ミッドナイト・エスケープ(5)

「ねえ、まだ『町』は私たちを止めにくると思う?」と留美子は尋ねた。

「さあ、どうだろうな」と後ろから健介は言った。

 留美子は枯れ葉が地面を覆い、木の根が波のようにうねり、張り巡らされた道なき道を歩いていた。暗い森には留美子と健介が踏みしめた木の枝が折れる音が響き、自分の荒い呼吸音がはっきりと聞こえた。

「『町』はやっぱり嫌なところだね」

「まあな」

「お母さんたちはもう気づいたかな」

「さあね」

「ところで健介はさ」

「留美子、黙って歩けよ」と健介が言った。

「違う、健介。いや、違わないな。正直言うと、黙ってこの暗い森の中を歩いてるのが凄く怖い。木の間から何かがこっちを見ているような気がするし、誰かの声がするような気もする。喋ってないと、いつの間にか健介のヘッドライトの明かりが消えてしまうような感じがする」

 留美子は立ち止まって、呼吸を整えながらそう言った。

「俺もそうだよ」

「そうなの?」

「だから留美子が必要だったんだ。俺だってこんなとこ一人で歩いてたら、気が狂っちまう。ましてや『町』からの攻撃があれば、尚更まともな精神状態を保っていられない。だから二人必要だったんだ。お互い共通の、『町』から抜け出すという強い意志を持った仲間が」と健介は言った。

「ふーん、そう。なら私はただのお荷物じゃないか」

「まあちょっとしたお守りみたいなものだな」

 健介はそう言って、眩しい明かりの下で少し笑ったような気がした。留美子は再び歩き出した。さっきよりも怖さは和らいでいた。


 休憩を挟みながら、二時間ほど歩いた。歩けど歩けど、同じような森が続いているばかりで、確かに一人では耐え難い。

 気温はどんどん下がっている。時折、分厚い雲の隙間から満月が現れて、森全体を照明弾のように青白く照らす。その時は木の間に潜んでいる魔物たちも消え失せてしまい、美しい静かな夜の森だけが残る。風はなく、葉っぱ一枚として動かない。留美子が立ち止まってそれを眺めている間、健介も黙って待っている。月は次第に雲に飲まれていき、再び暗闇が這って来る。そして留美子たちは再び歩き始める。

「長いね」

「そうだな。留美子の足じゃこんなもんだろう」

「嫌味な奴」

 そういう千切れてしまいそうな会話を幾度も繰り返しながら、留美子はただひたすらに歩いた。


「留美子」と健介が突然言った。

「何」と留美子は言った。疲れ切っていた。

「雪だ」

「雪?」

 一条の健介のヘッドライトの中に、確かに小さな雪の粒が音もなく降りてきている。

「今って十二月の頭だよね。『町』にいた頃、雪が降ったの記憶だと一、二回ぐらいしかないんだけど」と留美子は言った。

「そうだな。異常気象もいいとこだ」

「これも?」

「ああ、『町』だな。最後の攻撃だろう」

「健介、私もう疲れちゃったんだけど」と留美子は言った。

「ああ、俺も疲れたよ。でも進もう。雪がひどくなる前に」と健介は言った。


 それからもうどのくらい歩いたのか分からない。留美子はずっと同じ場所をぐるぐるしているようだった。足が棒みたいで感覚がない。一歩は老人のように小さく弱かった。瞼も重くなり、躓く回数も増えた。

「健介」

「何だ」

「疲れたよ」

「ああ、俺も少し」

 留美子と健介は、それでもひたすらに歩いていた。否、歩いているのかどうかもはっきりしていない。

 ただ雪は狂った人工降雪機の如く、まるで容赦なく降り続けている。地面からは茶色が無くなった。自分たちをこのまま凍り浸けにしようとしているみたいだった。

「もう今日はここまでにしよう。もう一歩も動けない」と留美子は言った。そしてその場に座り込んでしまった。

「ああ、そうだな」と健介も言って、バックパックを下ろしてその上に座った。

「このまま眠りたい」

「ああ、さすがに俺も疲れたよ。留美子もこの上に座れよ」

 健介はそう言ってからバックパックから袋に入った何かを取り出した。

「これはツェルトと言って簡易テントみたいなものだ。これに二人でくるまるんだ」

 留美子は健介に抱えられた。健介は犬みたいに暖かく、そして何より安心した。

「『町』から相当離れたんだ。じきに雪も止むさ。日が出るまで耐えるんだ。留美子、気を弱くしちゃ駄目だ」

「私たちは『町』から出れるのね」

「当たり前だろ」と健介は言った。

「健介はさ」

 留美子は言った。

「健介は『町』を抜けたらどこへ行くの?」

 健介は少し黙った。

「分からない。ただ遠い所だ。遠くて、町じゃなくて、人が生きている所がいい」

「抽象的だね」

「じゃあ、そうだな、野球が見れる所がいいよ」

「野球?」

「オープン戦を見るんだ。春先の天気の好くて風のある日に、別にどっちを応援してる訳でもないけど、コーラを片手に、人が疎らなオープン戦を見る。皆そこまで真剣じゃないんだ。皆どこか退屈そうだ。俺も結局六回裏あたりで飽きちゃって、家に帰るんだよ」

 変なの、と留美子は言って笑った。

「留美子は?」

「私? そうだね、色々あるけど、私は海が見える場所がいい。高台から暖かい海が見える場所」

「単純だな」

「でも素敵じゃない。きっと夕焼けが綺麗だと思う」

「ああ」

「私たちはどこへ向かってるんだろう」と留美子は言った。

「分からない。でも人間は幸せに向かわなくちゃ駄目だ。幸せに向かうこと、それが一番自然なんだ」

「なら私たちは今幸せに向かってるはずね」

「そうだな。いいだろ、もう寝ろよ。言ったろ、明日の朝、隣町に出て始発に乗るんだ。それでうんと遠い所まで行こう。『町』やあらゆる俺たちを閉じ込めていた手の届かない理想の場所まで」

 留美子は何も言わず、それに答えるように目を瞑った。明日の朝、自分はあの忌々しい『町』に居ない。それはとても良いことだ。じきに全てが良くなる気がする。

 留美子は新しい街の海を想った。海はどこまでも広く、光に満ちていた。

「俺たちはメリー・ゴーランドから降りたんだ……」

 薄れゆく意識の中で、健介がそう言った気がした。

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ミッドナイト・エスケープ 大垣 @ogaki999

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