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 兄を連れて少し歩き、バス停に向かった。バスに乗る前に金はあるか聞けば、財布を出して見せてくれた。自分の分は自分で払って欲しい。頼むと兄は頷いて、どっちにしろ三春のお金やけどな、とか言って笑った。

「兄ちゃん、自分でバイトとかして、金稼いで欲しいって言うたらどうする?」

 バスに乗ってから聞いてみると、

「前にも言うた気がするけど、バイトとか仕事、すぐもう来んな、って言われるねん」

 やっぱりそうだよな、という返答が来た。そしてその「もう来んな」がクビって意味じゃなく、嫌がらせとか言葉の綾のような苛立ちから発せられていたとしても、兄はふつうに辞めてしまうってことが俺には一番よくわかった。

 二十分もすれば目的の場所に着いた。兄は俺についてきてバスを降り、きょろきょろと辺りを見回した。俺からすれば見慣れた風景だったが、兄は若干不安そうにした。

「ここ、どこなん?」

「まあ……特に観光地ってわけでもない、ただの道やで」

「あ、あっちコンビニある」

「うん、あそこ行こう」

 兄は頷いて、先に歩き出した俺の隣を歩いた。

 コンビニの中はあまり客の姿がなく、レジの中にいた英さんが俺を見るなり明るい声で挨拶をしてくれた。

「どないしたん神近くん、今日休みやろ?」

「はい、ちょっと寄ってみただけで」

「でも住んでるとこ遠いやろ? ちゅうか友達?」

 視線を受けた兄は大袈裟なくらいに肩を揺らした。無意識なのかはわからないが、俺の服を縋るように強く掴んで、英さんというか、人から距離を取ろうとした。

「あー、神近さん」

 声を掛けられて振り向くと後藤さんがいた。兄は更に驚いたらしく、俺の服をぐいぐい引っ張った。

「み、三春……」

 あからさまに挙動不審になった兄を英さんは察した目で見たが、後藤さんは若者らしい気軽さで弟さんとかです? と聞いてきた。

 今までの俺だったら、多分適当に誤魔化していた。

「いや、兄です」

 答えると、後藤さんは意外そうにした。

「はえー、お兄さん人見知りです? 神近さんがしっかりして見えるん、ちょっとオモロいですね」

「あはは……まあ、俺いつも、挙動おかしいですもんね……」

「挙動おかしいわけちゃいますよ、なんか……自信なさそう? 的な?」

 あまりにも取り繕わないのでちょっと笑ってしまう。兄はずっと黙っているが、多少慣れたのか服を掴む力は緩まった。

「お兄さん、神近くんにはいつもお世話になってます」

 英さんが丁寧に頭を下げると、兄は躊躇いがちに頷いた。

「い、いえ……その、三春は、……えっと、」

「あ、すごい、見た目はそんなにやけど話し方がめっちゃ似てる」

「えっ……」

 兄の顔が完全に焦っていたので、

「兄ちゃん、朝飯なんか買おう」

 店の奥を指して促した。英さんも後藤さんもまだ何かを話しそうだったけど、続けて来店の音が鳴った。ぱらぱらと入ってきたお客さんの姿を横目で見ながら、兄を連れてペットボトル飲料の並ぶ一角まで向かった。

「兄ちゃん、あの二人は、俺がいつも一緒に働いてる人ら」

「あ、うん……」

「怖かった?」

 兄は少し考えてから、首を横に振った。

「知らん人やのに、三春のこと知ってはったから、びっくりした」

「そっか。……兄ちゃんて、なんの飲み物が好き?」

「えっ、……わからん、ペットボトル買うてくれるんやったら、三春が決めてくれなあかん」

「自分で選べへん?」

「うん、わからへん。飲んでいいやつ、選んで」

 数秒様子をうかがってはみたが、本当に無理そうだった。無難に緑茶のペットボトルを二本取り出し、パンのコーナーに移動すると、兄は迷いなくメロンパンをとった。

「三春、これ買うて」

「……メロンパン、好きなん?」

「うん、美味しい」

「他に好きな食べ物、何?」

 兄はうーんと唸り、スナック菓子をいくつかと、ミートソーススパゲティを挙げた。初めて知った好物だった。

 俺は全然兄に向き合っていなかったんだなってことが、実感として現れた。

「三春は何が好きなん」

 兄はごく普通に、ごく普通の返しをした。好きな食べ物は特にないけどコーヒーはいつも飲むって話をしながらレジに向かうと、英さんが手を振って迎えてくれた。

「神近くんて、兄弟仲ええんやね」

「そんなでもない……て、兄ちゃん目の前で言うたら駄目ですよね」

 英さんは軽い笑い声を上げた。会計後は黙っている兄にまた来てくださいねと声を掛けてくれて、兄は驚いた顔をしながら頷いた。

 コンビニのイートインコーナーを借り、並んでパンを食べた。俺もなんとなくメロンパンにしたけど、緑茶で流し込むには中々微妙だった。兄は嬉しそうにメロンパンを齧っていて、その横顔はなんていうか、落ち着いて見えた。中学時代が、兄の一番不安定な時期だったかもしれない。本当は絵が描きたかったって話を本人から聞いたことがある、でも親は美術部への入部を許さなかったし絵画教室なども許さなかった。部屋に閉じ籠もった兄の暗い顔が、ふっと記憶の中に浮かび上がった。

「……兄ちゃん、前さ、俺の働いてる冷凍倉庫に、何回も電話したやろ」

 兄は首を傾げた。手についたパンくずを舐め取り、緑茶を二口飲んでから、それがどうかしたのかと聞いてきた。俺は息を吸い、話すべきことを頭の中で整理してから、口を開いた。

「兄ちゃん、兄ちゃんにはわからんかもしれんねんけど、あれ、めちゃくちゃ迷惑掛けててん。俺にもやけど、冷凍倉庫の責任者の人に」

 隣に視線を向けると、目を丸くしている姿が目に入った。兄はふっと黒目を揺らして、最終的にテーブルに落とした。

「……せやけど、三春が来たら連絡するって、電話とった人は言うた。でも全然連絡してくれんかったし、三春も怪我どうなってんのかわからんし、お金のこともわからんし、……どうしたらええかわからんかった」

「うん、……まあ、せやけど……やったらあかんねん、そういうことは」

「せやったら、三春に連絡つかんかったら、どうしたらええん?」

「仕事してたら連絡返せへんよ。俺だけちゃうで、……兄ちゃんが探してるあの子やって、学校で授業受けてる時とかは、誰にも連絡返せへん。そういうもんやってことを、兄ちゃんはわからなあかん……ねんけど、難しい?」

 兄は狼狽した表情で頷いた。ずっと思っていたことではあるけど、この人の情緒みたいなものはかなり前で止まっているようだった。

 部屋に閉じ籠もっていた頃の虚無感があって、言うことを聞いていればいいという思考停止があって、不測の事態に耐えられない精神性になった。

 それはだから、根本原因はこの人なわけじゃない。

「兄ちゃん、次も人に会うけど、ええ?」

「……ええ、けど、誰に会うん……?」

「俺の大事な人」

 立ち上がってスマホを出した。大事な人、と鸚鵡返しをしている兄を横目に、遠城モータースに電話を掛けた。

 コンビニ内の時計は十一時半過ぎを指していた。電話に出たのは天宮さんで、神近ですと名乗ったあとには「冬司くんに替わるわ」とすぐに言ってくれた。

 冬司くーん、と遠くに呼び掛ける声が聞こえて来た。神近くんからやで、と続けて聞こえてにわかに緊張するけど、

『この時間にあのアホ……どうせ斜め上の事言い出すんやろ』

 溜め息混じりの文句が届いた。

 図星だったし、完全にわかられていたし、ちょっと笑ってしまった。

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