第4話 親愛なるあなたの名前
くつくつと木苺と砂糖が小鍋の中で煮られている。
甘い匂いがいっぱいに広がる小さな家の中、少年と少女はさほど大きくはないテーブルに並んで座っていた。
少年は物珍しげに部屋を見渡しているが、住人の一人であるはずの少女は居心地の悪そうな顔をしている。
その視線はテーブルの木目に注がれていたかと思うと、火の前に立つ老人の背中を恨めしげに睨みつけたりと落ち着きがない。
彼らに背を向けたまま、老人は鼻歌交じりに言った。
「まさかディアがお友達を連れてくるなんてのぉ」
「さっきから違うって言ってるじゃない! こんなの友達じゃないわ!」
「こら、せっかく遊びに来てくれた友達をこんなの呼ばわりするのはやめんか。まったくお前は素直じゃないんじゃから」
「う~……っ!」
老人は少女に取り合おうともしない。ただ小鍋に向き合って中身を休みなくかき混ぜている。
言い返す言葉が見つからないわけでもないだろうに、少女は悔しげに唸るだけだった。少年にキツい言葉を投げつけていた少女と同一人物だとは思えない。
それを横目に見た少年はぼそりと呟いた。
「おじいさんには勝てないんだ」
「っさいわね、そもそもなんであんた普通の顔して座ってるわけ!?」
「だっておじいさんが寄っていってって言ってくれたから」
噛みつく先をなくした少女はむっつりと口を閉ざす。ぷいと顔を背ける仕草は妙に子どもっぽかった。
少女の家から出てきた老人は、当然と言うべきかなんというか、彼女の祖父であった。
あのあと、慌てて駆け寄ってきた彼は少年のことを可愛い孫娘の友人だと勘違いすると、半ば強引に家へと招き入れたのだった。
そのときの老人の喜びようからするに、少女には友達といえる存在がこれまでまったくいなかったのだろう。
まぁボクも人のことは言えないけど、と思いながら少年は呼びかける。
「ねぇ……ディア?」
「馴れ馴れしく呼ばないでっ! それ、別に私の名前じゃないし」
「え、じゃあなに」
「愛称じゃよ。手紙の冒頭には『
空中に指で綴ってみせて、老人はくふりと親しげに笑った。
「まぁつまり、わしの大切で愛しいもの、というような意味合いじゃな」
「へー……なんかいいね。ね、ボクもそう呼びたい」
「嫌って言ったでしょ! そもそもおじいちゃんとかが勝手に呼んでるだけだし!」
「おや、じゃあやめた方がいいかのぅ」
「ちが……っ、おじいちゃんたちはいいのっ。でもこいつはダメ!」
少女はテーブルを叩いて叫ぶ。立ち上がった拍子に椅子が倒れた。
その大きな音に驚くこともなく、老人は「そうかそうか」と微笑む。
小鍋に向き直った祖父に、自分の言動も行動もすべて見透かされている気がして、少女はすごすごと座り直した。
自分に対するものとはまったく違う反応を見せる少女に、少年はぱちぱち瞬く。
老人は小鍋を火からおろすと中の木苺のフィリングを隣のパイ生地に入れた。上から新たにパイ生地を重ねて、フォークで生地同士を貼り付ける。
できあがったものを窯に入れた老人は汲んでおいた水で手を洗った。
窯の奥でぱちりぱちりと音を立てて火が燃えている。
「ねぇねぇ、じゃあさ、ボクはキミのことなんて呼んだらいい?」
「はん、呼ぶ必要なんかないわよ。どうせ今日が終わればもう二度と関わらないんだし」
「ディーア」
手を拭きながらテーブルのそばに立った老人が、少女をとがめる。
たちまち彼女は縮こまった。
しばらくはすねたように唇を尖らせていたが、観念してぼそりと呟く。
「……ティア」
「え?」
「だから、ティアよっ。私の名前はティア!」
一度で理解しない少年に苛立って、少女──ティアはやけくそのように自分の名前を繰り返した。
見開かれた少年の目が、あっという間にきらきらと輝きだす。
「そっか、キミ、ティアって言うんだ。えへへ、そっか」
「なにヘラヘラしてんのよ気持ち悪い」
言葉通り気持ち悪そうにしながらティアは座った椅子ごと後ずさった。
少年の笑顔がティアに向く。
「ティア」
「なによ」
「ティーア」
「なに?」
「ティア!」
「だっから、なんなのよ!」
不機嫌そうにしながらも、律儀に返事を返していたティアが、我慢の限界に達して怒鳴り付けたときだった。
ティアに向けて、少年の手が伸びる。
「ティア~っ!」
「ぎゃあああああ! 飛びついてくんじゃないわよっ、気色悪い!」
背中にしっかりと手を回されて、ティアは悲鳴をあげた。
どうにか逃れようともがくが、少年の力は存外強かった。
ティアの言うとおりへらへらと頬を緩ませながら少年は何度も彼女の名前を呼ぶ。
「えへへへ、ティア、ティア、ティア~」
まるで宝物を愛でているかのように嬉しそうな響きに、ティアは言葉を失った。
照れと苛立ちと不快感で思考がめちゃくちゃになる。
目をぐるぐると回す孫を見かねた老人が少年の首根っこを掴んだ。
咳払いをしながら引き剥がす。
「これ、そこまでじゃ。ディアが困っておるじゃろう」
「あ、ごめん」
目が覚めたのか、素直に謝ると少年は大人しくなった。
それでもまだその顔にはとろけたような笑顔が残っている。
我に返ったティアはまた椅子を倒しながら飛び上がるように立ち上がった。
その両手は身を守るように自分を抱きしめている。
「なっ、なにすんのよ変態っ!」
「そこまで言う!?」
「言うわよ! 誰でも言うわよ!!」
再び言い合いが始まりそうな気配に、老人が仲裁に入った。
まぁまぁ、と人好きのする笑顔を浮かべていた彼は、はたと気づく。
「そういえば、まだおぬしの名前を聞いておらんかったな。ディア、」
「知らないわよ」
興味もないし、とティアはそっぽを向いた。
さすがにさっきの騒動があったためか、老人も彼女の素っ気ない態度をたしなめはしなかった。
代わりにおかしそうに笑いながら少年を見る。
「おぬしら、友達のくせに互いの名前も知らんかったのか。ではわしが聞こうかの。おぬし、名前は?」
「ん、ボク? ないよ」
「は? ナイヨ? 変な名前ね」
「違う違う。ないの。名前」
一瞬、世界が固まった。窯の奥の火すら息を潜める。
次いで、絶叫が弾けた。
「はあぁあ!?」
「こりゃ驚いたのう……」
ティアと老人の驚いた顔は、とてもよく似ていた。
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