第35話

校門を出て、彼の姿を探す。

右か、左か、どっちだ。家の方面だったら右だよね、よし。


運動音痴秋山、精一杯の走りで道路を疾走しております。頑張れ私。歩行者信号があるコンビニの前で、見慣れた後ろ姿を見つけて。


「のっ・・・はらくん。」


駄目だ、息切れが凄い。今日まで運動してこなかった自分を心底呪っている。青信号に変わってしまう前に、息を整えなければ。もうこれ以上追える自信がなくて、ゆっくり息を吐きだした。


「すのっ・・・はらく・・・!」


「春原くん!!」


ピカッ、と歩行者信号が青に変わる。


けれど、彼は歩き出さなかった。ゆっくり振り返って、驚いた顔で私を見つめる。

彼が何かを言ったけど、車通りが多くて聞き取れない。ううん、車通りが多いせいだけじゃなくて。


「秋山、どうしたの?」


私がいるところまで戻ってきてくれた彼は、大きなマスクをしていた。いやそれは顔が小さいのか。その声が掠れているのとマスクで口元が見えないので、彼の声が聞き取れなかったのだ。


「・・・春原くん、風邪、ひいたの?」

「ううん、インフル。」

「インフル!?!?」


そんなに驚く?と笑った彼はその拍子にむせて、コホッと少し苦しそうに咳をする。

インフル・・・?インフルか、え、インフル?

じゃあ休んでたのは・・・


「ずっと、体調悪かったの?」

「そう。まさかインフルエンザだなんて思ってなくて。最初は病院に行かないで家にいたんだけど、全然治らないから。」


診断を受けてから昨日でちょうど一週間。本当は今日から登校できるはずだったのだが、まだ咳が出るからもう1日だけ休むことにしたらしい。


「でも昼前にはだいぶ良くなったから。とりあえず公欠届だけ受け取りに来たんだ。」

「・・・」

「花ちゃんが出張だって聞いてたからインフルの報告するのも休み明けでいいかなって。・・・秋山?」


俯いたまま何も話さない私に、春原くんが不思議そうに首をかしげる。

インフルエンザ。そっか、インフルか。なるほど。なるほどね。うん。


「・・・良くないけど、良かったあ・・・。」

「!?・・・ちょっ・・・」


安心したら一気に気が抜けて、ポロポロと涙かこぼれだす。急に泣き出した私に春原くんは見たこともないくらい焦っていて、でもその姿を楽しむ余裕は今の私にはなかった。


暴力という言葉の怖さ、不安だった気持ち、クラスの皆に嫌われてしまったかもしれないという恐怖、色々なものが決壊して、全て涙として溢れてくる。涙を拭う事すらできなくて、そんな私に春原くんは慌てながらも巻いていたマフラーをとって、頭からかけてくれる。

人通りが少なくない昼過ぎ、春原くんのマフラーに包まれながら、子供みたいに泣いてしまった。




「そっか。そんな事になってたんだね。」


ズビーッと鼻をかみながら、春原くんの言葉に頷いた。泣いている私の手を引っ張って近くの河川敷まで移動してくれて、今は川辺のベンチに2人で腰かけていた。


学校で噂になっていたことも全く知らなかったようで、でも春原くんは大して驚いたような顔はしなかった。中学校の時の事はいつか話題になると思ってたから、そう言って彼は少し自虐的に笑う。


「・・・俺、本当に、人の事怪我させた。」


少しの沈黙のあと、春原くんがそう言って語りだす。その言葉に、驚かなかったと言えば嘘になる。でも、でもきっと。


「わざとじゃ、ないんでしょ?」

「・・・どうだろ」

「わざとじゃないよ、絶対。」


春原くんが言い終わる前に、もう一度強く重ねた。驚いたように私を見る春原くんを真っすぐに見つめ返す。


「・・・秋山は、どうして無条件にそう信じてくれるの。」

「どうしてって。」


春原くんはそんな人じゃないから、意地悪なふりして実は優しいから、色んな言葉が思いついたけどどれもしっくりこなくて。

・・でも、ああ、これだ。


「春原くんは、大切なお隣さんだから。」


私の言葉に、春原くんは一瞬呆気にとられたような顔をする。

そして俯いたと思ったら、その肩が徐々には震えだして。気付けば、声を上げて笑い出していた。


今度は私が呆気にとられる番だ。声を上げて笑っている春原くん、史上初である。

しかもその笑いは中々収まらず、ついにはお腹を抱えて笑い出していた。なんでこんなに笑われるの、少し腹が立ってきたぞ。


「そこは、大切な友達だからとかじゃないの。」

「なんかこれが一番しっくりきたから。ていうかそんな笑う?」

「ごめんごめん。」


ひときしり笑い終えた春原くんは涙をぬぐいながらそう謝って、はあ、と息を吐いて穏やかな川に視線を向ける。


「わざとじゃないよ。・・・でも、俺が怪我させてしまった事には変わりない。」


中島なかじま先生。

それが、春原くんが怪我をさせてしまったという相手だった。


春原くんはゆっくりと語り出す。

小学生からミニバスをやっていた春原くんは、中学校でもバリバリに部活をやっていて。・・・ここがもう想像できないというのは胸の中に留めておく。強豪校で人数も多く、レギュラー争いも過酷だったそう。そんな中で春原くんはレギュラーを勝ち取った。・・・でも。


「練習中に、転んで足怪我した。」


クラスマッチの時、痛そうに足を引きずっていた春原くんを思い出す。靭帯を切った、そう語った彼の顔も。


激しいレギュラー争い。少しでも休めばそこに居場所がなくなる事は明白で。用意した退部届を顧問の先生は受け取ってくれなかった。その顧問の先生が、中島先生。まだ若い男の先生で、自身もインハイ出場経験のある選手だったらしい。やめようとする春原くんを何度も引き留めてくれた。


「まだ諦めるには早いって。でも俺はその時怪我した事がショックで、何も聞き入れられなくて。」

「・・・うん。」

「その日も、俺を引き留めに来てくれた。階段の途中で声をかけてくれて、でも俺はやっぱりそれすら苦しくて。」


『もう辞めるって言ってるじゃないですか!』


そう言って、先生の腕を振り払った。その動作が思ったよりも強くなってしまって、先生の体がふらつく。

そして、足を滑らせた。


全部がスローモーションに見えた。そう言って春原くんは小さく息を吐きだす。

階段から落ちた先生は、右足に全治2か月の骨折をした。治療のために中々部活に顔を出せなくて、3年生はその状態のまま最後の大会。迎えたという。


「先生は春原のせいじゃないって。むしろしつこくしてごめんなって。先生がそう言ってくれたのもあったし、見ていた人もいたから故意じゃないって事はすぐに分かった。先輩たちも、全然俺の事責めなくて。」


でも。


「それがもっと、辛かった。」


むしろ彼は責めてほしかったのだ。お前のせいだと憎まれた方が楽だったのだ。優しくされるのが、一番苦しくて。きっと必要以上に自分で自分を責めた。


その後、春原くん自身も集中して足の治療をするために少し学校を休んで、その期間を停学だと騒ぎ立てた人たちがいたらしい。クラスマッチの打ち上げの時に出会った彼も、その一人。レギュラー争いで負けた人たちが流した捻じ曲がった噂を、彼は否定しなかった。怪我させたのは事実なんだから、と。


「先生とは今も連絡とってるし、今は違う中学校でバスケ教えてるって。でもこれ以上変なうわさが広がらないようにって移動してくれたのを知ってるから、俺も、けじめをつけたくて。」


それに両親も気にしてたから、と春原くんは苦い顔で呟く。


「ずっと応援してくれてたのを怪我しただけじゃなくてこんな形でも裏切っちゃって、どうすればいいか分かんなかった。」

「・・・。」

「・・・けじめとか言って、結局逃げちゃっただけなんだよなあ。」


そう言って自虐的に笑う。そんな笑顔が痛々しくて、でもきっとこの痛みを私にはどうすることも出来なくて。

しばし無言のまま川を見つめる。沈黙の後、春原くん、と彼の名前を呼んだ。


「苦しい事を、話してくれてありがとう。」


彼がゆっくりと目線を上げる。


「一人でずっと耐えてきたんだね。偉いね。」

「・・・子供じゃないんだから。」

「関係ないよ。偉いから褒めてあげたいの。よく頑張ったね。」


彼の癖毛に触れる。よしよし、と口に出して頭をポンポンと撫でれば、ツッコミながらもその手を払う事はしなくて。

どうにもできないけど、でも分かりたいと思った。彼の痛みに、寄り添いたいと思った。


少しだけ春原くんの瞳が光った気がしたけど、気づかないふりをして川を眺める。気づけば夕日が顔を出して、川に反射して少し眩しい。


「・・・春原くん。」


先に立ち上がって、彼に手を差し出す。


「戻ろっか。」

「・・・うん。」


彼も立ち上がって、ゆっくりと歩き出す。

あ、学校に戻るのは私だけか、なんて途中で気づいたけど、でもいいや。春原くんが戻るところも結局はあの学校だ、あの教室だ、あのクラスだ。


私の名前を呼んでから、彼がありがとう、と呟く。

その言葉に笑ったまま頷いて、繋いだままの彼の手を引っ張った。


皆の所に、早く帰ろう。

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