8

 昼下がりの眩しさが窓辺から降りてくる。晴れとるな、と気を逸らすように呟いた遠城は、俺が無言で伸し掛かると小さく呻いた。遠城こそ、俺に関することを俺に言わない。合わさった唇の隙間から絡み付く舌の方が雄弁だ。

 俺が遠城に出来ることは本当に、本当に少ない。事故の被害者だからずっと世話をしてもらっていた、腕がどうにもならない時期は職場への送り迎えまでしてくれた、ギプスが取れたあとも遠城は俺を優先していたし、でもその裏側で轢き殺せば良かったなとも思っていた。俺にとっては名前みたいに遠い城にいるような相手で、なにもかもわからない、むこうがわの人だった。

 寒いからと、遠城は必要以上に脱ぐことを嫌がった。セックスだって本当は受け入れる側じゃないって話を、俺はもう知っている。でも俺を優先して、今も大人しく俺に任せてくれていて、自分から俯せになった姿を見下ろしながらどうすれば上手く伝えられるかこの期に及んで俺は悩んでいる。

 でも、悩めるくらいには、遠城に何か伝えたいとは思っている。

 ひとつに縛られたままの髪を、指を伸ばして解かせる。左右に散った長髪がシーツの上で丸まった。何も言わない遠城の背中を撫でて、前に手を回しながら引き寄せる。ん、と驚き半分不快半分な呻き声が聞こえた。更に不快にさせるとは知りつつ、力を込めて無理矢理仰向けに寝かせ直した。

「っ、何すんねんカス、」

「何でもしたいよ、何でも言うて欲しいねん、俺に」

 強気な冴えた両目が一瞬揺らいだ。開きかけた口は閉じて、遠城はふっと視線を横へとずらした。

 なんだか堂々巡りだった。でも、人間関係はこんなものかも知れない。まともに構築出来たことがないからこんなことまで今更知る。

 必要最低限だけ脱いで、布団を被せた。手探りで足の付根を撫で、目を閉じている遠城の胸元に額を押し付けた。心臓の音がした。呼吸に合わせて上下する胸板が、指を滑り込ませた瞬間だけ痙攣するように跳ねた。

 もういいと遠城が言っても、中を探ることを止めなかった。痺れを切らしたような舌打ちが落ちる。乱暴に髪を掴まれて、なんやねんお前、と怒気を孕んだ声に脅された。それでも止めなかった。鼻先でシャツを捲り上げて直接皮膚に齧り付きながら、髪を掴む力が段々と弱まる動きを肌越しに受け取った。

「も、触んな、三春……」

 魘されたように頼まれて、やっと俺は納得した。

 限界まで背けた顔を枕に押し付けている様子を見下ろしてから、出来るだけゆっくり、慎重に、遠城を暴き始めた。

 入れた瞬間に息を呑む音が聞こえた。顔は相変わらず見えないが、動きに反応して、何度か肩を跳ねさせていた。長い髪の隙間から覗く耳が赤い。身を屈めて耳朶に舌を這わせると、嫌がるように右手を振った。手の甲がもろにぶつかって痛かったが離さなかった。両手を体に回して引き寄せ、巻き込んだ長髪ごと耳を口に含んだ。

 踵に背中を蹴り付けられた。慌てて足を掴み、数回突いてから遠城を見下ろした。嫌や、とはっきり口に出した遠城はまだ顔を背けたままだった。何が嫌なん。俺が聞くと、首が横に揺れた。

「お、まえ、何、考えてんねん、」

「……なんやろ、わからへん」

「っ……カスが、アホ丸出しやんけ、さっさとイッて、はよ終われや……!」

「それやわ、多分」

「は……?」

「終わるの、嫌やねん。正直前までは、俺がいつ終わっても良かったよ。お前に轢き殺されてても良かった。でも今は、嫌や。出て行ってから絶対戻って来る気しかあらへんけど、その間に遠城が、……冬司がどのくらい、寂しいとか辛いとか思うんかなって考えると、全然ずっとこのまんま触ってたいよ」

 遠城は黙った。悪態もつかないまま、枕をぎゅっと強く握った。

 その後に、ゆっくりこっちを向いた。

 眉間に皺を寄せた思い切り険しい顔で睨んで来たが、伸びて来た両手は俺の体を引き寄せた。

「ずっと居れば、ええやんけ……」

 遠城の本音がやっと直接俺に届いた。

 ほんまやな、じゃあそうするわって、俺が言わないことをわかっていて漏れた本音は言いたくなかったに決まっていて、遠城は俺の背中を強く引っ掻いてから首筋に噛み付いてきた。

 めちゃくちゃ痛かった。でも言わせたんだから、離させなかった。

 本当にちゃんと戻って来る。兄がある程度落ち着くまでは支えたいから出て行くけど、俺は相変わらず自分への愛着がないけど、他でもない遠城が俺を大事にしてくれるんだから、俺も自分のこと大事にできるようにしたい。

 そう話しながら行為を続けた。途中で黙れと怒られて、反論や言い訳をする前に唇に噛み付かれた。

 その後はお互いに無言になって、かなり陽が傾くまでベッドの上にいた。

 体力と空腹が限界になってしまい、名残惜しいと思いながら手を止めたけど、俺を見上げた遠城がぐったりしながらも呆れたように笑ったから、少しだけほっとした。

「覚悟決めた顔すんなや。連絡くらいはまともに寄越せよ、ヘタレ野郎」

 いつもの悪態に俺は頷いて、それよりも戻って来た時に怒らないで欲しいと頼んだ。遠城は眉を寄せ、怒らせるような戻り方をするなと最もなことを言った。どうだろうなと思ったが、俺だけで判断できることでもないので口には出さなかった。


 ふらつく遠城を支えながら風呂場に行って、夕飯は俺が作ると宣言して、台所に立っている時に帰宅した楓ちゃんに「ただいま神近さん!」と言いながら背中を軽く叩かれて思わず叫んだ。遠城にめちゃくちゃ引っ掻かれたところが痛かった。

「な、なんなん? そんな強くしてへんけど……」

「い、いや……別に……」

「オレがさっきまで引っ掻いてたからやな」

 いつのまにか風呂場から戻って来た遠城が、いつも通りの低体温であっさり言った。

「え、遠城、何言うてもうてんねん!」

「ほんまのことやんけ」

「えー、そんなにいちゃついてたん?」

「い、いや、まあ……最後みたいなもんやし……」

 楓ちゃんはまた俺の背中を叩いた。

「だから痛いんやって!」

「アホ近、さっさと戻って来て兄貴と結婚してや!」

「法律、法律で無理やからそれ、」

「事実婚でもええやんか! 大事なんは二人がそう思うかどうかなん、遊びやったら許さへんよ!」

「だから、主語抜きやと外聞悪いって……」

 大きな笑い声がした。驚いて二人同時に振り向くと、笑い続ける遠城がいた。口元を手で押さえながら肩を震わせる様子があんまり楽しそうだから、呆気に取られてしまった。

 遠城は手を振り、笑い過ぎて滲んだ涙を拭いながら俺を見た。

「あー、すまん、……いや、確かに俺が加害者なんやし、完治したとはいえ痕は残っとるし傷物にしてもうてるわけやから、責任取って結婚するわ、って理屈が通るんかと今更思ってな……ふっ、はは、ええな、責任取ったるからはよ戻って来い、神近三春」

 元々そのつもりだとしてもそんな風に言われては、わかりました以外の返答が出来ない。楓ちゃんは手放しで喜んでいるし、遠城はまだ笑っているし、俺はさっきまで遠城に散々甘いことを話していたところだし、異様に恥ずかしくなってきた。

 最後の夕飯は、このようないつも通りの雰囲気だった。

 翌日に、まったくない荷物を鞄に詰めて出て行く時には、なんの実感もない有り様だった。

 何かを吹っ切ったように笑う遠城は、工場の出入り口に寄り掛かりながら俺を見送ってくれた。

 すぐに戻れるように頑張る。伝えた瞬間に鼻で笑われたけど、

「あの時轢いて悪かったな、三春」

 そう続いたから、出来るだけ真剣に見つめ返した。

「俺は轢かれて良かったよ、冬司と楓ちゃん見てて、家族ってええもんなんやなって初めてわかったし、兄ちゃんともまともに話せた。せやから轢かれて良かったし、轢き殺されんくて良かった」

 遠城は溜め息をついた。がしがしと頭をかいてから、はよ行けアホ、と不機嫌そうに呟いた。

「轢き殺さんで良かったわ」

 背中を向けて歩き出した瞬間にそう言われた。

 振り向いたが、遠城はもう工場の中へ行ってしまって顔は見られなかった。

 追い掛けたいと思いながら、前を向いて歩いた。駅まで歩く道すがら、遠城に轢かれた交差点を通り、遠城の母親を最後に見たらしい墓地の隣を進んだ。

 別れたわけではなくとも寂しかった。人を好きになるってこういうことか、なんて腑に落ちた。


 だからめちゃくちゃ頑張った。

 俺が戻る日、多分怒るであろう遠城のことを考えながら、意外とスパルタな天宮さんに扱かれた。

 天宮さんは定年が近くて事務職を引き継げる相手を探していた。

 俺に目を付けたのは、ひとえに遠城のためだった。

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