5

 駅近くの喫茶店に滑り込んだ。人は疎らにいたが、奥のテーブル席が空いていたため、そこにした。

 二人分のコーヒーを勝手に注文し、運ばれてきてからそっと息をつく。内心そこそこビビっていた。ちらりと対面を見ると、気楽な表情でコーヒーを啜る姿が見えた。

 兄は本当に楓ちゃんを紹介してくれると思っているのか、気味が悪いほどおとなしくついてきた。

「あのさ、兄ちゃん」

「ん?」

「……駅やら学校やらの周り、うろちょろしとる理由……一応、聞いてええかな」

 兄は笑って頷いた。

「前に会ったブレザーの子、探してんねんけど全然見つからへんねん」

 まったく悪びれずに言われて、吐きかけた溜め息をどうにか堪える。

「兄ちゃん、俺、あの子に関わるなって何回も言うたよな?」

「うん、でもあの子がええ」

「……なんで?」

「可愛かったし、明るくて綺麗やったし、なにやったらええんか決めてくれそうやった。それにあんな子見たことないもん、もっと見てたいから一緒にいてほしい」

 唖然としてしまった。素直な言い草にというよりは、後半部分に思い当たる節しかなくて、だから俺はこの人を突き放し切れないんだな、とぼんやり理解した。

 あんな子見たことない、もっと見ていたいから一緒にいたい。

 俺が遠城に惹かれた部分と大体同じだ。

「……確かにあの子は、明るくていい子やな」

 つい同意すると兄は笑顔で頷いた。会いたくて探していると再び口にして、でも大学にも行かなきゃいけないから毎日は来られないと溜め息混じりに言ってから、少し冷めたコーヒーを啜った。

 動悸がしていた。なんとか抑え込みながら、俺もコーヒーを一口飲んだ。

「兄ちゃん……は、もしあの子と、会えることになったら、どうするん?」

 兄は言葉を馴染ませるように、ゆっくりとまばたきをした。ミルクも砂糖も入れていないコーヒーをぐるぐると掻き混ぜ、見たことがないくらい眉を寄せて、机に視線を落とした。

「三春……」

「……うん、何?」

「何したらええかな……?」

 いつものような、何をすればいいか決めてくれという意味の問い掛けじゃなかった。兄は本気で当惑しているらしく、何も決めてなかった、と沈んだトーンで続けた。

 店内はぱらぱらと人が減っていく。これから大学や仕事に行く雰囲気の客がいなくなり、気兼ねのない主婦同士の楽しげな話し声が聞こえて来た。顔を上げるとテーブルのカップや皿を片付ける店員さんがいて、極ありふれた風景なんだけど俺はガラスでも隔てたような気分でそれを眺めていた。

 兄はずっと、考え込んでいた。

「……なあ、兄ちゃん」

「ん?」

「兄ちゃんて、俺のこと、なんやと思てる?」

「えっ?」

 驚いた声は俺に似ていた。兄はきょとんとした顔で、

「弟ちゃうん……?」

 と、当たり前なんだけど俺がそうは思えなくなっていた事実を言った。

「そっか、……まあ、せやな」

「どないしたん急に。なあ、それより三春、あの子に会えたら何したらええやろ? 三春は、三春やったら、好きな子に何するん?」

「俺は……何も出来てへんなあ……」

 轢かれて世話してもらって今この段階でも、教えてもらった方法で実の兄を脅そうとしているんだから本当に何も出来ていない。

 それに、俺は、かなり見誤っていた可能性がある。

「兄ちゃん、今日大学は?」

「えーと……単位取れとるから、あの子のこと探しに来て……せやから後は、読んだほうがええって言われた資料集とか買いに……」

「それ止めにして、ちょっと俺に付き合ってくれへんかな」

「うん、ええよ。なにするん?」

「散歩。……と、世間話」

 言いながら立ち上がり、目が合った店員さんに会計の旨を告げる。兄はおとなしくついてきた。店に入った時は不気味だったけど、今は別の感情が湧いていた。

 ごめん遠城。もしかしたら、この人のこと脅したらあかんかもしれん。 

 そう自己満足のために謝ってから、遠城とのカラオケのあとに交わした会話を、思い起こした。


 一曲くらい歌えば良かったなと無表情で話す遠城は、家の中に入るなり俺の肩を抱いた。突然の動きに驚いたが、別に催したわけではないらしく、俺の耳に口を寄せて小声で話し始めた。

 楓は寝とる、まだ話あるからお前の部屋行くぞ。

 そう囁かれ、二人で俺の寝室までそろそろと向かった。

 電気もつけず、ベッドに横並びになって座ってから、遠城は緊張をほぐすような息を吐いた。

「カラオケ出て歩きながら、ふと気になったんやけど」

「うん、何……?」

「お前んとこのメンヘラ兄貴、お前がキレて怖がるくらい根性あらへんのに、柊もついとる楓になんかできるか?」

 例えば強姦とか、と付け足してから、遠城はベッドの上にあぐらをかいて座り直した。

 考えてみたが、わからなかった。ただやっぱり大人の男と女子高生は力の差があるし、楓ちゃんは怖い思いをしているだろう。

 俺の心情としては兄自体を遠城たちに関わらせたくないが、それはそもそもストーカーどうこうと言うよりは金を出してもらえると思って遠城にも迷惑をかけることを阻止したかったからだ。俺も、あの兄を紹介すると、引かれると思った。

 ただ、ストーカー方面の実害は、今のところ少ないと言えば少ない。兄は楓ちゃんを見つけられてすらいない。

 だからこそ未然に防ぎたい気持ちはある。

「兄ちゃんのやばさっちゅうか……あの人は言うたら、やることを人に決めてもらわんと動けんのと同時に、欲しい玩具とかは頼めばすぐ用意して貰えると思ってるタイプの人で……何言い出すんかほんまにわからんねん」

「せやけどそれ、若干剥離しとるよな? 玩具類は決めてもらわんでも選べとるわけやろ」

「……それは、そうやねんけど……」

「その差が何にかかってんのか、ようわからんな」

 俺と遠城は向き合って黙った。その間に俺は、小学生頃の兄のことを思い浮かべた。

 優しい兄だった。その印象だけは、ずっと変わらない。親に放置された俺を気にかけてくれていたのは本当だし、年々おかしくなっていったのも本当だ。親の言うことを聞き続けるに連れて、家ではぼんやりしている時間が増えていた。俺が話し掛けると相手をしてくれたし、親に買ってもらった漫画を貸してくれたりもしたが、まともな友達はいなさそうだった。家に誰かを連れてくることはなかったし、小学生の頃に唯一連れて来た兄の友達は活発で少しがさつな男子だったからか、親が二度と呼ぶなと兄に怒った。

 兄はその時、どんな顔をしていただろうか。思い出せない。

「……神近」

 不意に呼ばれて視線を向けた。遠城は難しい顔をしたまま、ただの勘やけど、とはじめに置いた。

「どうでもええことは全部決めて欲しいんちゃうか、お前の兄貴」

 遠城の目を見つめた。もしこの勘が当たっていたらどうすると、問われている気がした。

 俺は何も答えられなかったし、じわじわと焦っていた。

 メンヘラなんて呼ばれるくらい不安定な兄を今現在押さえ付けているのは、他でもない俺だった。

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