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 楓ちゃんの気配を気にしながら抱き合った。彼女は邪魔などはしないけれど、声が漏れていないかはやはり気になる。遠城もそうなのか、終始無言だった。自分から俯せになって枕を噛む様子に催さなかったと言えば嘘になるがどうにか耐えた。

 終わった後に二人でシャワーを浴びに行くと一階は暗かった。楓ちゃんは寝たかどうか、とりあえず部屋にいるようだ。風呂はまだ湯が張ってあって、浴室はほんのり暖かかった。

 シャワーは先に浴びてもらうことにした。浴室はまあまあ狭いので脱衣場で待とうとしたが、腕を引かれて結局連れ込まれた。遠城はシャワーで汗を流し、一息ついてから、浴槽の蓋に腰を下ろした。

「お前が出て行くことに、楓はまだ全然納得しとらへんねん」

 俺のシャワーが終わるのを待ってから話し始めた。

「神近は前の生活に戻るんやぞ言うて、これでも毎日説得しとるんやけどな。……柊にも説得させたほうがええかもしれん、あいつの言うことを楓が聞くかはともかく」

「……俺も一応その話は楓ちゃんにして、俺には納得しとる風には言うてたけど……また戻って来るかどうかは、念入りに押された」

「あ? 戻って来るんか?」

 ぱっと顔を上げた遠城の隣に腰掛ける。蓋がぎしりと鳴って、慌てて立ちかけるけど、逃さないとでも言うように太腿を強く押さえ付けられた。

「お前、いつまで経ってもオレに関することをオレに話さんな。どつかれたいんか?」

「あっ、いや、戻って来るて話はさ、その……ただの希望っちゅうか、何の見通しもないけどとりあえず立てた目標っちゅうか」

「オレが戻って来んな言うたら二秒で破綻するやんけ」

「えっ、あかん?」

 反射で聞くと、

「……好きにせえや、どうせ部屋は余っとる」

 遠城は一瞬止まってから投げるように言った。

「戻って来る時は適当に連絡しろ。その時の状況もわからんからな」

「あ、うん」

「そんで楓のことやけど、とりあえず説得は続けとくわ」

「あー……それは、でも、逆に意固地になりそうな気もするから……俺の前ではギリギリ納得しとったんやし、様子見でええんちゃうかな……?」

 ちゃんと答えたつもりだったが、返事はなかった。何か変な言い方だったかなとにわかに焦った。でも隣を見た瞬間に、ふっと柔らかい息をついて笑われたから、次は違う意味で焦った。俺相手だからこその気の抜けた表情なのかなとか、考えてしまった。

 遠城は笑ったまま、お前現実主義よな、と面白そうに言った。

「まあ、でも一理あると思うから、楓にはあんま言い過ぎんようにしとくわ。ありがとうな、神近」

 頷いてから、なんとなく触りたくなって、指を伸ばした。肩の前に垂れている濡れた髪に指を触れさせ、流れを確かめつつ撫でる。もう冷えていた。いつまでも素っ裸で話しているものではないなと、遠城の手を取って立ち上がる。

 いつかは本当に戻って来たい。問題が色々と解決して、遠城の近くにいてももう甘えないし大丈夫だって自分が思えたなら、また一緒に暮らしたい。みんなで仲良く夕飯を食べるとか、病院に付き添ってもらうとか、会社の送り迎えまでしてもらうとか、温泉旅行に連れて行ってくれるとか、本当の家族にはやってもらえなかったことをしてくれた遠城たちには感謝しかない、だから兄にちゃんと向き合えるようになりたいし親のことを完全に吹っ切りたい、俺にこうやって付き合ってくれる遠城に報いたい。

 そんな話を脱衣場で聞かせた。遠城は黙って聞いてくれたが、話が終わった後、緩めのデコピンを当ててきた。

「いっ……たくはないけど、なんで攻撃すんねん……」

「歯ぁ浮くようなことベラベラ言うからや」

「そんなつもりは……あ、そういや俺、遠城の長髪似合ってて好きやで、っ痛い!」

 追撃のデコピンは強かった。遠城は舌打ちし、髪をタオルでがしがしと拭いて、さっさと服を着て脱衣場から出て行ってしまった。

 急いで追い掛けた。階段を登る背中に追い付き、部屋までの分かれ道でおやすみと言い掛けたが、止めた。

「遠城、一緒に寝よう」

 遠城は肩越しに振り返った。思い切り眉を寄せていたが、あー照れ隠しなんや、とわかってしまってついにやけた。

「遠城て、たまに急にかわええよな……」

「どつくぞ」

「あっ、ごめん、ほんまごめん」

「一緒に寝るんやったらはよ来いや」

 今度は自室に向かっていく背中を急いで追い掛けた。

 ベッドに並んで転がってからは抱き寄せられて、兄の様子が本格的におかしくなり始めたのは中学だとか、遠城の部屋の本棚にあるSF小説はほとんど遠城の父親の持ち物だとか、色々落ち着いた後に二人で出掛けるならどこだろうとか、取り留めもなく話をしていつの間にか二人して眠っていた。夢も見なかった。早朝にふっと目を覚ました時、目の前にはまだ遠城が寝息を立てながらそこにいた。すっかり気の緩んだ寝顔は、起き抜けのぼやけた頭の中に最も鮮明に残った。

 どうしてここまで好きになったのか自分でもわからないくらい、遠城のことが大事だった。

 大事にしたいんだなと思った。


 試しに借りたスカジャンを羽織ってコンビニに出勤してみると、休憩中の英さんは真顔で固まった。

「な……ど、どうしたん、神近くん……」

「あ、あんま似合わないですかね……?」

 英さんはサンドイッチを飲み込みながら首を振った。

「似合わんわけちゃうけど、神近くんやって気付かんレベルやった」

「そんなにです?」

「髪もド金髪やからなー……どないしたん、イメチェン? やっぱりあのイケメンくんに合わせて、見た目から強くしてみた感じとか?」

 まったく的外れな訳ではないが否定する。英さんは尚も驚いた顔のまま俺を眺めているので、スカジャンだけは遠城の持ち物だと話してみた。納得したような顔の頷きが返ってきた。

「イケメンくんとほんま仲ええね」

「あ、はい」

「お兄さんはお兄さんでちょっと変わってはる人やったけどさ、なんだかんだ兄弟仲悪くないみたいやし、神近くんの人徳って感じすんなー」

 人徳。予想外の言葉につい鸚鵡返しすると、英さんは明るく笑った。

「ちゃんとしようと思ってることには真面目っていうか、そういうん、見てたらわかるやん? 神近くんのその、気弱やのに頑張って捨て鉢で生きとる雰囲気、気に入る人は気に入るやろー、私とか、イケメンくんとかさ」

 遠城にも似たことを言われた記憶があって、俺は何も言えなくなったが、英さんは気にした様子もなくサンドイッチを食べる作業に戻った。

 ありがとうございますと、着替える前に話し掛けた。英さんは目尻を和らげながら首を振り、髪の毛オールバックにでもしたらヤカラに見えるでー、と茶化すように教えてくれた。


 だから俺は、楓ちゃんに選んでもらった柄シャツを着て、遠城が貸してくれたスカジャンを羽織って、英さんが言った通りにオールバックにした。

 自分で決めた金髪は案外眩しかった。バイクのヘッドライトを思い出して懐かしくなりながら、完治した右腕で玄関扉を開けた。

 親と待ち合わせた駅まで向かうために、背筋を正して歩き始めた。

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