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親への期待みたいなものは小学生くらいまで持っていた。なにせ兄は大事にされているから、俺もそのうち、なんて思いがあった。期待もクソもないとわかったあとも兄が羨ましくなったり親が恋しかったり理性じゃどうにもならない揺らぎがあって、そういう時は殴るしかなかった。頭を。一瞬でも眩めば思考が吹き飛ぶから、便利だった。
兄の泣き声が消えない。自分の頭をもう一度殴ろうとしたところで、手首を素早く掴まれた。
「なっ、にしてんねん、止めろや」
本気で焦っている声だった。遠城がここまで困惑する姿は珍しい。何してようが大体余裕そうで、セックス中すらそれなりに静かだ。そんな遠城の焦りが浸透してくると、握っていた拳から力が抜けた。
「……ごめん、もう大丈夫」
思いのほか落ち着いた声が出せた。ほんまに大丈夫とだめ押しで言えば、遠城はゆっくり腕を離した。
「……、びっくりしたわ、なんなん?」
「ああ……いや、……兄ちゃん、お前んとこ来たんか?」
今度は努めて冷静に聞く。遠城は、来てはない、と静かに言った。
「ほんなら、なんで知ってんの」
「……お前迎えに行った時に、聞いた」
「冷凍倉庫で?」
「駐車場で待っとったら、ちょっとハゲかけとる気の良さそうな背の低いおっさんに話し掛けられてな」
上司だ、間違いない。でも何故遠城に、と思ってから、迎えが来るって話は誰にもしていなかったと思い出す。
案の定、知らないバイクに知らない人間の遠城は、無断駐車だと勘違いされて声を掛けられたらしかった。
「神近の迎えやって話したら、そのおっさんは納得した……というか、友達かって聞いてきたから、お前のこと轢いたヤツやて自己紹介したんや」
「いやそこは、友達でええやん……?」
「どっちでもええやろ。おっさんもどっちでも良さそうやったわ。名刺渡してきて、ちょっと頼みあんねんけど言うてきて、なんやねんと思うてたら」
「兄ちゃんの話、されたんか?」
「まあ、……せやな」
上司はとても正しくていい人だけど、だからこその面倒さはある。つい溜め息を吐いてしまう。
「兄ちゃんの話、どんくらい聞いた?」
遠城は考えるような間を置いてから、
「やばそうなメンヘラやって話は聞いた」
相変わらずのオブラートのなさで言った。つい笑ってしまった、羨ましいなとさえ思った。
そのくらいの低体温で突き放せる関係性なら良かったのになと。
「遠城、心配させてほんまにごめん」
話を切るためにも素直に謝った。遠城はええよと言ってから、とりあえず退け、と続けた。押し倒したままだったとやっと気付いて体を起こすと、遠城はさっさと俺の下から這い出した。
会話は上手く途切れたが、どう言って部屋に帰ってもらえばいいか、わからなかった。その間に遠城がまた話し出す。
「……オレが口出す話ちゃうやろっておっさんには言うたんやけど、まあ、……会社から出て来たお前が死にそうな声しとったから、一応聞いただけや」
「……そうか、ごめん」
「お前、謝ってばっかりやな。あと……頭、急に殴り出すからちょっと引いた……っちゅうか右手で殴ってたやろ、頭もやけど腕も大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
と口には出したけど、体の意見は別だった。勝手に背が折れ曲がって、正面で胡座をかいている遠城の肩に凭れかかっていた。すぐに離れようとしたけど無理だった、両腕で遠城にしがみついていた。
親の目の前でそういうことをしても横目すら送られなかったし、兄に見られた時は心配というか怖かったみたいで三日くらい避けられたし、俺自身物理でなんとかしようとする癖自体は正直止めたいんだけど、まともに心配されてしまって捏ねくり回した理屈が負けた。
呆れたような溜め息が降ってきた。はっとしてどうにか体を動かそうとしたところで、抱き締められた。
「お前さあ……立ち入るなってオーラ出しながら家族みたいな扱いはキツいて言うた癖に、それはないやろ」
仰るとおり過ぎた。もうほんまに轢き殺してくれという気分になった。夏には頑張ろうと思っていたがすぐこれだ、金稼ぎも兄も通院もリハビリもだし、遠城のことだって、今直ぐ投げ出して普通に逃げたいから轢き殺してもらって何も考えなくて良くなりたい。
そこまで考えて、あれ、と冷静になる。
俺のことを轢き殺しておいたらなと思ってしまうらしい遠城も、似たような感情でそう考えるってことだろうか。
顔を上げると、近い位置で視線が合った。すっかり暗闇に慣れた目は表情もちゃんと読み取った。俺を案じるような目。呆れてはいるけど、本当に俺を心配している顔。
兄や親のことを洗い浚い話しても、普通に受け止めてくれるんだろうなあと思える雰囲気。
「……遠城」
「なんや」
「い……一緒に寝てもええ……?」
遠城は噴き出した。あれそんな変なこと言うたかな、と思っていると背中を宥めるように叩かれた。
「別にええけど、それやったらオレの部屋来い」
「あ、え……」
「なんやようわからんけど、あれやな、辛いことあったから誰でもええし甘えさしてくれ、みたいなやつやな」
「た……多分それ……」
遠城は何度か頷き、ほな行くか、と軽く口にして俺を離した。遠ざかった体温の名残惜しさに呆然としている間に手首を掴まれ、遠城の部屋まで連れて行かれた。遠城は有無を言わさない力の強さで俺をベッドに押し込んで、隣に寝転がると更に有無を言わさない速度で抱き締めてきた。小学生くらいの頃の楓みたいやな。そんなことを言って、俺の背中を緩く擦った。睡魔に一瞬で襲われた。
思い切り寝かし付けられた。はっと目を覚ますと遠城の姿はなくて、いつも通りに修理工場の物音がした。十時過ぎだった。楓ちゃんも学校に行っており、もういない時間だ。
遠城の部屋は本が多かった。本棚に押し込まれた本は大体バイクとか車関連で、エンジニアの専門書なんかもあって、俺でも名前は知っているSF小説が数冊あった。戦闘機の活躍する、かっこいいSFだ。だから俺は勝手に、遠城ってバイクをはじめとして機械ってものが好きなんだな、とあいつのことを知った気になる。
ふと見下ろしたベッドには長い黒髪が落ちていて、当たり前なんだけど不覚にも動揺する。急いでベッドを降り、部屋からも抜け出して、スマホを覗いたところで思考が勝手に切り替わる。
兄からのメッセージに、平常心でざっと目を通す。
息を吐き、吸ってから、もう一度読んだ。俺は今日休み、というか、リハビリ予定だと遠城と楓ちゃんと職場には言ってある。行くつもりだった、でもこの瞬間に取り止めた。
こっちの方まで来たから迎えに来て欲しいって連絡に、すぐに行くから動かずに待っていて欲しいと俺は返した。
「……轢き殺されてぇー……」
と、声に出た。
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