第3話

常雨とこあめの』と冠されるこの地のご多分にもれず、今日も霧雨にけぶる。更には岩を流れ落ちる滝が無数のしずくとなって、それに混じる。そして、それらをかして見れば、私たち三竜の姿が見えるであろう。


「なるほど。そなたらには、重大な務めが待ち受けておるのだな。もう、誰を推すかも決まったか?」


 次の竜の試練が『大幻の日』のそれとなることを報告した後に、告げられた言葉であった。病のため、清涼な滝壷に身を沈めていやしておる竜王が口を開かれたのであった。


 まるで、往年の友へ語りかけるが如くの響きをその声は帯びておった。いや、実際のところ、空影そらかげ様はそうなのであろう。私はそのご相伴しょうばんに預かっているという訳だ。そしてそれゆえに、同じ滝壺にいこうを許されたと考えるべきであろう。


 高きこずえを誇る林の中にあるとはいえ、その滝壺には十名ほども入れる広さがある。私たちは、滝を避けて、そして各々少しばかり間を空けてつかっておる。


 きみの声は川のせせらぎを背景音として、滝壺を囲む岩々に心地よく響く。かつてほどの威勢は無いものの、霧中につゆの玉を生じさせるというその御業みわざは健在であり、それらは私たちの肌にまとわりついては、甘露かんろの如くうるおしてくれる。


「決まりました」


 空影そらかげ様が答える。こうした謁見にては、ほぼほぼ空影そらかげ様が応対なさる。私は直接に尋ねられたり、もしくは、特段の必要があったりした場合を除いては、口を挟まぬ習いとなっておった。


「誰だ。教えてくれぬか。わしも、あの世で、誰が王となるか、予想する楽しみを持ちたいからな」


「おたわむれを。王には長生きしてもらわねば困ります」


「つまらぬなぐさめはよい。次に誰が竜族の王になるのか、それを考え出すと、わしは、どうしようもなく、わくわくしてしまうのだ。

 さあ。誰だ。かつて、わしを推してくれ、供に試練を受けたのが、まさに、そなたと陽炎かげろう。そなた、そして陽炎かげろうの弟子たる夕顔ゆうがおが、この多士済々たしせいせいの竜泉郷から、誰を選んだか。それを教えてくれ。どうじゃ。今回も同じ者を推挙するのか?」


「残念ながら、別々でございます」


「ほう。意見が分かれたか」


御意ぎょい。そして、それゆえ、我ら両名、これまでは、貴方あなたという導き手と供に同じ運命を歩いてきましたが、それが分かたれることとなりました」


「それを承知で、同じ者を選ぶ気はないと」


「誰が推した者が竜主りゅうしゅにふさわしいか。それを見届けていただくためにも、王には、ぜひ、長生きしてもらわねばなりませぬ」


「わしとても、それを余生の楽しみとしたいのはやまやまじゃがの。しかし、幻獣王の定められた命運にはあらがえぬわ」


 その言葉が、明るく語る未来に迫るもう一つの現実を想い起こさせ、場を一瞬、静まり返らせる。私は王の姿を見るに忍びなくなり、己の瞳の奥にある感情を見られまいとして、視線をあらぬ方向にそらした。


 しばし後、続きの言葉が聞こえぬゆえに、改めて王の方を見ると、自らの想いのとりことなっておる如くにも見えたが。あるいは、私たちの答えを待っていらっしゃるのか? 王を待たせる訳にもいくまいと考え、また空影様が口を開きそうになかったので、先に答えることにした。


「私は、らいを、蒼竜そうりゅうの雷を推そうと思っております」


「ほう」


 感嘆の声を上げつつ、我が君は私の方を見て、大きくうなずく。


「ふむ。わしにもあえて反対する理由が想い浮かばぬ」


 喜ばしげにさえ見えるのは、私がそう願うからか?


「して、空影は誰を推すのじゃ。あえて、雷を外して、夕顔とたもとを分かってまでして、選ばんとするほどの者とは誰じゃ?」


 しばし、空影様は口ごもった。


「どうした? まさか、教えてくれぬという訳ではあるまいな。長いつきあいの、しかも、最も長くわしに仕えてくれた、そなたが。秘密などと、ぬかしてくれるなよ」


 それでも、口を開こうとはしなかった。


「空影よ。何を恐れている。そなたらしくないぞ。これまで、どのような意見であれ、口にして来たそなたが。それが、いかに、わしの考えと対立し、また、意にそわぬとしてもな」


「空影様。おっしゃってください。王が知りたがっておられるのです。王の言われるごとく隠し事をする間柄あいだがらでも、事柄でもないでしょう」


「知っておるのか?」


 王は、私の方を向く。


「教えてくれ。誰だ?」


 そうせがむは、まさに幼い子竜のごとくであった。空影様は困惑しきりとなったままだ。


「お教えしたいのですが、空影様が告げられぬものを、差し出がましく言う訳には行きませぬ。いくら、王のお頼みとはいえ。ここは、直接、聞かれるのがすじと考えます」


「誰だ。誰なのだ。空影よ。頼むから、教えてくれ」


 その余りの頑是がんぜ無き様に、あるいは、私まで困らせる様に、観念したか、ポツリと言われた。


しんは、黄竜のえんを・・・・・・」


 後の言葉は、消え入るようであった。いや、先に発した言葉さえ消え入ることが許されれば、それを願って止まなかったであろう。明らかに、その言葉が引き起こしたと想われる王の怒気に当たっては。


 我が君は、しばらく先祖の祟りにでもかかり、言葉を失ったかのように、何も、うめき声すらも、発することはできなかった。


「わしが追放した者を呼び戻したいと。そればかりか、王にしたいと言うか」


 我が君の声は、その身内に湧き上がる怒りを抑えきれず震え、また、これも、その感情の故であるのは明らかであるが、ヒゲの先がぶるぶると一層激しく震えておった。


「王よ。余りお怒りになられては、お体に障ります」


 私は何とかなだめようと想うが。


「恐れながら、次の王には彼をおいて他にないと思います」


 長き沈黙の後に、ようやくにして放たれた王の「そうか」との一声。そこに納得の響きはなかった。ただ、自らの感情を少しでも鎮めようとしておることだけは伝わって来た。何らかの怒りの感情に包まれかけた時に、それに身を任すのではなく、あらがうことで対処せんとする。それこそは、我が君の最も優れた特質と常日頃より感じておった。


 空影様の気持ちを推し量るに、病に冒された王を怒りに呑み込ませることは、本心から避けたきことであったろう。とはいえ、ここで、この大事について嘘を言うことは、どうあったって、できぬ。いずれ知れることである。そもそも、空影様自身の心が許すまい。円を推すというのは、相応の覚悟あってのことであろうから。


「次の王を推す権限は、ただ、そなたら四海冥樹にのみある。わしには、それをはばむ権限はない」


 王は、自らを納得させるように言葉をつむぐ。


「ただ、四海冥樹を罷免ひめんすることはできます」


「わしに、それをせよと申すか。わしは、そなたを臣下とのみ想うておるのではない。友と想うておる。それが伝わっておらぬとは言わせぬぞ」


「もちろん、罷免は、臣の望むところではございません。ただ、さりとて、円を推挙せぬことも、臣にはできかねることではあります。たとえ、それが、いかに、王の御心みこころにかなうものでないとしても」


「わし次第とそなたは申しておるのか」


「御意に従う所存です」


「罷免なさることについては、私は反対します。もし、空影様を罷免なさるなら、私も辞任いたします」


「ふっ。両名そろって、何を芝居がかったことを。わしがそなたらを罷免できぬと知って、そう申しておるのであろう」


 と半ば苦々しげに、そして、半ば呆れ顔で続ける。


「まあ良い。そなたがわしに言われて、推挙人を変えるようなやからでないことは、わしが一番良く知っておる。王の言に左右されぬことも、また、四海冥樹の重要な資質であるということも、若き頃に、そなたと陽炎から、かつての試練において学んだことよ。

 ふむ。よかろう。誰を推すか聞いたのはわしだ。はっきり言って、円が次の竜族の王になるのは望まぬ。しかし、誰がなるか、それを決めるのは『幻獣の王』、伽藍がらん世界のあるじにしてことわりたる『幻獣の王』に他ならぬ。わしも、あえて晩節を汚す気はない。そなた達を罷免もせぬし、辞任も許さぬ。存分に竜の試練にて競うがよい。これが、そなたらへのわしの最後のめいである」


 病のゆえか、その身内の想いのゆえか、ここで王は一息入れられた。


「わしがいくら尋ねても、今日、この日まで、なかなか名を申さなかったのは、そういうわけであったか。わしの気持ちをおもんばかってのことであったか。そういえば、追放の時、そなたは強く反対したな」


「はい」


「円がどこにいるのか知っておるのか?」


 空影様は再び言葉に詰まった。


「今更、隠す必要もない。わしもとがめだてする気はない」


「連絡を取っております」


「円には期待しておったが、あれさえなければな」


 空影様は、『それは違います』と、この件について常々行ってきた申し立てを繰り返すことをする気はないようであった。代わりに、


「では、円を呼び戻してよろしいのでしょうか?」


「そなたが、わしの反対を押してまで、次の王に、是が非でも、せんと思うほどの者。わしも、ぜひ、会いたい。再びな」


「は。かたじけなきご配慮。身に染みまする」


 そこで、空影様もまた一つ大きく息をはかれた。


「それで、他の四海冥樹は誰を選ぼうとしておるのだ? 聞いておるか?」


 自らの感情に呑まれてか、空影様は言葉を発するも苦しそうであったので、私が答える。


「暗視堂様はやはり今回も誰も推さぬとのこと。朧月おぼろづき様は赤竜せきりゅうほうでございます」


「崩? あまり、聞かぬ名であるな。何ゆえに彼なのか、知っておるか?」


「良くは存じません。実際、私も不思議に思っておる次第です」


 円や雷は、良くも悪くも目立ってはいた。円は、それが行き過ぎて、追放までされたのであるが。しかし、『崩』と聞いてもすぐに顔が思い浮かばない。それほど、印象が薄い。


「では。こたびは、その三竜によって争われるということか」


 我が君は、自らの試練の時に思いを馳せておられるのか、それとも、次に誰が王になるのかに想いを巡らしていらっしゃるのか、何にしろ、童心に帰った楽しそうな笑顔をなされていた。

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