此岸

1

 腕はもうほとんど治っていて、冷凍倉庫の勤務はを怪我をする以前の状態に戻してもらった。とはいえ、思うところはある。仕事自体は慣れているし給料もかなりいいから職場自体の不満ではない。

 休憩に入ったあと、手作り弁当を食べている上司を訪ねた。事務室でパソコンに向かい合いながらブロッコリーを頬張っていたが、俺を見るとどっちの手も止めてくれた。

「神近くん! もう腕の調子は良さそうやなあ」

「あ、はい、ご迷惑をお掛けしました」

「いやいや、災難やったねえ」

「そうでもないです、怪我したおかげで色々……兄とも和解したというか」

 上司は眉を下げた。立ったままの俺を空いた椅子に座るよう促して、弁当のプチトマトを口に放り込んだ。

「お兄さん、あれからうちには電話してきてへんけどね」

 と、飲み込んだあとに懸念するように言った。

「その件も、ご迷惑お掛けしました。兄と先日話したんです。俺にも会社にも悪かったと理解してくれたみたいで」

「ほうか……大丈夫なんか?」

「大丈夫です。せやけどちょっとだけお願いが……」

「なんやなんや、なんでも言うてくれ」

 はい、と言いながら頷き、

「あの……髪の毛をド金髪にしたいんですけど、ええですか?」

 聞いてみるとぽかんとされた。口に運びかけていた鶏の照り焼きから、汁が一粒垂れた。


 就業規則に載っているヘアカラー規定のサンプルをもらった。でも全然守られていないと上司は言い添え、自作だったらしい弁当をぱくぱく食べていた。

 翌日早速ブリーチ剤を買って来て、バイトが片方ない空いた夕方の時間帯、帰宅していた楓ちゃんに断って風呂場を借りた。

「なんで金髪にしようとしとるん?」

 楓ちゃんは風呂場の扉前に佇みながら聞いてきた。

「うーん……俺って、見た目弱そうやろ?」

「うん、私でも倒せるかもーって思う時ある」

「はは……まあそういうこと」

「めっちゃヤンキースタイルにして、強そうに見せたいみたいな? でも中身がよわよわやったら意味ないんちゃう?」

 相変わらずのオブラートのなさだ。でもその通りだし、苦笑しつつ肯定した。

 楓ちゃんはブリーチ剤を塗りたくる手伝いをしてくれた。自分で毛染めをしたことがないから興味があったらしい。遠城は染めていたことがないのか聞いてみると、そういえば見たことないなー、と首を傾げていた。

「俺が染めとる理由と、逆の理由かもな」

「どういうこと?」

「いや……俺、めちゃくちゃナメられるというか……カツアゲとかされたことあるし、痴漢濡れ衣かけられそうになったし……」

「うわー……それっぽい……」

「そやろ。でも遠城は、背高いし無駄にイケメンやし、ゴリゴリに染めとる方が人が近寄ってこんから、ずっと黒髪なんかも」

 長髪な理由は知らんけど、と一応言い添える。楓ちゃんはそっちはわかるようで、俺の髪を無駄に弄りながら話してくれた。なんせ彼女は物心ついた時には兄しかいない状態で、母親が迎えに来ている同じ組の子やスーパーを家族連れで歩く他の家庭が羨ましくて仕方なく、小さな頃に癇癪を起こしたらしい。

「そんなん今は思わんけどな。で、兄貴は男やから父親ってことで無理矢理納得したんやけど、そうなったらお母さん欲しい! ってなってもうたんよ。そしたら兄貴、見た目だけで許せって言うて髪全然切らんようになった。もうええんやけどさ、見慣れたし似合っとるし、短髪にしてええよーって言うてない」

「まあ……長髪、似合っとるよな……」

「あ、兄貴の長髪好き? 言っといてあげる!」

「いや、自分で言うよ」

 髪から手を離させて、ブリーチ剤のパッケージに視線を落とす。かなり脱色するつもりだから限界まで置いておくつもりだけど、傷み方も半端ないだろう。背に腹は代えられない。

 顔を上げると変な顔をする楓ちゃんと目が合った。ブリーチ剤の刺激臭にやられたのかと思ったが、

「神近さん、なんかあった?」

 突然聞かれた。

「なんかって……?」

「え、だって、前までの神近さんやったら、兄貴に言うとくとか私が言うたら、わりとほんまにやめてー! みたいな反応してたやん」

「あー……なるほど」

「なんか急に大人っぽくなった感じでちょっとむかつく!」

 笑顔で罵倒された。むかつかせるつもりはないのだけれど、まあもういいや、ととりあえず流した。

 ブリーチ剤を脇に置き、風呂場の鏡を覗く。今はまだ脱色されている感じはない。自分の顔はいつも通り中々冴えないが、だからどうということもなく、一生付き合っていくしかないなと思う。

「なあ、楓ちゃん」

「んー?」

「俺の兄弟のこと、黙っててくれてありがとう」

 鏡越しに合わさった視線が揺れた。楓ちゃんは一歩下がり、別に、と口ごもりながら呟いた。

「だって、兄貴に知られたないんやろ」

「うん、……でももうええねん、ごめん」

「……何がごめんなん」

「俺の兄ちゃん、もう楓ちゃんの周りに行かへんと思う。迷惑掛けて、ごめんな」

 手が振り上がった。振り向きざまに掴むと、俺の背中を叩こうとしていた楓ちゃんは驚いたように目を見開いた。女子高生に怪我をさせたくはないのですぐに離したが、追撃は来なかった。

「……別に、そんなん、お兄さんになんかされたわけちゃうし……」

 独り言に似た声は風呂場に響いた。

「ていうか、兄貴にも言うてへんのになんで知ってんの?」

「兄ちゃんから直接聞いた」

 柊くんのことは言わなくていいだろうと即答した。楓ちゃんはちょっと眉を寄せたが、お兄さんなんのつもりやったん、と気になっていたらしいことを聞いてきた。

「いや、なにしようとしてたんか聞いてみたらさ、もう一回会いたかっただけで何したらいいかわからんって言われたわ」

「えっ?」

「あの人、通院することになってん。俺はほとんど唯一くらいの家族やし、色々助けなあかんくてさ。……せやから話してた通りにこの家は出るけど、それはもう遠城も納得しとることやし……楓ちゃんは気にせんでええよ」

「でも、せやったら兄貴寂しがるやん」

「別れるわけちゃうんやから、平気やで」

 楓ちゃんは納得しかねると思い切り顔に書いた。一応頷いてはくれたけど、何か言いたそうに俺を睨んだ。

「お兄さんの病院とかが落ち着いたら、戻って来る?」

 ちょっと黙ってしまった。先のことを軽率に決めてはいけないんじゃないか、と理性が考えた。

 でも、希望的観測をとって、頷くことにした。

 楓ちゃんはほっとした顔で笑ってくれた。

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