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「三春、この子」

 兄の口をただちに塞いだ。掌を押し付けられて驚いていたけど、

「ちょっと待ってろ、後で話すからここに居ろ、絶対動くな」

 命令口調で強めに言えば頷いた。それから手を離して楓ちゃんのところに行く。状況の掴めていない彼女にどう説明すればいいか困り果てながら目の前に立った。

「神近さん? やば、めっちゃ怖い顔しとるやん……」

「あのさ楓ちゃん、頼むから遠城には全部黙っててくれ」

「え、……あの人なんなん、まさか彼氏とか?」

「ちゃう」

 楓ちゃんはさっと口を閉じた。俺絶対今すごい顔になってるんやなと思うけど止まらない。

「俺、遠城のことええなと思てんねん」

 なんとか握り潰したかった事実を本人の妹に話すくらい加速する。楓ちゃんは勢いやら台詞やら呆気に取られた様子だったけど、俺のシャツを掴んで詰め寄ってくる。

「神近さんそれほんまに? 兄貴を好きってこと?」

「そう、そうやから今日あったことも今から話すことも全部遠城には言わんといてほしい」

「えっ? 何、なんなん?」

「好きな人に知られたら死にたなるようなことあるやろ、そういうやつやねん」

 楓ちゃんは困った顔をした。大事な兄貴を取るか兄貴を好きだと言い出したやつを取るか悩んだみたいだった。でも頷いてくれた。ほんまに素直でええ子やな、と思った。この子はこの子で俺は大事にしたかった、こっちの話に巻き込みたくはない。

「ありがとう楓ちゃん」

「うん……ほんで、あの……あそこの人、誰?」

「君が関わったらあかん人」

 目を丸くした楓ちゃんに俺は話す。詳しい事情はどうしても説明できないけれど、あの人は俺の兄弟で、俺はあの人の相手をする必要がある。これは遠城も知っているが、兄は困って俺の職場に電話をしてくるような人だからちょっと手がかかる。でもそれで遠城や楓ちゃんに迷惑をかけたくはない、だから今日見たことはすべて黙って見なかったことにして欲しい。このまま遠回りして帰ってくれ、俺はリハビリに行ったあと適当に遊んで帰って来た体で帰宅する。

 ここまで一気に説明した。楓ちゃんはひたすらぽかんとしていた。

「神近さんて、吃らんと喋れるんや……」

 どうでもいいコメントから入るくらいにぽかんとしていた。

「言葉選んでへんからな」

「いっつもそれで話したらええのに……」

「そんなんはどうでもええねん、楓ちゃん、遠城に黙っててくれるな?」

 楓ちゃんは言い淀んでから、俺を真っ直ぐに見上げた。

「神近さん、兄貴のことほんまに好き?」

「好き。あのまま轢き殺してもろても構わんかったくらいには」

 どん、と胸元を叩かれた。バスケ部の拳は強かった。

「勝手に死ぬのはアホやん!」

「うん、まあまあアホやし空気読めへんねん、ほんで遠城に深い事情を色々知られてもうたらほんまに死にたいと思う」

「そんなん絶対言われへんやん、アホ近!」

 楓ちゃんは怒りつつ俺から離れ、

「遠回りして帰る。……見んかったことにする、お兄さんの話も言わへん、せやから兄貴に優しくしてや!」

 そう言い残して足早に去っていった。視界の端に追い掛けようとした兄が過ぎって素早く捕らえた。離してや三春と焦った声で言われて殺したろかなと一瞬浮かべて、あーくそ遠城兄妹のほうが大事になってもうてるやんと自嘲した。

「兄ちゃん、あの子見た通り高校生やで。三十半ばの兄ちゃんが手ぇ出したら犯罪や」

「性交同意年齢は十六歳からやんか」

「でもあかん、帰るで」

「せやけど三春、」

「言うこと聞けや帰って寝て大学行け、これからの予定はそんだけや」

 兄は黙った。俺は思いっ切り遠城の口調になっていると自覚しながら、兄の手を掴んで引っ張った。

 無言で駅まで歩いた。その道すがら、そういえば兄は今まで好きな人や付き合っていた人はいなかったのだろうかと、疑問に思った。

 聞いてみると、

「さっきの子が欲しい」

 即答されてぶん殴ろうかと思った。

 学校や部活動や習い事はぎっちりと決められた上で玩具やら服やら食べ物やらの嗜好品を一切制限されなかった兄にとっては、恋愛もそういう分類らしかった。


 兄をアパートに放り込み、金はどうにかするから直接来るなと再三言い含めて、ようやく解放された。

 疲労を感じながら帰り道を辿り、電車とバスを乗り継いで遠城家に着いた時にはもう夜だった。

 工場のシャッターが半分だけ開いていた。その合間から漏れている光に吸い寄せられ、ふっと中を覗くとバイクのタイヤが見えた。隣には見慣れた作業着に包まれた足があった。

 引き返して玄関から入るつもりだったが、顔を見たい気持ちが勝った。

 シャッターを潜って工場の中に入ると、台座に乗せたバイクを弄っていた遠城がこっちを向いた。

「おかえり、リハビリどうやった」

 無表情に話し掛けられて、異様なくらいに安心した。

「まあ、まあまあ……やと、思う」

 話しながら近付いて、

「まだ、仕事中?」

 聞いてみると、遠城は首を横に振る。

「私用や。オレの持ち物やからな」

「そう……あれでも、いつも……その、俺を送り迎えしてくれるやつと、違うやつやな」

「お前轢いたバイクの方」

 えっ、と変な声が出る。遠城は唇の端を引き上げて意地悪げに笑った。

「あれ以来触ってへんかってん、フロント部分曲がってもうたまんまやった。偶々時間空いたから整備中や」

「そ、そうなんか……」

「せや。……まあ、ほんまはもう触る気あらへんかったけどな」

「……、えーと……」

 人を轢いてもうたやつやから? と、聞いてしまっていいのかわからない。恐る恐る隣を見ると一瞬で視線が絡まって、逸らす方が気まずく思えてそのまま見つめた。

 遠城は手に持っていた器具を座席部分に置いてから、体ごとこっちに向けた。

「神近」

「え、うん、何……」

「お前、俺のこと好きって楓に言うたんか?」

 固まってから、楓ちゃん約束が違うと思ってから、いや遠城が好きって話は口止めしてないかもしれん、と思い至った。

 めちゃくちゃ汗が噴き出した。逃げようと決めて足を引いたが当たり前に捕まった。

「ご、ごめん遠城、」

「また謝るやんけ、なんやねんお前」

「なっ、いや、……好きは好きなんやけど付き合いたいとかちゃうくてあの、お前が別に恋人とか要らんの知っとるし俺は」

「ああ、それはそうや。恋人は要らん」

 一瞬で失恋した。最高記録の振られ速度だった。地味にショックを受けつつ、ほな行くわ、と家の方へ向かおうとするがまた捕まった。

「せやけどお前やったらええよ」

 続いた言葉に、思わず黙る。

 振り向くと笑いを堪えている遠城がいた。物凄く楽しそうで、縛った髪の先を揺らしながら口元に手を当てて震えていて、あーめっちゃ好き、と脳死で浮かべたくらいにはいつの間にか惚れていた。

 でもこれめちゃくちゃ八方塞がりやん兄ちゃんのこと一生一ミリも話したないし完治次第すぐ出て行きたいのに普通にまずいやんけと内心青ざめた。

 運が悪すぎる幸運だ。

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