第14.5話 楽屋落ち

――修了式の一週間程前。並んで登校する杏子と環菜の姿があった。


小学生からの幼馴染みで、家から学校までもほぼ同じ方角である二人は、この一年間、いつもこうして一緒に登校していた。


「杏子の英語の課題も終わったし、うちらももうすぐ二年生やね〜」


 つい先日、ようやく英語の補習課題を終えた杏子は、「ほうやね」と安堵の表情で返事をする。


「問題はクラス替えよね〜。一学期はちゃんがらな感じやったけど、なんやかんや今はそれなりに楽しいけんね〜。このまま二年になったんでええのに〜」


 陽気に一人で話す環菜に、杏子は「うん」と相槌を打った。


「ってかさ……」


 新年度の話題になり、杏子は少し歩くペースを落としながら話を切り出した。


「先生、来年おらんのやって」


「先生〜?」


 杏子の様子は気にも留めず、環菜はすたすたと先を歩く。


「あれよ。体育の」


 それを聞いた環菜は、バッと杏子の方へと振り返り立ち止まった。


「え〜!タツ兄おらんなるん〜?そんな話してなかったことない〜?」


 環菜は薄い薄い眉毛を大きく上げて、杏子に聞き返す。


「……うん。わたしもついこないだ聞いた」


 環菜は両手を頭の後ろで組み、「そっか〜」と空に向かって呟き、また歩き始めた。


「それは、ちょっと寂しくなるね〜」


 前を歩く環菜には見えていないだろうが、杏子は黙ってこくりと頷いた。



 しばらくそのまま歩いていた二人だが、環菜が思い立った様に口を開いた。


「よし!皆んなにも教えてあげよ〜!」


 環菜は背負った鞄を大きく揺らしながら突然に駆け出した。


杏子もそれに続こうとしたが、環菜の持ち前の体力には敵わないと悟ったのか、ペースを落としたのですぐにぐんぐん引き離されていった。

 


 息を切らしながら教室に滑り込んだ環菜は、ドアの前に立ったまま、すでに登校しているクラスメイトに向けて、声を大にしてこのニュースを発表した。


「聞いて〜!タツ兄がさ、学校辞めるんやって〜!」


 教室に居たのはまだ半分程の生徒。その全てが環菜の言葉に引っ張られ、さっきまでの談笑をピタリと止めた。


「え?そんな話タツ兄、一言もしてなかったことない?」


 百合も、環菜が耳にした時と同じ様な反応を見せた。


「ウソやろ?」、「なんで辞めるん?」と、少しずつ教室がざわつきはじめた。


「ってかさ!」


 突然に桃果が声を張り上げた。


「そんな大事なこと直接ウチらにも言わんって酷くない?」


 桃果のこの一言で、教室は一瞬にして川嶋への不信感に包まれた。環菜が、杏子から聞いたということを口にしなかったのは、桃果や百合がこうなることを見越してか。


朝の始業前、のどかな教室が色めき立った。そして、後から登校して来た者達も、教室内の不穏な空気にどんどん感化されていく。杏子が教室に着いた頃には、すっかり皆どよめいていた。



 始業のチャイムが鳴り、担任がやって来た所で、各々一旦はこの気持ちをしまっておこうと、席に着いた。


遅れて川嶋も、昨日まで通り教室へとやって来る。何やらさっぱりとしない空気に気付いた川嶋が皆に向かって口を開いた。


「いつも以上に朝からパッとしねぇなあ、お前らは。春だからって、本当に」


 多くの者が机に顔を突っ伏しており、誰も返事をしなかった。



 この日の十三組の一限は担任の授業だった。これ幸いと、担任を問い詰め始めたのは桃果である。


「ねぇ!タツ兄が辞めるって本当なん?」


 川嶋本人の口から生徒達に伝えていない事を悟った担任は、その答えを自分が言ってしまうのはどうしたものかとはばかったが、渋々ながら皆に事情を説明することにした。


 産休の代理で、本年度限りの契約の講師であること。そして、採用試験に合格したため、次年度からは、地元、関東の公立学校での勤務が決まっていることを。


 もう授業どころではない。今更にそんな事実を聞かされた彼女達は、余計に逆上してしまった。「先生も知っとったんやったら教えてや!」などと、矛先はあらぬ方へと向く羽目に。


 ひとしきり担任へと感情をぶつけたものの、誰もその鬱憤が晴れる様子は見られない。次第に教室には沈黙が訪れた。


どのみち、来年度は川嶋がいないという事実は変えようがない。感情を吐き出し少し冷静になれたことで、その現実が少しずつ身に染みてきつつあるのだろう。


次第に口を開く者は一人もいなくなり、どんよりとした空気が教室中にまとわりついていた。

 


「あのさ……」


 沈黙の中、口を開いたのは杏子だった。


「他のクラスも皆んな知らん訳やろ?せっかくやけん、わたしらだけでも気持ち良くお見送りしてあげん?」


 教室は静まり返ったままである。この空気の中で川嶋の肩を持つ様な発言を口にして、少し気まずそうに、杏子は皆の反応を恐る恐る伺っている。


「……ええね」


 皆、桃果の方へと顔を向けた。


「ウチらに隠しとったんは確かに腹立つけど、お世話になったと言えば……多分そうなんやろうけんさ」


「まぁ、アタシらは頭叩かれた思い出ぎりやけどね」


 桃果に続いた百合の言葉に、何人かがクスリとした。澱んだ教室にスウッと光が差した様に、そこからは続々と、杏子の前向きな意見に寄り添う者でいっぱいになった。


明るくなった教室に、杏子はホッと胸を撫で下ろした。


「なんかドッキリやろや!」

「でも修了式してそのまま離任式やろ?もう一週間無いやん。全然準備する時間無くない?」

「それにやるとしてもいつやるんよ」

「やっぱ、離任式の後とか?」

「先生ー!離任式の後ってホームルームあるんやろ?そん時ちょっと時間ちょうだいや!」


 活き活きとし始めた生徒達のお願いに担任は断る理由も無く、快く承諾した。今日はもう授業などそっちのけ。送別のサプライズの打合せ会となった。


「結局、何するかよね」

「なんか歌でも歌う?」

「卒業ソング的な?」

「一年で卒業とか。タツ兄、ウケる」

「でも、歌なんか、それこそ練習する時間無いやろ。皆んなが知っとって、タツ兄も分かる歌の方が感動するやろ」

「あ!感動と言えばさ――」




 粛々と執り行われた修了式、離任式。全ての式次第を終え一年生から各クラス毎に退場していく。


十三組の生徒達も、前のクラスに続いて退場したのだが、体育館を出た所で教室へ向かう足を止めた。


「よっしゃ!ここでタツ兄が出てくるの待っとこ!」


 脇へ逸れた十三組の生徒達を横切って、続々と他の生徒達は教室へと向かって行く。目を凝らして待つ十三組の生徒達だったが、一向に川嶋の姿を見つけることができない。


「あれ?タツ兄出て来んやん」

「今朝のホームルームも来んかったくらいやけん、教室に来づらいんちゃう?」

「タツ兄ならあり得るな」

「ここまできて往生際が悪いねホンマに」


 十三組の生徒達は、川嶋がやって来るのを今か今かと待ち続けていた。

 


 全校生徒とほとんどの職員が退場し、体育館出入り口の混雑が収まった頃、ようやく川嶋が体育館から出てきた。すかさず十三組の生徒達は川嶋の前へと躍り出て、その道を立ち塞いだ。


「はーい。タツ兄ー、回れ右ー!」


「あ?お前ら教室に帰ったんじゃなかったの?」


「ええけん、ええけん。早よ体育館戻って!」


 十三組の生徒達、そして担任と川嶋。教室はすっかりもぬけの殻にし、今出てきた道を逆戻りして皆で体育館へとなだれ込んで行った。川嶋の手を引き、背を押し、生徒達が連れてきたのは体育館のフロアの真ん中。


「とりあえずタツ兄はここで座って待ちよって!」


 それだけ言い残すと、皆ゾロゾロと、ステージ脇の控室へと消えて行った。


「あの子らが自分達で言い出した事なので、見てやってて下さいね」


 担任も、それだけ言い残し、生徒達に着いて控室へと入って行った。



 担任がスイッチを操作しステージの緞帳を降ろす。


緞帳が降りきったら、そこからは大慌てで生徒達皆が準備に取り掛かった。手分けして下手側の控室に引っ込めてあるピアノ、ひな壇を引っ張り出す。


「重い〜!」

「ピアノ、もう何人か手伝って!」

「指揮者の台ってこの辺で良い?」

「ひな壇もっと向こうに寄せて!」

「そういや並び順どうやったっけ?」


 幕の内側はてんてこまいであった。


一人、フロアに取り残された川嶋はというと、幕を一枚隔てた向こう側の賑やかなやり取りを耳にしながら、どかっと腰を下ろして片膝を立て、安気そうに構えて幕が上がるのを待っている。


「オッケー!できたね?先生!幕上げてかまんよ!」

「う〜。ちょっと緊張するね〜」

「杏子ちゃんも頑張ってよ!」

「しっ!もう幕上がるよ!」


 体育館には静けさが戻った。合図を受けた担任が操作をし、ゆっくりと緞帳が上がり始めた。


緞帳を巻き取るカタカタという機械音だけが小さく小さく体育館に響いている――。

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