6

 帰宅する天宮さんを見送り、家に入った。二人ともいないからひどく静かだ。部屋に行きかけるけど、なんとなく迷った挙げ句、結局ダイニングに留まった。電気もつけずにぼんやりと椅子に座っていた。日没したあとの青い暗さが、キッチン付近の窓から零れ落ちてきた。

 バイクの音がした。玄関を開けて入ってきたのは当然遠城だ。ダイニングまで来て、薄闇に埋没する俺に驚いたようだった。

「何してんねん」

「座っとる」

 溜め息が聞こえたあと、電気がついた。白熱灯の光にちょっとだけ眩んだ。遠城はその間に近寄ってきて、俺の隣の椅子を引いて腰を下ろした。

「なんや、またなんかあったか?」

 意味深に座っていただけで心配してくれる。

 恋人は要らないけど俺なら付き合ってもいいと言った遠城の真意がよくわからないまま、もう二週間は経っている。

「今日は……なんもないよ、冷凍倉庫は休みやし」

「ぼーっとしとっただけか」

「せや、……楓ちゃんは?」

 遠城は息を吐いて笑う。

「わかってんのに聞くなや」

 そう、言われた通りにわかっていた。俺と遠城がそういう関係になると聞いた楓ちゃんはこっちが引くくらいに喜び、俺の帰宅が早い日は気を利かせて少し遅く帰って来るようになった。

 しんとした空気が流れる。そっと横顔を見ると、なんやねん、と無感動に怒られる。

 ついさっき聞いたばかりの天宮さんの話が過ぎっていく。

「……あのさ、遠城」

「ん?」

「あの……あれ……」

「は? 何?」

「……お……」

 お父さんとお母さんどんな人やったん、までどうしても聞けない。立ち入って良いのかわからないし、付き合っていようが知りすぎてはいけない。遠城は眉を寄せている。呆れているようにも見えて挽回しなければと焦り始める。

 助けてくれ……と行く宛のない救助信号を心の中で出したところで、英さんの顔がぱっと浮かんだ。

「お、温泉」

 遠城は更に眉を寄せたが、温泉やねん、ととりあえず繰り返して体ごと遠城の方を向く。

「英さん……、えっと、コンビニの人が、温泉旅行してきたって言うてて……俺のリハビリにもええんちゃうかって、教えてくれはってんけど、」

「……、ああ、湯治?」

「それ、湯治」

 食い気味に肯定しながら、湯治と冬司って音一緒やなとふと思う。全然関係ないけど呼び捨てしたみたいになってしまいじわじわ気まずい。

 でもそれとなく話は逸らせた。遠城は眉間の皺を解き、机に頬杖をついて俺を見た。

「温泉行きたいって話か?」

「えっ、いや、湯治かー、くらいの……曖昧な世間話で……」

「オレ温泉にはあんま詳しないからええともあかんとも言わんけど、行きたいんやったらええんちゃうか」

「か、金ないし、仕事……仕事も、休めるかは」

 遠城は考えるように視線を横へずらし、行けるんちゃう、と冷静な声で言い始める。

「その英さんて、あの空気読める感じのバイトリーダーっぽい女の人やろ。オレのことイケメンくんて言うてる」

「う、うん」

「その人が勧めたんやったら、替わってくれ言うたら都合つけてくれるんちゃうか」

 めちゃくちゃ慧眼だ。英さんとの分かれ道での会話を聞いていたのかと疑うくらい。

 遠城は続けて冷凍倉庫の話をする。兄の鬼電のこともあり俺を心配している上司も、リハビリ名目なら二日くらいは空けてくれそうに見えると言う。

 俺もそっちはそっちで快諾してくれるんだろうなと思っていた。

 ただ、もし都合がついたとしても問題は金なのだが、

「お前のリハビリやろ? 治療費やし出すわ」

 三秒で解決した。

「えっいや、……流石に、それは」

「百万も二百万もかかるやつちゃうやんけ、そんぐらい問題あらへん」

「せ、せやけども……」

 もし本当に行くのであれば遠城と行きたい。一人でも別にいいのだけれど、なんというか、デート的なことがしたい。

 しかしそんな暇が俺にあるのかという話で、余裕かまして温泉なんて行っている間に兄がなにか仕出かさないかとか絶対金稼ぎに奔走した方がいいだろとか、遠城を連れて行くと楓ちゃんが家で一人になって心配だしそもそも工場閉めるだろうし迷惑でしかないやんとか、考え始めれば始める程に気が滅入っていく。

 やっぱ無理だ。そう言おうとしたところで強めのデコピンを入れられた。

「いっ、て!」

「なんやまたごちゃごちゃ考えとるやろ」

「なっ、いや、……っほら、楓ちゃん置いてくわけにいかんやん、お前も工場休業にしなあかんようなるし天宮さんいるにしても一人では大変やろしやっぱ無理あると、思うん、やけど……、」

 つい尻すぼみになった。笑いを堪えている遠城を見て、何かおかしい話だっただろうかと不安になってしまった。完全に言葉を止めたところで遠城は噴き出して笑い、俺の頭を掴んでわしわしと掻き回し始めた。

「なっ、なんなん、遠城」

「お前、オレは一緒に行こうとも行くとも言うてへんのに、勝手にオレと二人旅行する前提で話すなよ」

「え、……あ」

 迂闊だった。何も言えなくなって口を閉じる俺の頭を、遠城は犬でも可愛がるように掻き回し続けている。

「ま、行くんなら着いていくつもりやったけど」

 ぱっと手を離しながら当たり前のように言う。

「……、……いや、でも、そん……そんなん……急やし、けっこう厳しない……?」

「都合ついても再来週とかやな」

「楓ちゃんは、」

「一緒に来い言うたら二人で行けて怒ると思うぞ」

「……、あの子を一人にすんの心配やねん……」

 大体兄のせいで、とは、言いたくないから押し黙る。

 遠城は溜め息を吐き、あいつの彼氏に泊まらせたらええやろ、となんでもない声で言った。寝耳に水だった。

「えっ楓ちゃん彼氏おるん」

「あいつこうやって帰り遅い時は彼氏と遊んどるし近くまで送ってもろとるで」

「し……知らんかった……」

「言うてへんやろしな。剣道部やったか弓道部やったかの腕力ありそうなやつやったし、防犯にええやろ」

 楓ちゃんに彼氏。俺の知らない間に。いや前から居たのか、わからないけどとにかくお付き合いしている男の子がいる。知らなかった事実が微妙な疎外感を連れてきて、その疎外感は的外れ極まりなくてかなり辛い。

 でも彼氏くんが防犯グッズになるのであれば、遠城を連れて行っても楓ちゃんに問題はない。

 遠城を見る。机に頬杖をついたまま、面白そうに俺を眺めている。オレと出掛けんの嫌か、なんて半笑いの声で聞いてくる。嫌なわけがない。一緒に行きたい。ほとんど反射で答えてから、手を伸ばした。顔に触れるのを躊躇って肩の前に流されている髪に指を這わせると、抵抗出来ない速度で首を掴まれた。絞めるのかと思った。遠城はふっと鼻で笑ってから自然な動きで唇を重ねて来た。

 その途端に玄関の開く音がした。先日も本日もタイミングが良すぎる楓ちゃんが、機嫌の良い声でただいまー! と叫んだ。

「兄貴ー、神近さーん、仲良うしとったー?」

「今からするとこやったわ」

 遠城は俺から手を離し、もうちょい暇潰してこよか? などと聞いている楓ちゃんを家の中に入らせた。彼女は笑顔で俺のところまで歩いて来た。

「何してたん?」

「え、いや、別に……あ、楓ちゃん、俺と遠城と三人で温泉とか、」

「二人で行ってきな!」

 楓ちゃんの厳しい即答に、遠城はぶはっと噴き出して笑った。

 遠城兄妹を視界に収めながら俺は、ずっとここに居たいなあとぼんやり思った。

 思うだけなら、自由だし。

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