第10話 パン屋のマーサ
迷いなく町を進むティアについて歩いていると、一つの店に辿り着いた。
掲げられた看板を見るに、どうやらパン屋らしい。
隣に立つリゲルに一声かけることもなく、彼女は店のドアを押し開けた。
古くさいドアベルがガラゴロと大きな音を立てる。
ふわりと香ばしいパンの匂いがリゲルの鼻先をくすぐった。
店内には客用のトングとトレー、そして様々な種類のパンが並べられている。
開店したてなのか、それとも野暮用で席を外しているだけなのか、人の姿はなかった。
きょとんと首を傾けるリゲルをティアがちらりと見た。
「すぐ来るわよ」
端的なその言葉が終わるか終わらないかというところで、カウンターの奥、半開きにされた扉の向こうで人が動く気配がした。
「はいはいはいはい、今行くから待ちな」
そんな言葉と共に手を布巾で拭きながら出てきたのは壮年の女性だった。
小麦粉やジャムで汚れたエプロンを身につけ、茶色く縮れた髪を覆うように三角巾を身につけている。
パン屋で働いているだけあって、体格がいい。リゲル達よりも頭一つは大きいだろう。肝っ玉母さんという印象だ。
女性は二人に気づくと目を丸くした。
「おやディア。今日は一人じゃないんだね。もしや彼氏かい?」
「違うわよっ!」
女性の軽口にティアは即座に噛みつく。
それを豪快に笑ってやり過ごした女性は、腰に手を当てるとリゲルの顔を覗きこむように身をかがめた。
「はじめまして。あたしはこのパン屋の女将のマーサだよ。マーサ姐さんとお呼び」
「ボクはリゲル! よろしくね、マーサ姐さん」
授業中の生徒のようにびしりと手をあげて言うリゲルにマーサはまたしても笑う。なんとも気持ちの良い笑いっぷりだ。
何が気に食わないのか、ティアはむすりとリゲルを睨みつけている。
気づいたマーサが彼女の背を叩いた。パン屋の女将をしているせいなのか、じゃれるような仕草であったはずなのにばしばしとなかなか痛そうな音がする。
マーサと比べれば華奢すぎるほどに華奢なティアがよろめいた。
「なぁに辛気くさい面してんだい。あんたはいっつもそうだね! いいじゃないか、リゲルだっけ。あたしは気に入ったよ」
無愛想なディアのお相手としちゃちょっと明るすぎるくらいでいいのさ、と続ける彼女に、ティアがものすごい勢いで振り向いた。
耳の下で二つに縛られた髪が武器のように振り回される。
「違うって言ってるでしょっ! こいつは! 昨日から! うちに居候することになった! はた迷惑なやつなの!」
一つ一つの言葉を句切りながらティアはいちいちリゲルを指さした。
「はた迷惑って酷くない?」
「なんにも間違ってないでしょ」
二人は家でそうするようにぎゃあぎゃあと言い合いを始める。
ティアにしてみれば本当にうっとうしく思っているのだろうが、傍から見ればじゃれ合っているようにしか見えなかった。
微笑ましげに彼らを見守っていたマーサが、空気を切り替えるようにパンパンと手を打った。
「ほらほら、仲が良いのはいいことだけど、いつまでも喧嘩してないでさっさとパンを選んだらどうだい?」
「仲良くない! ……でも、そうする。こいつにまともに取り合ってたらキリないし」
もう一つ噛みついて、ティアはため息交じりにそう言う。
そこにリゲルが無邪気に問うた。
「ね、ね、パンを選ぶのって、そこのトレーとトング使うの?」
「は? そうだけど……あんたそんなことも知らないのかい? 欲しいパンをトングで掴んでトレーに乗せるんだよ」
「そうなんだ」
予想もできなかった質問に、流石のマーサも目を丸くする。
彼女の答えを聞いたリゲルは手にしていたカバンを肩にかけなおし、木製のトングとトレーを掴み上げた。
やけにルンルンと楽しそうな仕草に、ティアの目がすがめられる。
懐っこい犬のような笑顔を浮かべて、リゲルはトングをカチカチと鳴らした。
「ボクがやりたい! いいでしょ?」
はくはくとティアの口が開いたり閉じたりを繰り返す。
あまりにも子供すぎる彼の行動に、何を言えば良いのかわからないようだった。
やがて疲れたように長く息を吐き出すと、投げやりに首を振った。
「好きにしたら」
「わーい!」
さっそくリゲルはパンの並べられた棚に向かい合う。
しかし向かい合ったっきり動かない。
迷っているのかとティアが訝しんだとき、彼が振り返った。
またトングをカチカチ鳴らして、困ったように眉を下げている。
「えーと、ティア?」
「なによ」
「なに買えばいいの?」
「……そうね、言ってなかったわね」
今度こそ間違いなく疲れ切った吐息をついて、ティアはうなだれた。
昨日も似たようなやりとりをした気がする。
あっはっはっは、とマーサが快活に笑った。
「あんたたち、本当に仲がいいねぇ。ほらリゲル、トングを鳴らすのはおよしよ。パンが怯えて固くなっちまう」
「えぇっ、そうなの!?」
「なわけないでしょ!」
マーサの言葉をあっさり信じるリゲル。すかさず彼を怒鳴りつけたティアは、心底愉快そうに肩を揺らすマーサをキッと睨みつけた。
「変なこと教えないで! あと仲良くないから!」
「ははは、ごめんごめん。それにしても、律儀だねぇ。そんなに毎回毎回否定しなくても」
「こいつと仲良しなんて思われるのはごめんよっ」
「えええ、ひどい!」
目を見開いて喚くリゲルに、ティアは腕を組んでそっぽを向く。
「そもそも、昨日会ったばっかりなのに仲良しもなにもないでしょ。ほら、そこのマフィンとって。さっさとする!」
「うわあん、ティアが怒るぅ……」
悲しいのか怖いのか、半べそをかきながらリゲルは言われた通りに美味しそうに焼けたマフィンをトングで挟んだ。
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