3

 割り振られた部屋は店内の奥まった場所にあった。あちこちから曲が漏れていて混ざり合い、主旋律が行方不明だ。すたすたと歩いていく遠城の背中を追いながら、カラオケなんて本当に久し振りだなと思った。

 部屋に入るなり遠城がテレビの音量を下げた。画面には人気曲のランキングや、アイドルグループのPR動画などが流れている。奥まった部屋だが、人に覗かれることを懸念して、一応照明も落とした。狭い室内は一気に密会の雰囲気になる。

 遠城はテレビの対面にある横一列のソファーに腰を下ろした。隣に座りつつ、何から説明しようか考えるが、遠城の方が早かった。

「お前が兄貴の大学の金出しとるって話やけど、なんでそんなややこしいことになっとんねん」

 ですよね、と言いたくなるが怒られそうなので堪える。

「そこはまあ……とりあえずええやん、楓ちゃんのストーカー対策について遠城の意見が聞きたいねん俺は」

「大学辞めさせて親のとこに強制送還して監視させろや、ほんで済む話やんけ」

「いや……それは、どう……やろ」

 つい濁してしまったが当然遠城は険しい顔になる。兄についての話は、どうしてもいるようだ。仕方ない。

 兄がどのように育てられ、甘やかされ、自由を摘み取られたか、掻い摘んで説明する。小学生頃の兄は友達と遊びたいのに塾や習い事漬けになって泣いていることがよくあった。その涙はおもちゃや好物で無理矢理拭かれた。高校も大学も就職先もすべて親の選んだところだった。そんな生活を続けられた暁に、今のような兄が出来上がった。親のところを出て大学に入り直したいと相談された俺は、兄を助けることにした。

 遠城はここで発言権を求めるように手を上げた。

「お前のメンヘラ兄貴は大学に入り直しとるって状態なんは理解したけど、お前が金出す必要やっぱないやんけ」

「えっ?」

「いっぺんは働いとったんやろ? そん時の給料どこやってん、その金で賄えや」

「あー……親のとこに、通帳とか置いて来たんやと……」

 加えて、給料自体は親が管理していた。兄は自分で給料を引き出したこともなければ、自分で通帳を作ったこともない。

 そう話してから隣をうかがう。初めて見るくらい引いた顔をしていて、ちょっとだけ面白い。そういえば遠城と兄は同じくらいの年齢だろうか。まったく同年代に思えないけど。

「ほんまにだいぶダルい状況やな……」

 遠城は溜め息混じりに呟いてから、

「お前だけが異様に苦労してんのが意味わからん……」

 苦い顔で言った。

「いやまあ、大変は大変、やけど」

「大変どころちゃうやろ。オレが轢いてへんかったら野宿やらネカフェ難民やらで凌ぎながら金払い続けるつもりやったんか? コンビニと倉庫だけで足りるとも思えんけど、お前、どうするつもりやってん」

 返事を止めた。止めてしまった。遠城は思い切り眉間に皺を寄せて、黙るな話せ、と低い声で命令した。

 黙っていても話しても、嫌悪されるだろうとわかった。

「……遠城、俺、お前にマッチングアプリのこと聞いたやろ」

「あ? ああ……それがなんや」

「あれ……詐欺に使えんかな、と、思ったから……聞いたやつやねん、ほんまは……」

 遠城は目を見開いた。何かを言い掛けて、噤んで、続きを求めるような視線を向けてきた。

 俺は頷き、金策のために汚そうとした手を膝の間で握り締めた。遠城に一番聞かせたくなかったのは結局この話だと言い掛けたけど、それは飲み込んだ。俺は自分に愛着がないと遠城がいつか言った。でも人並みに欲は存在していて、そのほとんどが遠城経由だから、嫌われたくなかった。

 そう嫌われたくなかった。遠城が俺なんかを気に入ってくれて付き合いまでしてくれている現状が幸せだったから、ずっとこのままでいたくなってしまったから、現実をちゃんと見なかったから、今このギリギリの段階で話す羽目になっている。

 壁越しに隣の部屋の歌声が流れてきた。楽しげな拍手も聞こえて、ずいぶんと盛り上がっていた。その真横にいるのに明るさが遠い。俺が結婚詐欺を目論んで何人かの女の人と付き合っていた話を聞く遠城は、無音で煌々と光るテレビ画面をじっと見つめていた。

「……せやから、遠城、……俺はほんまは、お前にも楓ちゃんにも、まともに世話してもらえるような人間ちゃうねん。……黙ってて、ごめん。腹立つなら殴ってくれてええしキモなったやろからもちろん別れるし、治療費とかもなんとか返し」

「一人で結論づけんなカス、他の懺悔は?」

「えっ……と、……ほんまの一番はじめは、その、当たり屋っぽい感じで、お前から金もらえんかなー……とも、考えてた……」

「……それやったら、自分が飛び出したってポリに言うんはアホやろ」

「あー……うん、まあ、そうやねんけ、どっ!」

 急に首を掴まれて変な声になった。遠城は俺を鋭く睨んで、舌打ちまで落とした。めちゃくちゃキレてる、と震え上がった。でも自分が撒いた種なので殴られても罵倒されても仕方ないと力を抜いたが、遠城はそうしなかった。

「痛っ……て!!」

 思い切り顎を噛まれた。混乱している間に遠城は手を離し、深く長い溜め息を吐き出しながらソファーにずるずると凭れ掛かった。

「え、遠城……?」

「神近、金の問題だけやったら俺が三秒で解決したるわ」

「えっ、……いや、お前に出してもらうんは、絶対嫌なんやけど……!」

 遠城は俺の足を勢いよく踏み付けた。痛い! と悲鳴を上げるとまた舌打ちされた。

「アホか、耳揃えて返せや。利息なしで用立てたるってだけの話じゃボケナス」

「そっ、それでも遠城、お前やって普段の生活費とか楓ちゃんの学費とか、色々あんのに大金借りるわけには」

「オレもお前にはよう話さんかった話をしたる。親は行方不明や言うたやろ、あれ、親父の方は探そうと思えば探せんねん。姿晦ましたくせに楓の養育費だけは、置いてった通帳に定期的に振り込みよる。そっから辿れば探せる。でも探さん。金も意地になって楓には一回も使てへん、初めて引き出したんはお前への慰謝料治療費や。その通帳ごとお前に貸したる、好きに使え。せやから次は楓のストーカー化しとるメンヘラ兄貴の相談すんぞ」

 かなりの間抜け面を晒していたと思う。遠城は足を踏んづけたまま腕組みをして、俺を横目でぎろりと睨んだ。

「なんや、まだ隠し事やらなんやらあるんか」

 不機嫌そうに問われた俺は、

「遠城って、なんで俺のこと捨てへんの?」

 不思議すぎて聞いてしまった。

 遠城は自分の眉間を親指でぐりぐりと揉み、お前ほんまクソやな、とまず言った。

 それから真剣な顔を向けてきた。

「どっか行った人間ばっかで、赤ん坊だけ残されたオレの十数年、そこそこキツかったわけや。ほんまクソやんけって気分の時はバイク飛ばして憂さ晴らしすんねん、お前轢いた時もそうや。ちょうど親父が金振り込みよった日で、そんな日に限って母親の部屋掃除なんかしてもうてて、部屋なんか掃除してもまあ帰って来んのに未だに期待があるんやろうな。そんな時に轢いたやろ。オレはなあ、一瞬だけ思ったんや。こいつこのまま轢き殺したらムショ入って部屋掃除も妹の世話も親父の入金も全部無視できるな、って」

 遠城の表情に影が落ちた。思わず手を伸ばすと、即座に握り込まれて空中に留まって、遠城は懐かしそうに目を細めた。

「お前、轢かれたあとに、こうやってこっちに向けて手伸ばしたやろ。……それでなあ、思い直した。ちゃんと助けて世話しなあかん、ここで見捨てたらオレの周りやなくてオレがクソやんけ、ってな」

 隣から大きな歓声が聞こえた。ぱらぱらと鳴る拍手が、雨の音のようだった。

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