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 パソコンを教わることについて、遠城には黙っていてくれと言われた。まあ黙っていても問題ない話だし、天宮さんにもなにか考えがあるのだろうと了承した。

 遠城が戻って来るまでの間に軽く操作方法などを聞いた。学校で習った記憶は失っていなかったし、コンビニでの発注作業で触るタブレットと似たような雰囲気だったため、思っていたよりは使えそうだった。

 エクセルというものの説明を聞いていると、聞き慣れたバイクの音が家の前まで走ってきた。

「戻りましたー……って、何やっとんねんお前」

 遠城はバイクを片付け、俺を怪訝そうに見ながらこっちに歩いて来た。

「おかえり冬司くん」

 にこやかに迎えた天宮さんは俺に横目を送った。黙っていてくれと頼まれたばかりなので、

「おかえり遠城、暇やったから仕事見せてもろててん」

 なんとか搾り出した嘘を伝えた。遠城は片眉を引き上げてから、まあええわ、と軽く流した。

「持ち込み修理とかなかったですか?」

「ああ、一件請けたで。前輪パンクやから、替えたほうがええやろね。ついでにオイル交換もしてくれって」

「わかりました、すぐやります」

「あと、メンテナンス費用の問い合わせ電話があったわ。夕方頃に予約入れたから」

「了解す」

 忙しそうにし始めたので、そっと事務室を離れる。振り向いた天宮さんにまた後でと目で言われ、こくこくと頷いてから家の中に引っ込んだ。

 夕方からは冷凍倉庫での仕事なのだがどうしよう。悩みながら出勤準備をしていると、天宮さんは三十分後くらいに工場に続く扉から顔を出した。

「神近くん、これ僕の連絡先」

 電話番号とアドレスの書かれた紙を受け取った。

「あ、ありがとうございます……あの、俺、」

「仕事やろ? 後で連絡入れといて、また今度」

「は、はい……」

 天宮さんは素早く引っ込んだ。ちょっと呆気に取られつつ連絡先はスマホに入れた。

 いい時間になったので自転車に乗り、冷凍倉庫へ向かいながら、天宮さんは何を考えているんだろうとあれこれ悩んだ。

 この悩みは天宮さんにメールを送ったところで解決したが、今後の予定を大幅に変えることにもなって、ばたついた。


 遠城の家を出て行く日の前日の朝、遠城に頼みがあると話し掛けられた。引っ越しやらなんやらで休みにはしていたし、遠城の頼みは珍しかったし、むしろ一緒にいる時間を作りたいと淡く考えたゆえの休みだったし、二つ返事で了承した。

 遠城は頷き、俺に指定のゴミ袋を手渡した。

「掃除、手伝ってくれ」

「あ、うん、工場の?」

「いや、工場は今日は臨時休業。掃除すんのは、母親の部屋」

 淡々としている遠城を思わずまじまじと見た。

 俺がずっと使っていた遠城の母親の部屋。俺も出て行くし、定期的に掃除していると話していたから、その手伝いかと思ったが、違った。

 遠城は部屋に入るなり、化粧台の引き出しを開けて中身をゴミ袋にぶち込んだ。

 あまりの躊躇いのなさに驚いて止めてしまった。

「え、遠城? なんちゅうか、その、ずっとこの状態で残してる部屋、なんやんな?」

 初めて入った時からずっと時間の止まっている部屋だ。古い型のテレビに、並べられているビデオテープに、誰も座らない化粧台。開けたことはないが、クローゼットの中には母親の服が残っているだろう。

 遠城は無表情で俺を見下ろし、

「ええねんもう。要らんから、全部捨てる」

 あっさり言うのでにわかに焦った。

「いや、あかんやろ……遠城やって、色々考えがあって、そのまんまにしてたんやろ?」

「まあ、そうや。でももうええ」

「な、なんで急に?」

「急にちゃう。ずっと片付けなあかんなとは、思うてた」

 引き出しから取り出された、もう使えないであろう化粧水がゴミ袋に放り込まれる。

「お前も出て行くんやし、ちょうどええ。いつかは吹っ切らなあかんもんやって、オレにもわかっとんねん」

「……あー……俺が使てたから、掃除しにくかったとか……?」

「はじめはそうやったけど今は違う」

 話している間に遠城は化粧台の引き出しの中をほとんどゴミ袋に入れた。燃えるゴミも燃えないゴミも混ざっているが、遠城にとっては、ゴミとして捨てることが重要なんだろう。

 クローゼットを開けた背中に近付いた。ゴミ袋を広げて待っていると、シャツやスカートが放り込まれた。防虫剤とカビが混ざり合った臭いがする。腐敗とも違う。古めかしくて、正体のない臭いだ。

 ずっと遠城を苦しめている終わらなさに満ちた部屋だと、実感する。俺が半ば呆然としている間に遠城はクローゼットの中を空にした。深い息を吐いてから、休む間もなくテレビ台の下のビデオテープを片付け始めた。

 俺は従った。限界まで服が詰め込まれたゴミ袋は口を縛って、次の袋を広げ、黙って作業を続ける遠城の傍にいた。

 ゴミ袋は最終的に八袋になり、テレビや化粧台の鏡などの粗大ゴミを残して、掃除は終わった。朝から始めていたが、もう昼過ぎだった。

 物がなくなった部屋は妙に広かった。ベッドはそのままだけど、ベッドサイドに置かれていた母親の荷物類は処理された。ゴミの日はまだなのでゴミ袋自体は部屋の中に置かれている。でも、そっと見上げた遠城の顔はどこかすっきりとしていた。良かったな、と内心安堵していると目が合った。

「お前、この家にほんまに戻って来るんか?」

 最終確認のような聞き方だった。兄の調子は良さそうだとか、母親から取り返した通帳のお陰で俺は朝昼晩と働かなくても良くなったとか、天宮さんによって諸々予定を変えることになったとか、色々現実的な話を考えてから一旦捨てた。

「戻って来る。俺、ちゃんと自信とか持てるようになってから、改めて遠城と一緒に暮らしたいねん。だから戻って来たい、待ってて欲しい」

 希望だけを話した。遠城は眉を寄せながら俺を見下ろし、溜め息をついて腕を伸ばしてきた。

 デコピンされるかと思ったが、髪をぐしゃぐしゃと撫でられた。

「ほな今からは、ここがそのまんまお前の部屋や。戻って来た時もここ使え」

「え、……あ、だから片付けたん……?」

「戻って来ん母親を待つための部屋なんか無価値やんけ。せやけどお前は戻って来る気があるんやろ、それなら待っとるわ。せいぜい頑張って、自信やら自分への愛着やら探して来いや」

 ぱっと離された手を掴んだ。拒否されるかもと思いながら俺のものになったベッドへと誘導すると、遠城は呆れたように笑った。

「昼間から盛んなや、どこでスイッチ入ってん」

「ど、どこやろ……わからん、でも遠城、遠城が待っててくれるん、めっちゃ嬉しい……」

「はー……なんやねんお前……」

 抵抗せずに押し倒されてくれた遠城は、上に乗る俺の頭を両手で掻き回した。期待せんと待っとるわ、なんて投げるように言ったけど、口元にはどこか諦めたような笑みが浮かんでいた。

 はじめの頃はこの部屋で及ぶことを拒否していた遠城は、自分から俺の体を引き寄せて、強い力で抱き締めた。

 本当に戻って来るのかどうしても信じ切れないし、出来るだけすぐ戻って来てくれないとまた親の行方を考えていた時のような日々になってしまうってことを、絶対に俺には言いたくないんだと察するには充分だった。

 妹はまだ高校生で工場の責任者である遠城はここを離れるわけにはいかない。でも俺は親から離れて兄とは和解していくところで、どこにでも行けるように見えるのかもしれない。

 今の俺は多分、遠城にとって遠いんだ。

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