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印象的なのはなんだろう。兄はそれなりに頭が良くて、習わされていたピアノも上手くて、わりとなんでも卒なくこなすタイプだったんだけれども、希薄だった。ピアノはもういいと言われて、わかった、とだけ答えていた。部活はテニス部と指定されて、でも勉強時間がなくなるから本気でやるなと言われて、わかった、と頷いていた。貰ってきたラブレターはすぐに親に渡していた。丸めて捨てられたラブレターを見下ろす兄はガラスのような目をしていた。俺はこれを本人から聞いた。三十過ぎて何かしらに目覚めた兄は、やりたいこと、やる気、そういうものについて考えたのだと思った。
何故急に、あのやばい親から離れる気になったのか。兄が大学に合格した日に俺は聞いた。兄の答えは、簡単だった。
「何も決めてくれんくなったんやもん」
うわー、と思った。えっほななんで大学入り直したなったん。俺は更に聞いた。兄は笑顔になって、大学は講師がいてああしろこうしろ言ってくれるし、親に言われて入った企業で◯◯大学卒業のほうが良かったなあと言われたから、それやりたいなと思ったと答えた。この時点でかなり後悔していた。どうにか親の支配を振り切ろうと不器用に壊れながら頑張ったとかちゃうんやって、自分の見通しの甘さにがっくり来た。宇宙人と話してるみたいってこんな感じかと思った。
でも手を貸してしまった。兄は何も決められないから、なんでも俺に聞いてくるようになった。自分で考えてみたらとはじめは促してみたけど無駄というか無常だった。フリーズした後に、ヒートアップする。三春が決めてくれへんかったらなんも出来ひんと泣き始める。この人ほんまに大学生活送れてるんかなと心配するけど、それは全然大丈夫みたいで成績はちゃんと優秀で勉強のために入り直したって部分で講師は兄をかなり評価していて、今に至る。
俺がなんとかせなあかんのに、秋の空の下を歩きながら誰か轢き殺してくれと思っている。
偶々見つけた暇そうな喫茶店で待つように言ったのは正解だった。昼下がりでも人が全然おらず、店員はあまり関わって来ず、おすすめメニューの書かれたポップのおかげで兄はおすすめコーヒーを飲んでいた。
「兄ちゃん、お待たせ」
こっちを向いた兄に手を振りつつ、二人席の対面に座った。店員には寄ってくる前にアイスコーヒー砂糖ミルクなしと告げ、運ばれて来てから改めて前を見た。
兄はにこにこしていた。大学はと聞いてみると、まだ休み中なのだと言った。休みの間は何をしているのかも聞いてみると、アパートの中で講師に薦められた本を読んだりこれは見ておけと言われた資料映像や論文のPDFに目を通したりしていると答えた。
「……充実してるんやな……」
「うん、何したらええか、大学の人が決めてくれるし、楽しいで」
せやったら俺はなんで呼び出されてん。泣きながら冷凍倉庫に電話かけんなや。遠城の家まで行こうと思えば歩きでも辿り着くとこまで来んといてくれ。
口に出しかけた言葉はアイスコーヒーで飲み込んだ。
「……それで兄ちゃん、何の用?」
どうにかそれだけを聞くと、兄は笑顔になった。
「あんな、海外研修行きなって言われたから、お金いるねん。出してくれ」
口を閉じた。絶対兄ちゃんのほうが犯罪に向いてるやん。ついそう思い浮かべるくらい兄は屈託がなかった。
「あー……金な……」
「冷凍倉庫に電話した時に、三春の復帰は九月やって聞いてん。せやからお金できるんやろ?」
「まあ……」
「あとなんやっけ、結婚詐欺する言うてたやつは?」
聞かれた瞬間に店員の方を見た。離れたところでグラスを拭いていて、こっちを向いてはいなかった。
兄へと視線を戻し、
「それは向いてへんから諦めた」
素早く否定してから、
「あんまでかい声で話すことちゃうよ、止めてや」
やんわり指示した。兄はまばたきを落としてから頷いた。こうしてくれって頼みはそこそこ聞くんよなと思いながら、こんなん何がおもろいねん、と心の中で親を詰った。言うことに逆らわへん相手に命令し続けたいんやったら永久にテレビゲームでもしてろやカス。……この悪口ちょっと遠城に影響されとんな。
気を取り直し、アイスコーヒーを飲む。とりあえず、金はともかくとして、海外研修というのはかなりいい。しばらくの間日本からいなくなるわけで、物理的に何かをしなくてはいけない事態は減る。
「……いくら?」
「えーと、八十万くらいやったかな?」
いややっぱわりもキツい。ほんまかコイツ? と思う程度にはキツい。奨学金……と思い浮かべるけど親のところに行く必要あったり、弟が兄の金を出している状況が説明困難な異常さで通らなかったり、そもそも戸籍を抜いてはいないし親の収入だけ見ると条件を思い切り外れていたりと、使えなかったことを思い出す。
兄の顔を見る。どうするか迷うけど、払えんかも、と正直に伝える。泣くかと思ったけど兄は普通の顔だった。
「三春を家に置いてはる人から貰えへんの?」
普通の顔のまま、当たり前のように言った。
「は?」
自分で引くくらい低い声が出た。兄も驚いたみたいで、じわじわ怯えを滲ませ始めたから慌てて謝った。店内で泣かれると困る、俺もだしグラスを拭いている店員もだ。
この泣き癖のせいでバイトをすぐクビになるし、ナントカ大学やったらなあって嫌味をそのまんま指示だと思い込むし、言えば叶えられるものだと刷り込まれているしで、本当にどうすれば良いのかわからない。
親のせいでぶっ壊れたのだと知っているせいで、突き放そうにも二の足を踏んでしまう。
「……海外研修って何日?」
「えーと……三ヶ月から半年やったかな」
「いつ?」
「春休みに合わせた渡航プログラムって聞いたで」
「支払い期限、冬くらい?」
「それはわからへんけど、講師の人がちょっと優遇してくれるって」
頷いて、ほな冬な、と勝手に断定した。兄は控え目に笑って、お金貰えるん? と聞いてきた。それには答えずに伝票を持った。店員を呼んで支払いを済ませ、外に出ると兄が追い掛けて来た。
「三春、待ってや」
「もうアパート戻るやろ。……送って行くから戻れ、うん、戻りな」
「三春がそう言うんやったら、帰る。でも何したらええかわからんから、連絡ちゃんと返して欲しい」
「……仕事中はどうしても返せへんからさ、それは我慢してや」
「冷凍倉庫に電話したらええん?」
いやだから、と声を荒げかけたところで、
「あ、神近さんいた!」
明るい声が聞こえた。うわ……と思いながら振り向くと、ブレザー姿の楓ちゃんがいた。
「リハビリ行かんかったやろ! 顧問が用事でおらんから部活なくなって、ほな神近さん迎えに行こー思たら来てへんて言われたんやで、兄貴に言いつけたるから!」
「か、楓ちゃん、ごめんほんま今はあかん、」
「何? 友達と遊んでたん?」
楓ちゃんは兄に視線を向けた。釣られて俺も兄を見て、あ、と思わず声に出た。
兄は明らかに楓ちゃんに見惚れていた。
遠城をアリだと感じている自分を省みて、兄を初めて兄弟なんだなと思ったが、そんなところは死ぬほど似ていたくない。
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