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 明らかに警戒している母に「神近一寿くんの代理やねんわ」と上から目線を保ちながら告げると、顔色が変わった。

 兄の社会人時代の知り合いであること、一寿くんは俺から金を借りたために返さなければならないこと、だから通帳を持ってこさせたことを矢継ぎ早に話して聞かせてから、まあゆっくり話そか、と喫茶店を顎で指し示す。

 母は首を振った。

「つ、通帳は、持って来てなくて……一寿に会えるからって、その、……持って来るのを忘れて……」

 と言い始めたので、遠城の顔を思い出しながら息を吸った。

「せやったらこのまんま銀行についてかせてもらうぞカス。借りた金も返さんドアホの息子の代わりを親がすんのは当然やんけ、んなこともわからんか? ここで断ったらもっと大勢で来なあかんしなあ、家の場所も一寿くんに聞けばええだけなんやぞ。そっちのほうがええなら俺はかまへんけどどうすんねんはよ決めろ通帳持ってんのか持ってへんのかはっきり示せやクソババア」

 言い終わるや否や、鞄から通帳が取り出された。素早く引っ手繰り、暗証番号は一寿くんが知っとるからええぞ、と笑いながら言っておく。母は顔面蒼白で頷いた。鞄の紐を握る手が震えていて、あーこいつほんまに俺の母親やなと、嫌なところで腑に落ちた。カツアゲされそうになったときの自分みたいだし、初見の遠城にビビっていた自分にそっくりだ。

「おおきにな、一寿くんにも快く渡してもろた言うとくわ」

「……あの……あの子、今何を……借金って、なんの、」

「親なんやったら自分で聞けや、ババアの身の上話聞くほど暇ちゃうねんわかれやボケが」

 突き放しつつ背を向けるが、ふと思い付いて振り向いた。びくりと肩を震わせた樣子に苦笑しそうになって、なんとか堪えてから、ポケットに手を押し込んだ。

「一寿くん、弟がいる言うてたけど? そいつにでも聞いたらええやろが」

 母はぽかんとした顔になってから、

「や、役に立たん子、ですし……」

 と本人目の前で言った。

 思わず笑ってしまった。母は怯えた樣子で身を震わせたが、もう放置して歩き出す。来た道を戻って駅に向かい、途中で一度追われていないかどうか確認したが、母の姿はなかった。

 肩から力が抜けた。とりあえずなんとかなってよかったと、ポケットの中で通帳の手触りを確かめながら安堵する。クレジットカードの類は作っていないと聞いたから大丈夫だろう。いくら残っているのかは知らないが、大学にかかった金は返してくれるつもりのようだったし、留学はキャンセルされたから俺の借金も返せている。後は兄にまともに治療を続けてもらって、俺の方も生活を整えて、今度こそ兄弟揃ってある程度はまともに生きていけるはずだ。

 それにしても、思いのほか自分が冷静だったことには自分で驚いた。案外と吹っ切れていたのだなとわかったし、母の最後の言葉で完全に切り捨てることができた気もする。遠城のおかげも、やっぱり大きいな。脅し方を教えられた時はできるか不安だったけどやればなんとかなるものなんだ。

 気が抜けたからか喉が渇いた。駅近くにあったコンビニに入り、適当にお茶のペットボトルを選んでレジへと持って行く。店員さんは俺と目を合わせない。見た目が完全に怖い人なんだろうなとこんなところでも実感する。

 コンビニを出てからは真直に駅へと向かった。駅の敷地内を歩きつつ、さっさと帰ろうと決めて、往復切符を財布から出す。

 改札に向かいかけた。でも兄には連絡しようかと一旦立ち止まる。スマートフォンを取り出して画面を開けば、兄からの連絡がすでに来ていた。なんだろうと開いた瞬間に走りかけたが遅かった。

「すみません、ちょっとお話しいいですかね?」

 背後から話し掛けられた。振り向くと二人組の警官がいて、嫌な予感が背中を走った。兄からのメールには早く逃げろと書かれてあった。母が兄に連絡したのか、通帳をもらったあと即座に通報したようだと。

 死ぬほど焦った顔になったと思う。警官は怪訝そうな顔をしてから、何してるんですかね、電車に乗られるんですか? と聞いてきた。

「あー……まあ、これから帰るというか……」

 怪しい返答になっていると気付きつつ、警官二人の顔を交互に見る。職務質問をされたのは初めてで勝手がわからない、というか、本当に母の通報で来たのか見た目が完全に怖い人だから話し掛けてきたのかが判断不能だ。

 そう思っている間に、この辺りの住人なのか、どこまで帰るのかと質問が続いた。住人ではないし帰るのは関西圏だと本当のことを話して、なんとか逃れようと頑張った。

「実はさっき、金髪の男性に通帳を取られたという通報があったんですよ」

 頑張ったがキツかった。

「あー……そうなんですか……」

「はい、まあ別にお兄さんを疑ってるってわけやないんで、ポケットの中とか免許証とか見せてもらえれば」

「いや……」

 通帳を出せば終わるし詰みだ。どうする。走って逃げるか。いや現役警察官に勝てるわけない、じゃあ事情を全部話すか。でもそうすると連れて行かれなくとも母に事情を説明されて三春だってバレることになるか。なら逃げるか、逃げるならどこだ。

 ここまで考えて逃げようと足を引いた。警官二人は明らかに警戒して、駅前の派出所に同行してもらおうか、と言い出した。

 踵を返して走ろうとしたところで、

「み、三春!!」

 震えた叫び声が聞こえた。

 俺と警官が見た先には兄がいた。

「に、兄ちゃん?」

「三春、か、帰ろう……」

 兄は足早に近寄ってきて、俺と警官の間に入るようにした。

 警官二人はまともで真面目そうな兄の登場に面食らっていたが、二人が何かを言う前に兄は警官に頭を下げた。

「す、すみません、この子、弟で……あの、通報したの、おれの母親で、ただの家族喧嘩で、母親が勝手に、迷惑なことをしただけで……本当にすみません……!」

 兄の辿々しさに警官は困った顔をして、俺をちらりと見た。頭を下げ続けている兄を促し、俺と兄両方の免許証を出して見せると、納得してくれたようだった。

 迷惑行為については当然注意されたが、警官は誤報だったと無線をかけて去っていった。

「……兄ちゃん、なんでおるん?」

 警官の姿が完全に見えなくなってから聞いてみると、

「三春が心配で、追い掛けた……っちゅうか、先に、待ち合わせの喫茶店の中で張っててん。二人とも、入って来んかったけど……」

 兄らしい回答が来た。楓ちゃんを探そうとしたり大学に入り直そうとしたりする斜め上の行動力が、結果的にプラスになってなんだか笑ってしまった。

「そっか、うん、ありがとう兄ちゃん」

「でもごめん、警察もお母さんも怖かったから、来るの遅なった……」

「いや、……あ、通帳ちゃんともろてきたから」

「うん、ありがとう三春」

 通帳はとりあえず兄に渡す。それから二人で改札を抜け、人の少ないホームへと向かった。

 電車の中で兄は、親の連絡先を削除して、拒否設定に放り込んだ。本当にいいのか一応聞いてしまったが、兄は肩の荷を下ろしたような顔で、頷いた。

 見られて嬉しいなと、素直に思う表情だった。

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