6

 兄のアパートまで一緒に戻った。明日の仕事は昼過ぎからの冷凍倉庫のみだったし、今後の相談をするためにも、そのまま泊まることにした。兄はメンタルクリニックが楽しいらしい。治療そのものが楽しいわけではなく、精神科の専門医と話すことで何かしらの知識欲が満たされるようだ。

 この人は勉強は好きなんだったなと思いつつ、先生に教えてもらったらしい様々な療法の話を聞いた。ついでに処方された薬を見せてもらい、案外と量が多くてちょっとびっくりしつつ、そもそもは俺が行くようにと渡されたリストだったと思い出す。

 それを聞いた兄は首を傾げた。

「おれは専門医ちゃうし、わからんけど、今の三春には要らんのちゃうかな……?」

「あー、うん、俺もそう思う……」

 遠城に何かと世話を焼いてもらうおんぶにだっこ状態が辛かったと担当医に話したせいで渡されたのだと説明すると、兄は更に首を傾けて俺を見た。

「冬司さんて、そんなに三春の世話焼くん?」

「あ……えーと」

 そもそも俺を轢いたのが遠城なのだと、兄には説明していない。今の兄になら話してもいいと思うが、遠城の理解なしに突っ走りたくもない。

 なので結局、その通りだと肯定するだけにした。兄はぱっと笑顔になった。

「やっぱり三春のこと、めっちゃ好きなんや」

「そう……なんかな、わからん」

「おれもあんまりわかってへんけど、会うた時に怒られたし、顔怖かった」

 素直な言い草に苦笑してしまう。兄はにこにことしたまま、親もおれも三春が寝込んでた時とかなんもせんかったやん、と昔の話を持ち出し始めた。

「うん、まあ……放置されてたな……」

「せやけど冬司さんは、三春の腕折れてた時に、色々してくれてたんやろ? 顔怖かったけど、ええ人やな。おれもあの人、好きや」

「えっ」

「あっ、その、付き合いたいとかちゃうよ……?」

 慌てた否定に慌てて頷く。兄は困ったように眉を下げてから、あの子に似てはるし、と続けた。

 楓ちゃんを探すことはとりあえず諦めたらしい。それどころではないと、今は自分で理解したと兄は言う。もう少し経って落ち着けば紹介しても平気だとは思うが、楓ちゃんには柊くんという彼氏がいるため、別の修羅場がある気もして二の足を踏みたくもなる。俺は相変わらず優柔不断だ。ド金髪にしてスカジャンにオールバックの、職質をされる見た目になろうが根本は変わらない。

 自己反省しつつ、兄と色々話をした。スーパーで買った弁当を向かい合わせで食べながら、昔のことをお互いにぽつぽつと漏らした。俺が放置されて親と兄だけで行っていた温泉旅行の話を聞いてみると、四六時中どちらかが隣りにいて何かと口を出してきてまったく楽しめなかった気がすると返ってきた。

「でも、そういうの、わからんようになってたかもしれへん。善悪とか可不可の見分けがつかへんというか……言われたことはやらなあかんし、ずっと従ってたら、なんも考えんでええねん。なんも考えとうなかったんかな、おれは……」

 兄の独白じみた言葉には頷きだけを返した。病院にかかっているからには俺が口を出すべきではないからだし、俺は俺で、前までの兄を邪魔だし重荷だと思っていたのは事実で、今更虫の良いことは言えない。兄もわかっているのか、俺にどうすればいいかはもう聞かない。本当に困れば聞いてくるだろうけど、その時は俺も、まともに返せるようになりたい。

 布団を並べて寝転がったあと、そういえば兄弟だけどこうやって隣で寝るのは初めてだと気が付いた。それくらい俺たちは、触れ合わないまま暮らしていた兄弟だったんだ。遠城たちとは、真逆だ。

 近いけど遠かった兄が立てる寝息を聞きながら、遠城はもう寝ただろうかと考えた。

 起きた時には遠城からメッセージが来ており、諸々上手くいったという俺の報告への返信で、おつかれ、だけの簡素な労いが途方に暮れたくなるくらい嬉しかった。

 全部遠城のお陰だとか言いたくなってしまって、でもそれは遠城にとって手放しで嬉しいわけでもないんだと、俺は本当のギリギリに気付いた。


 冷凍倉庫までちょうどいい距離のアパートに空きがあった。家賃も妥当で近場にスーパーもある良い立地で、兄からお金をある程度は返してもらえたためそこに契約しようと決めた。

 昼から夜まで冷凍倉庫、深夜から早朝までコンビニで働いたあとに、その報告を遠城にしようと帰路についた。

 十二月の朝は薄暗く、街灯がまだついている箇所もある。人はいなくて、冴えた冷たさに鼻の奥が引き攣るように痛んだ。勤務後の疲れもあるし、眠かった。どこかぼんやりしながら楓ちゃんに借りたまま自転車でその暗さの中を泳いだ。

 家について、中に入って、すぐに寝た。起きると昼前で、家だけではなく工場からも音がしなかった。

 なんとなく不思議になり、工場を覗いた。シャッターは空いていたが遠城の姿はなく、天宮さんがパソコン前で作業をしていた。

「ああ、神近くん、おはよう」

「おはようございます……あの、」

「冬司くんはバイクの出張点検周りに行ったで。十二月過ぎたから、修理やらメンテナンスがそこそこ忙しなるねん」

 そうなのか、と間抜けな感想を持つ。天宮さんは持ち込みの修理受け付けや、工場で売っているバイクや部品の販売などを請け負いここに残っているらしい。

 遠城がいないならと引っ込みかけたが、ふと思い出して、パソコンを覗いている天宮さんに近付いた。

「あの、前に……色々、ありがとうございました」

 遠城の親について聞いた時の、天宮さんの反応はとても真摯だったと思う。それについてお礼をしたつもりだったが天宮さんは不思議そうに瞬きを落とした。

「僕は神近くんになんかしたんやっけ……? もうトシやな、全然覚えてへん」

「あっ、いや、前に遠城の親御さんのこと聞いて……」

 説明すれば、ああ、と納得してもらえた。

「そんなこともあったなぁ」

「はい、遠城からもお父さんお母さんと、後妻さんの話を直接聞けたんで……あの時天宮さんから聞かんで良かったなと……せやからありがとうございました」

 天宮さんは不自然に止まった。顎に手を当てつつ、俺を見た。

「……お母さんの話も聞いたん?」

「え、はい。中学くらいで出て行って、最後に会うたんはスーパー近くの墓場のとこ、っちゅう話を」

「そうなんか……」

 無言の時間が訪れた。天宮さんは何かを考えている様子で、もしかして遠城のお母さんと天宮さんは何かあったのだろうかとか、むしろ天宮さんは知らない話だったのだろうかそれなら不用意過ぎたとか、俺は冷や汗をかき始めた。

 そうだ遠城は母親については話す気があまりなかったと言っていた。なら、天宮さんは本当に知らなかったのかもしれない。どうしよう。

「神近くん」

「はっはい!」

 何を言われるかと震えたが、

「神近くんてパソコン得意?」

 予想外のことを問われた。

「と……得意、じゃないです……触ったこともあんまないですね……」

「……そうかあ……興味もあらへん?」

「まあ、あんまり、ないですかね……」

 天宮さんは唸った。

「教える言うたら、覚える?」

 唸ったあとにそう言った。

 何の意図があるのかまるでわからない質問だったが、天宮さんにしてはものすごく珍しい険しい顔で聞かれたために、反射で頷いた。

 結果的には受けて正解だったけど、こんな唐突な経緯で、もうすぐこの家を出るというのに、天宮さんの個人レッスンが始まった。

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