8
兄を脅しにかかったらどうしようと思っていたが、それに関しては心配がいらないようだった。遠城は言い切ったあとに俺の頭から手を離して、何事もなかった顔で豚汁を啜っていた。俺も唐揚げ定食に手を付けたがあまり味わえなかった。無言の間に食べ続け、気付くと一番早くに完食していた。
日替わり定食のアジフライを食べている兄に視線を向けた。かなりフラットな顔をしており、遠城の言葉を聞いてどう思ったかは謎だ。でも聞いておくというか、遠城がいる今、再び話させなくてはいけないことがあった。
「兄ちゃん」
食べ終わった兄に声を掛ける。
「高校とか駅近くで、あの女の子探すの止めろ……っちゅうか、見つけた後にどうしたらええかわからへんなら、ちゃんと自分で考えられるようにならなあかんよ」
遠城の視線を感じながら、はっきり告げた。兄はじわじわ動揺を広げていき、俺と遠城を交互に見た。
「……せやけど三春、探さへんかったら、あの子に会われへんやん」
「会う前に、兄ちゃんは色々やらなあかんことがあるやろ。留学もそうやし、大学での講義もそうやん。……でもそれ以上に俺は兄ちゃんにやって欲しいことがあんねん」
「えっ? 何?」
横目を遠城に送る。俺が何を考えているかはわからないだろうけど、遠城は目を細めて、好きにしろやと表情だけで言った。俺は頷いてから兄に向き直り、腰を浮かせて自分のジーンズに手を突っ込んだ。
引き摺り出した物を見て、兄ではなく遠城が反応した。
「お前それ」
「あ、覚えてるんや……」
遠城は眉を寄せ、溜め息を吐きながら首を振った。
「三春、お前が何考えとるかほんまにわからん」
「遠……、えーと、冬司が思ってるのがなにかわからんけど、俺よりは兄ちゃんにいるやつやねんて」
「……まあ、ええわ」
引き下がった遠城は、腕組みをしながら口を閉じた。俺たちのやり取りを見守っていた兄は困惑気味だったが、俺が差し出したそれを大人しく受け取った。
中身を読み上げた兄に対して、遠城は眉間の辺りをぐりぐりと擦り、その手で俺の肩を軽く小突いた。
「だから隠したんか」
ごめんと謝ってから、兄の手元にあるくしゃくしゃの紙切れを見た。
いつだったか担当医にリストアップされてからずっとジーンズに入れっぱなしにしていたメンタルクリニックの一覧は、この段階でようやく日の目を見ることになった。
定食屋を出たあと、兄に恋人と二人で話したいからちょっとだけ待ってくれと頼むと快諾された。詐欺相手ではないと、もう理解してくれたようだった。そこには安心した。
兄とは少し離れたところで遠城と向かい合い、はよ説明しろという圧にビビりながら午前中のことを話した。楓ちゃんを見つけて何をするのか、俺が聞くと何をすればいいかわからないと逆に聞かれた話に、遠城は頭痛を覚えたように眉を顰めた。
「……なるほどな、そら……脅す以前の話になってくるか」
「うん。……あ、でも、せっかく教えてもろた脅しのスキルは、別のとこに使うから」
「なんやねん、今度は何すんねん。メンタルクリニックのスタッフになんかすんのか?」
「いやいやいやちゃうって、そこのお医者さん? には、兄ちゃんのカウンセリングお願いせなあかんだけで」
遠城は眉間の皺を刻んだまま、
「……大丈夫なんやな?」
低い声で聞いてきた。
心配してくれているのだとわかったので大きく頷いて見せると、溜め息のあとに背中をばしりと叩かれた。
「まあ、気張れや。オレは仕事に戻る」
「あ、うん、ちょい待って……兄ちゃん! こっち来て!」
遠くでぼんやり立っていた兄は、声に反応して素直にこちらへ走ってきた。
「どうしたん?」
「えーと、この人、冬司……くんは、もう仕事に戻らはるから、」
「あ、そうなんや。冬司くん、三春と仲良うしてくれてありがとう」
兄から出た初めての兄らしい発言に遠城は面食らっていたが、ややあって頷いた。
「やばい兄貴や聞いてたけど、やばさの方向がなんや違うかったから安心したわ。オレは別になんもせんけど色々頑張ってください」
あまりのオブラートのなさに俺は焦ったが兄は笑い声を上げた。
「冬司くん、おれの探してる子にちょっと似とるね。はっきりしてて、やること決めてくれそうで、なんや眩しい感じする」
何もかも言えなかった。遠城も同じらしく、苦笑いを浮かべてからバイクに跨った。
「ほなまたな、三春」
ヘルメットをかぶる前にそう言ってから、遠城はエンジン音を響かせて走り去った。
角を曲がって見えなくなるまで見送ったあと、同じ方向を眺めていた兄の肩を叩いてこっちを向かせた。
「兄ちゃん、さっきのリストやけど、今すぐ行って話聞いてくれるわけちゃうから、とりあえず予定擦り合わせて予約入れよ」
「うん……せやけど、これ、なんで行くん?」
「この際はっきり言うけど、兄ちゃんは色々わかってへんことと出来ひんことがあって、でも俺や親にも……探しとるあの子とかにも、なんとかしてあげられへんねん。でもクリニックの人やったら兄ちゃんの話も聞いてくれるし、なんでそうなってんのか、調べてくれるよ。だから行こう、お金は……まあ、とりあえずはあるからさ」
兄は困った顔を浮かべて考えていたが、最後には頷いた。
その後に、
「留学、行かん方が良いて、三春は思ってた?」
兄にしては意外な質問をしてきたから、正直に答えた。行きたいと自分で思っていないなら行かないでくれ、留学先でやりたいことがあるなら行けばいい。決められなくてわからないんなら、キャンセルして欲しい。
兄は口を閉じ、俯いて、謝罪を口にした。本当に少しだけかもしれないけど、宇宙人と話しているようだとまで思った兄にちゃんと言葉が響いた気がして、しがみついていた何かがゆっくりと剥がれていった。
住んでいるアパートまで送ると話し、二人で駅に向かった。その間にメンタルクリニックをひとつ選び、兄の都合がつく日に予約を入れた。俺もなんとか時間を空けると約束した。初日は付き添うけど次回からは一人で通院するように言って、兄は不安そうにしてちょっと渋り、遠城も通院をサボる俺にやきもきしていただろうなと今更心情を理解した。
兄はどうにか納得してくれた。それには安堵したけど、俺は他にもやることがあった。
「あのさ兄ちゃん、ちょっとスマートフォン貸して」
電車に乗ったところで兄に頼むと、差し出した掌にはあっさりとスマートフォンが置かれた。
俺はこれの代金を払っているわけではない。兄が働いていた時の、給料が振り込まれていた通帳から、通話料金は落ちているらしい。滞ったこともないようだ。念の為聞いてみると、兄はそう説明した。
なら、親は兄の給料を使い込んだりはしていないだろう。そして中身もそれなりに残っている。
兄の金なのだから、返してもらえばいい。
「兄ちゃんて、母さん父さんの今のアドレスとか、消してへんやろ」
「あ、うん、あるよ」
「連絡来たことは?」
「ある。けど、返してへん……」
「そっか、……二人に会いたくない?」
兄は間を置かずに頷いた。その様子で俺は、この先にやることを完全に決めた。
手渡されたスマートフォンを操作して、見つけ出した母親の連絡先に、兄のふりをしてメッセージを送った。
返事はアパートに辿り着いた後に届いて、長年の育児放棄をわかっている兄は大丈夫なのかと聞いてきて、俺は遠城の顔を思い出し、大丈夫だとはっきり言った。
我ながら、それなりに強い声が出た。
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