7

 ラブホはご休憩だったから、済ませるなりトンボ帰りすることになった。遠城は手慣れていてさっさとタクシーを呼びさっさと精算機に金を突っ込み、片腕でよろよろしている俺の腰を抱いて廊下に出た。無表情だった。ホテルの外へ出ると雨が降っていて、タクシーはまだ来なさそうだった。

 屋根になっているところで横並びになり、タクシーを持った。どうにも落ち着かなくて隣を見ると、煙草を咥える横顔が見えた。

「あれ、吸うんや」

 つい声に出してしまったが、遠城は何でもない顔で頷いてから火を着けた。

 雨音の中、紫煙が無音で立ち上った。

「なんとなく、吸いたなる時があんねん」

 遠城は雨を見つめながら独り言のように言う。

「普段は言うほど吸わへん。あーぼちぼち入れとくか、って思た時にだけ火ぃ着ける」

「へえ……? メンテナンスみたいな……?」

「ふっ、どっちかっちゅうと寿命削っとるやろこれ。副流煙吸い込むお前もな」

 そう言われると意識してしまい、煙草の匂いが強く感じられた。焼けた苦い香りは夜にはなんだか合っていた。

 こちらに向かって来るヘッドライトを見て、遠城は煙草を地面に押し付けた。雨で濡れた煙草は無造作にポケットへと押し込まれ、おいおいおい、と思っている間にタクシーが目の前に止まった。

 車内では何も話さなかった。運転手も特に口を開かず、深夜帯のラジオがじっとりと流れていた。タクシー料金は遠城が払い、運転手に渡されたクレジットカードを見ながら俺は、これから何回も見る光景なんだろうかと他人事の熱量で考えた。

 楓ちゃんはもう寝ていた。バスケ部の朝練に行くから、夜十時には寝付くらしい。遠城も眠そうで、俺達は二階に上がるなりそれぞれの部屋に引っ込んだ。

「おやすみ、神近」

 扉を閉める前にそう言われた。部屋に入り、遠城の母親が使っていたらしいベッドに転がって、目を閉じるけどすぐに開いた。考え事のできる一人部屋があり、まともな夕飯があり、話相手がいておやすみと声を掛けられて、恐ろしいくらいに落ち着かなかった。

 あまり眠れないまま夜を過ごした。しかしいつの間にかうとうとはしていて、朝にはばっちり目が覚めた。カーテンを閉め忘れていたし、工場の方から激しい音が聞こえてきたため、眠り続けることは出来なかった。

 一階に降りてみると俺の分の朝食があった。兄貴とどこ行ってたん? という書き置きが残っていた。その近くには、ラブホ、と端的な返事が書かれてあった。転がったままの鉛筆を手に取り、ラブホの文字を消そうかと芯を当てるけど、結局止めて何も書かずに放りだした。卵焼きときんぴらごぼうとサラダという朝食は驚くくらいまともだった。

 工場からは、ずっと音がした。話し声もある。バイクを持ってきた依頼人か、工場の従業員なのかはわからない。意味の聞き取れないくぐもった話し声やドリルを回している甲高い音や家にも響くエンジン音を聴いている間に朝食は空になり、流しに持っていった皿は一応洗うことにした。

 冷たい水道水に左手を晒しながら、俺は困っていた。あまりにも普通の生活が始まってしまい、どうすれば良いのか見失いかけていた。改めて考え直す。来週からコンビニバイトは復帰する、多少貯まってきた金を兄に送っておく、女か男かはともかくマッチングアプリでなんとか詐欺ができそうな相手を探しておく。

「神近」

「うおっ!」

 水を止めて振り返る。作業着に身を包んだ遠城が、ダイニングの扉近くで腕組みをしながら立っていた。

「な、なんや……?」

「いや、皿ほっといてええぞって言いに来たんやけど」

「ああ……ごめん、洗いかけとる」

「片手で頑張んなや、お前負傷者やねんから上げ膳据え膳で楽しとけ」

 遠城は俺の隣まで来て、スポンジをさっと引っ手繰った。俺の代わりに皿洗いを始めた様子を眺めていると、流し目で視線を合わされた。ちょっと身を引くと、鼻で笑われた。

「童貞みたいな反応すな」

「どっ……童貞ちゃうわ……」

「知っとるわ」

 思わず口を閉じる。遠城はふっと視線を外した。

「まあ、またヤリたなったら言え。なんぼでも相手したる」

 遠城は蛇口を捻り、ぶら下がったタオルで手を拭くと、工場の方へと戻って行った。後ろ姿が見えなくなったあとも俺はアホのように同じところを見つめていた。濡れた黒い黒髪と俺の下腹部に落ちた雫が勝手に過ぎった。ほとんど声を上げないまま行為を進めて、俺が出した後に自分で自分のものを擦っていた姿も紐付けされて思い出した。慣れた手付きだった。これまで何人もの上を通り過ぎてきたのだと思った。

 ここまで考えてから左手を上げ、側頭部を自分で殴った。むごかった。遠城を抱いている最中に少しも兄や金について考えなかったことがむごかった。

 俺がなんとかせなあかんのに。


 兄は学校も部活も習い事も、親が決めたところしか許されなかった。不満はなかったらしいけど、自分で決めるという初歩的な人間性が薄まった。でも親は溺愛するから、欲しい玩具だとか服だとかは手に入るもんで、バランスが物凄く悪かった。

 兄に本当にやりたいことというものが出来たのは一年前だ。

 俺は高校卒業後にすぐ家を出ていて、親はその後引っ越したらしいからどこに行ったかはわからないけどどうでもいいって思っていた時期に、親の言った会社に勤めている筈の兄から連絡があった。

「三春、おれ、大学入り直したいねん」

 兄は電話口で泣いていた、もう三十半ばの男性がしゃくり上げながら泣く音を俺は初めて聞いた。子供みたいな泣き方で、絶句した。この人はバランスが崩壊したまま育ってしまったんだと悟らされた。

 親は甘やかすだけで責任は取らないし、兄が頼る相手は俺しかいなかった。

 小学生くらいの頃、親がまったく構ってくれなくても兄がいつも気にしてくれて、勉強を教えてもらったりこっそりゲームをやらせてもらったりしたことばかりが思い出されて、俺はどうしても兄を突き放せなかった。

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