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 コンビニの店舗内に飛び込んできた蝉が勢いよく壁にぶつかった。ひゃあ、と驚いた声を上げたのはバイト仲間のはなふささんで、注文された煙草を取ろうとしていたところだった。

「かっ、神近くん、虫いける?」

「あ、いけます」

 英さんの眼力に押されつつ答え、左手を伸ばして蝉を掴んだ。壁にぶつかって痛かったのかジリジリと鳴いていて、ちょっと可哀想だったからコンビニの外へ放り出した。夕暮れの青さの中を、蝉は上下にたわみながら飛んでいく。八月に入った途端、どこに出しても恥ずかしくないほど夏になった。常に熱気が立ち込めている。

 蝉を見送り店舗内に戻ると、レジを打ち終わった英さんがありがとう! と大きな声で言った。

「私、虫あかんわけちゃうけど、蝉はあかんくて」

「そうなんですか……他はいけるんです?」

「ゴキブリは余裕、ちょっと飛ぶだけで鳴かへんし」

 違いがあまり良くわからないけど、突っ込んで良いのかどうかのほうがわからなくて頷いた。英さんは芋虫とかもいけるでと言いながらレジ台に残されていったレシートをすばやく捨てて、店舗の奥に設置されている時計を見上げた。もうすぐ十八時だった。

「そろそろイケメンくん来るな」

 英さんが何気なく言う。俺はやっぱりどうしようか迷った挙げ句に頷くだけで、視線はギプスに包まれた右腕の上へと落ちた。

 イケメンくんはバイクの音と共にすぐに来た。

「神近、終わったか?」

 ほぼ時間通り現れた遠城に、英さんがこんばんはー、と声を掛ける。遠城は会釈だけを返して、レジ台の奥に突っ立っている俺のところまで歩いてきた。

「まだなんか、ほな待ってるわ」

「あーいや……」

 入れ替わりで入る筈の夜シフトの大学生がまだ来ない。そう伝えかけるが、英さんがひゅっと間に入ってきた。

「暇やし行ってええよ。五分遅れるて今メッセージあったし、なんだかんだ神近くんはまだ怪我人やしね」

 英さんは店舗共用のスマホ端末を片手に言った。気の利いた女性だな、と思う。結婚詐欺などには引っかかりそうにない。バイト仲間にそんなことは出来ないけども。

「……ほな、そうさせてもらいます。英さんお先です」

「はいはーい」

 バックルームに引っ込みながらちらりと振り返れば、遠城になにかを話し掛ける英さんの姿が見えた。そんなつもりはない会話だとは思いつつ、そいつゲイなんです、と伝えたほうが良いような気持ちになった。英さんのためではなく、遠城のための気持ちだと自分でわかったから、やめた。

 結局ずるずると遠城家の世話になり、もう二ヶ月ほど経つ。生活費や治療費の心配が要らないのは本当に助かるし、メインの職場は有給を全部放り込んでの休職延長を許可してくれて、コンビニだけでも兄への送金がかなり楽になって遠城家を出られない。

 送迎の心配すらない。よれよれの私服に着替え終わって、いつの間にか一人で発注を始めていた英さんに挨拶をし、とにかく暑い外に出ると、黒いバイクに跨った遠城が待っている。

「右腕、首に吊らんで良うなって良かったな」

 遠城は俺にヘルメットを渡しながら言って、俺はヘルメットを被りながら振り落とされそうやけどなと返す。バイクの後ろに乗る経験をする日が来るとはと、毎回思う。フルフェイス越しでも打ち付ける風の強さに毎回驚く。これ俺が女やったら秒で恋に落ちるシチュエーションやなと、体幹のしっかりした遠城にしがみつきながら毎回考える。でもそれやと百パー実らんか、と毎回無駄に失恋する。

 俺は全治半年になる前は一人で深夜帯のコンビニバイトをしていたが、流石に危険かもなと店長が配慮してくれた結果、昼から夕方にかけての時間帯へと変わった。その送迎を遠城は毎回する。修理工場の責任者は遠城だから時間の融通が利くらしいし、ちょうど休憩時間に重ねられるからと本人は話す。楓ちゃんの意見はちょっと違う。いつもの兄貴やったら轢いたくらいやったら金だけ渡してほっときそうやのにと俺に話したことがある。せやから神近さん、ほんまに兄貴の男になってもうてよ。家ん中も人多い方が楽しいし。

 バイクは早送りのスピードで家に辿り着く。よろよろと降りて、いつもありがとうと声を掛け、玄関を開けると珍しく暗くて楓ちゃんがいない。最近は夏休みで、部活以外は大体家にいたため、変な肩透かしを食らう。

「部活の友達らと映画行って飯食うんやと。あっちの親御さんが送ってくれるらしいわ、そのうち帰って来る」

 バイクを片付けてきた遠城に説明された。

「ああ……ええな、青春やな」

「おー、楓は今めっちゃええ時期のど真ん中や」

「俺もええ時期のど真ん中におりたいわ……」

 などと言ってしまってから後悔する。青春時代はすべて親の放ったらかしに遭い、日常生活自体が苦痛だったことしか思い出せなかったからだ。

 遠城は察したのかどうなのか、特に返事はしないまま家の中に入った。作り置きあるし食うんやったら準備するけど、と別の話題を口に出したから、よろしくお願いします、と丁寧に返した。

 工場に戻るのかと思っていたが、遠城は二人分の親子丼と味噌汁を机に置いてから、俺の対面に腰を下ろした。

「遠城、仕事は?」

「今日暇やねん。天宮あまみやさんにも帰ってもろた」

 天宮さん、と声に出しながら顔を思い出す。何回かは声を交わした。五十代半ばの男性で、穏やかな雰囲気の話しやすい人だ。整備士の資格はないが事務仕事が得意らしく、工場内の小さな事務室でよく経理計算を行っている。

 初めて挨拶をした日、天宮さんは冬司くんには世話になっとるねん、と言ってから、お父さんの浩太朗さんは高校の先輩やったんや、と話した。俺は曖昧な相槌しか打てなかった。天宮さんもそれ以上は遠城家の話をしないまま、怪我はよ治しや、と気遣うように言ってくれた。

 もう帰ったんか、と思いながら親子丼をつついた。左手で箸を持つとすべて掴めず終わるため、食事はいつもスプーンだ。卵が甘くて美味い。楓ちゃんが作ったのか遠城が作ったのか、どっちだろう。

 美味いって伝えたほうが良いだろうか、止めておこうか、まったくもって判断できない。

「明日通院日やろ」

 悩んでいる間に、俺のスケジュール管理が完璧な遠城が先に話し始める。

「前も言うたけど、ちょっと送迎時間の都合がつかへんねん。バス停そんな遠ないから一人で行ってくれるか」

「あ、うん……」

「ちゃんと行けよ」

「……い、行くよ」

「なんで躊躇うねん、行けや」

「むしろ遠城、毎回送迎してくれんでええんやけど……」

 つい漏れた。遠城相手にはぽろりと話すことが増えてしまった。

 怒るかもしれんすぐ謝ろ。そう思いながら視線を上げて驚いた。狼狽えた顔の遠城を、恐らく初めて見た。なんでそんな顔をするのか、轢いた責任とは言っても世話を焼きすぎじゃないのか。お前みたいなイケメンが俺みたいな底辺を構っても仕方ないんじゃないか。

 全部を卵と共に飲み込んだ。ふっと視線を下げた遠城が物憂げで言えなかった。あれきり濡れ場なんて起こっていなかったけど、これって挽回するなら抱く場面やんなと思い浮かべてしまって、親子丼の味が消滅した。

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