第2話

 あの夜会から数週間後。


 メイルが仕事を終えて帰宅していると、茂みの方からくぐもった話し声が聞こえてきて、足を止めた。

 押し殺しても漏れてしまっている女性の呻くような声と男性の荒い鼻息。


 これ以上、踏み込んではいけない。


 そう思いながらも足音を立てないように顔を近づける。掠れた声で「こんな所で」などという甘い声が何とも卑猥だった。


 メイルがこのような場面に遭遇するのは初めてではない。

 彼女が住むスール領は王都から程よく距離があり、気候にも恵まれて、バカンスには最適と言われている土地だ。別荘を建てる貴族も少なくない。


 その結果、このような逢瀬の現場が目撃されることが度々あった。


 どこぞの男女が密かに楽しんでいようが自分には関係ない。気づかれないうちに立ち去ってしまおう。

 そう思って足を踏み出した時だ。


「グエルには秘密よ」


 じゃれつくような甘ったるい声が聞こえた。


(まさか、グエル王子の婚約者様が!?)


 心臓が飛び跳ね、思わず声を出しそうになったメイルは両手で口を押えて息を殺した。


(うそでしょ。あんなに見せつけてきたのに。信じられない)


 目を凝らして見ると、間違いなくメイルにあっかんべーをした魅惑的な唇の持ち主だった。


 気づかれないように一歩ずつ後退っていたが、服が草木を揺らしてしまい、男性の警戒する声が聞こえた。


 メイルはそのままの姿勢で硬直する。

 息を止めているせいで指先が痺れ始め、体中が酸素を求めているのが分かった。


「大丈夫よ。こんな場所に人なんて通らないわ」


「それもそうだな」


 男女の怪しむ声が聞こえなくなったことを確認したメイルは素早く移動し、何度も深呼吸した。


 限界まで息を止めたせいか、信じられないものを見てしまったせいか、ひどく頭痛がする。


(こんな現場を見せられて、わたしにどうしろというのよ)


 ふらふらと歩き出したメイルの脳裏に浮かんだのは、グエル第二王子の笑った顔だった。

 平民である自分に声をかけて、横柄な態度を取るルイズから庇ってくれた人。


「伝えた方がいいよね。でもなー、絶対にこじれるよなぁ」


 深いため息をつくメイルは自室に籠もり、何度も何度も自問自答を繰り返した。


「よし!」


 ルイズの逢瀬を目撃してから二日後、意気込んだメイルは手紙に筆を走らせた。


 重要書類に見えるように重厚な封筒に入れて、イーグレット家の家紋が入っていない封蝋印を押す。


 差出人の名前は記載しなかったが、受取人の名前はグエル王子にしておいた。

 そして手紙は直接父に送りつけるようにして、父にだけ分かるように小さく点を書いておいた。


 メイルが父親に手紙を書くことは滅多にない。きっと、こちらの意図に気づいてくれるはずだ。


 本当は差出人に自分の名前を書くのが常識だが、王子との良からぬ噂を流されて嫌な思いをしたくはなった。


「王都のお父様までお願い」


 幼い頃から一緒に育った鷹に封筒を咥えさせ頭を撫でれば、人懐っこく目を細め、頬ずりしてから大きな翼を広げた。


 調教された伝書鳩ならぬ、伝書鷹は勢いよく大空へ舞い上がる。


 この日、メイルは初めて祖母の教えに背いて手紙を手渡ししなかった。

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