告だった。

 最速で五十鈴屋の刀が置いてあったほうから入る。そこにはもぬけの殻になった鞘が置かれている。

 

「一応鞘も持っていこう。刀を抑えることが出来れば……」


 この鞘はあの刀が収まっていたものだ。裕昌は一縷の望みをこの鞘に託した。


「よし。相手は幽霊。がんばれ俺」


 パンパン、と自分の頬を叩き、気合を入れる。鞘を持つ手が僅かに震えているが、裕昌はそれが気にならないうちに、走り出した。

 五十鈴屋から霧笠までは電車のほうが圧倒的に近いが、走れば往復一時間以内で何とか帰ってくることができる距離ではある。これまで激しく体を動かすということをしていなかった分のありったけの体力をここぞとばかりに使う。 信号が少ない道を選びながら最短で駅へと向かう。走ってから約十五分ほどが経った。横っ腹がきしきしと痛む。次の角を左に曲がればあの広場だ。

 左に曲がると目の前には広場の時計が見える。


「っ!居たっ……!」


 暗闇の中に仄かに青白く光っている人影が。裕昌はその霊の目の前まで来ると、膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返した。裕昌が手記を差し出す。


「っ、はあっ、はあっ……、これを見て何か、思い出すことは、ありませんか?」


 霊は息切れを起こしている目の前の青年に少し驚きと困惑の眼差しを向けている。遠慮がちに手記を受け取った。その様子を見た裕昌は、昼間よりも人間らしさがこの霊に戻っていると感じていた。




「…………………………ぁ」





 しばらくの沈黙の後、小さく、女性が声を漏らす。白い肌に一粒の雫が流れ落ちる。


「……上、木さん……」


 女性は大事そうにそっと手記を胸に当てる。 一方で裕昌は広場の時計を見上げる。針はもうすぐ午前三時半を過ぎようとしていた。なんとか人目につかないうちに戻らなければ。

 裕昌は女性の腕をつかんだ。


「失礼します!来て!」


 霊は手記を持ったまま裕昌に手を引かれ、あとをついていく。霊であるが故、走らずに浮遊して裕昌の跡をついてきているわけだが、裕昌はそんなことを見る余裕もなく、来た道を全速力で引き返す。だが、途中でどうしても信号に引っかかってしまった。

 苦しそうに息をする裕昌を心配そうな目で見ている女性に、裕昌は力強く答えた。


「これくらいが、俺にできることだから」





 裕昌が五十鈴屋を出発した同時刻。

 黒音と刀は激しく刃を交わしていた。妖刀が作り上げたであろう結界のおかげで、上木の老人と裕昌以外は取り敢えず巻き込まずに済んでいる。

 

「朝までには片を付けないとまずいな……」


 黒音が少しだけ意識を時間に向けたその時だった。妖刀が目にもとまらぬ速さで間合いを詰めた。


「何っ!?」


 不意を突かれた黒音が脇差で応戦する。しかし、威力を増した妖刀は黒音の脇差を弾いた。

 脇差が激しい金属音のあとに、回転しながら黒音の右側四、五メートル先に突き刺さる。

 妖刀はそれを拾おうとした黒音の行動を読み、脇差の前に滑り込むと、黒音の首をめがけて斬りかかった。間一髪、黒音は筆架叉で受け止める。


「ぐっ……!このぉっ!」


 力任せに妖刀を振り払うと、後方に飛んで体制を立て直した。額に汗を浮かべる黒音に対し、妖刀は涼しい顔でまた駆け出した。

 黒音も応戦するが、左肩を刃が掠め、傷口から鮮血が飛ぶ。頸動脈を狙ってきたところに筆架叉を滑り込ませ、なんとか防ぐ。脇差を未だに回収できていないことが、黒音が徐々に押される原因になっていった。

 妖刀が、妖力を込めた一撃を黒音に振りかざした。それを筆架叉一振で受け止めようとした黒音は、砂塵諸共飛ばされた。塀に衝突した黒音は、その衝撃にすぐには立てない。


「ちっ、筆架叉一本で突っ込んでいっても返り討ちにあうだけか……」


 黒音が渋い顔をする。ずきりと、左肩の傷口が疼いた。まだ右肩でないだけましだった。黒音の左腕は肘から先が失われている。相手の攻撃を防ぎ、攻撃手段である脇差や筆架叉を扱う右腕まで使えなくなってしまうことは、黒音にとってはほぼ死を意味するものだった。


「どうする……」


 その時、表のほうがやけにあわただしく感じられた。妖刀の動きが止まる。誰かが走っている音を、黒音の耳が拾った。庭に二つの影が駆けてくる。裕昌と女の幽霊だ。


「黒音!連れてきた!」


 女は奥のほうで縮こまっている老父を見て、愛おしそうに目を細めた。






 ほんの僅かなすれ違いだった。約束していたあの日、私はあの場所に行くことが出来なかった。体が火照り、寒気がする。意識が朦朧としている中、あの人のことを想う。連絡先も交換していない過去の自分を恨みたくなる気持ちでいっぱいになった。

 翌日。まだ体の火照りは収まらない。またその翌日も、その翌日、翌日……。

 やっと体の感覚が元に戻り、約束をするいつもの場所へ向かった。あの人は怒っているかもしれない。怒られることを覚悟しながら、五分、十分と待つ。それから二時間待っても、彼は現れなかった。

ああ、私は呆れられたのだろう。あれだけの日数、約束の場所に来なかったのだ。彼に見限られてもおかしくはない。

 けれど。あの人のことがただただ好きだった。もう一度会いたい、ただその理由だけで私は来る日も来る日も、待ち続けた。

 あの人は来ないと分かっていながら、今日も待ち続ける。

 やっと私の中で諦めがついたころ、待ち人は唐突に私の前に現れた。

 知らない女性が隣にいた。ああ、幸せになれたのだと、私は安堵した。それと同時に、さよならを言う機会もなくなったのだという寂しさがよぎった。

 これでいいのだ。あの人が幸せならば、私はそれでいい。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――それでいいはずだった。



 私の知らない、私の中の私。それが、いつからか僅かな妬みの炎を灯していた。

 そして、悪夢を見るようになった。

 あの人のところに私がいる。手には、家にあったはずの日本刀。それで何度も彼を、彼の隣にいる彼女を、そして自分も切り裂くのだ。

 悪夢で終わればよかった。ある日、夢の中であるはずの私に、意識があり、あの悪夢と同じような状況にいることに気が付いた。刀を振り上げていたのだ。目の前には、血を流す彼がいる。その隣には怯える彼を、なだめる女性がいる。


「どうしたの?から大丈夫よ」


 それを聞いた私はとっさに逃げ出した。そして、刀を持ったまま、小路に出た。

 私はこの時知ったのだ。

 あの女性を、殺してやりたいと思うほど、妬んでいて。

 殺してやりたいと思うほど、羨んでいて。

 私は、彼を殺してやりたいと思うほど、憎んでいて。

 殺してやりたいと思うほど、恨んでいて。

 殺してやりたいと思うほど、愛していたのだと。

 ふと、私は源氏物語の一巻を思い出した。源氏の君を愛するがばかリ、生霊となってその妻や恋人たちの命を奪った六条御息所のように、私もいつの間にか生霊となって彷徨っていたのだと。

 愛する人を手にかけようとした、自分の中の昏いものが、とても怖かった。

 あの人を殺めてしまうくらいなら、いっそのことここで終わってしまえばいい。




「そうして私は、あの刀で命を絶ちました」


 静かに桜■が語った。裕昌と黒音は突然始まった独白に唖然としていた。しかし、それを聞いていたもう一人である上木の老人はおもむろに立ち上がった。

 そして、桜■のほうへと歩み寄る。


「そうだったのか……すまない、すまなかった……桜子……」


 よろよろと歩み寄る老人の手を、桜子はそっと手を取る。


「上木さん……ごめんなさい……あなたはどうか謝らないでください」


 黒音は老父が視えていることに気が付いた。

 この桜子が霊体であるにもかかわらず、老父は桜子をまっすぐに見据えている。そこで、黒音は先日のことを思い出した。裕昌と上木家を訪ねたとき、老父が一瞬黒音のほうを見ていたのだ。気のせいかと思ったのだが、視えていたのか。

 桜子は次に妖刀のほうを見た。


「貴方もありがとう。そして、ごめんなさい」


 桜子の言葉に、妖刀は一礼した。そして、禍々しい気が薄まり結界が解かれていく。そしてまた、桜子も消えようとしていた。淡い光が辺りに満ちる。


「貴方達もありがとう……」


 桜子は裕昌と黒音のほうを振り返り、微笑んだのを最後に消えてしまった。

 一連の出来事をぽかんとしたまま、裕昌と黒音は見送る。本人たちの間であっさりと解決してしまった。


「これでいいのか?」


「事情は思ったより単純だったんだろう。腑に落ちない部分はあるが……」


 黒音が地に刺さったままの脇差を引き抜く。刃に付いた土を払い、鞘に納めようとする。


「なあ黒音、あの妖刀どうしたらいい?」


 裕昌の視線の先には、すっかり落ち着きを取り戻したのか、黒髪の女が立ち尽くしている。元の主にもういいと言われたようなものだ。あの刀はこれからどうするのだろう。


「ま、付喪神となってるわけだし、普通の刀じゃなくなっているからな。行く先はあいつ自身が決めることだ」


 裕昌は少し思案した後、妖刀のもとへ駆け寄ると、おずおずと手を差し伸べた。


「え、と……うちに来る?」


「裕昌!?」


 黒音が頓狂な声を上げる。妖刀自身も無反応だが、少しは驚いているようだ。

 裕昌自身も何をしているのだろうという疑問はあった。一時は体を乗っ取られそうになり、一時は殺されかけたのだ。だが、何故か見捨ててはおけなかった。

 黒音が嘆息する。


「お前はどこまでお人好しなんだ……。おい裕昌、お前本気なんだな?」


「まあ、うちに来てもらえれば心強いかなー、なんて」


 ギラリと黒音の目が光った気がした。裕昌が目を泳がせながら、こめかみを掻く。黒音の視線が痛い。

 どうやら黒音が自分では力不足なのかと不満を抱いているらしかった。

 そんな様子を、妖刀は静かに見つめている。

 主人が自分に残す思いはもうないと言った。

 そもそも自分は何のために目覚めたのだろうか?

 どうして、体を、意思を持って動いている?

 目的地がない、そんな中、あの青年は手を差し伸べた。

 自分は、あの青年の手を取ってもいいのか。取れることなら。

 そう思い、手を伸ばそうとした刹那、妖刀の体の奥で、何かが脈打った。

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