第13話 先生

「てめぇらこのままじゃあ、ランドなんか行けねぇぞ!」


 進級判定会議において、クラスの在籍数の三分の二の生徒の名前が進級保留として挙げられたのは、後にも先にもこの十三組だけであろう。


おれも国語や数学といった勉強は得意ではないので、あまり偉そうに言えたものではないのだが、進級が懸かっているとなると話は別である。


 幸い、ここは私立学校。留年、退学者が大量続出となるよりは、できれば、就職率何%と良い数字を残したいし、進学実績はどこそこの大学と、大っぴらに謳いたいものである。


 なので、赤点で進級や卒業が保留になってしまったとしても、補習課題なるものが出され、それさえクリアすれば、あとは教科担当の裁量で何とか留年は免れることができるという、温情采配。どちかと言えば、かなり甘めの仕組みである。


 だからこそ、副担任としては、一人も留年者を出したくはない。課題をこなせば進級できるのだから安いものだ。会議のあった翌日から放課後の教室に残って、赤点の奴らと一緒に課題に取り組むことにした。



 赤点組は予想通りの顔ぶれだ。


桃果、百合、杏子……。環菜がいないのは意外であった。


「へへへ〜。うち、テスト前なんかはちゃんとやっとるもんね〜」と、カラカラと笑いながら揚々と帰っていった。


要領が良いというのか、抜け目が無いというのか。環菜らしいと言えば環菜らしい。



 さて、さっそく課題を片付けていくわけだが、桃果や百合は国語。


これは大した問題ではない。教科担当から出されたプリントの束を解答し、それが満点になるまで繰り返し提出すれば良い。他の教科の課題も似たようなものだ。


数学は目がチカチカするほどビッシリ書かれた計算問題の山。変に文章問題等ではないため、これも時間さえかければどうにでもなる。理科や社会も同様。教科書と睨めっこをしていればいつかは終わる。



 三日、四日と、遅くまで教室に残って時間を費やしていくと、この課題地獄から抜け出す者がポツポツと。


しきりに「意味分からんしー」とブツブツ言っていた桃果も百合も順番に抜けていき、五日目には、気付けば、陽の傾いた教室に残るのは杏子一人になった。



 杏子が赤点だった英語の課題は英作文。教科書を見ながら答えを探すという程単純な作業でない上、英語はおれもからっきし。英語への苦手意識が強いからかもしれないが、おれにとっても難儀な課題である。


まぁ、こいつらも皆んな、苦手な教科だから赤点なんぞ取って帰ってきたわけだから、当人からすればどの教科にしても、厄介なものには変わりないのかもしれない。


 英作文の課題は三十程ある。「我が町の紹介」、「外国人に伝えたい日本の良い所」等、割と簡単なものから始まって、「もしあなたが百万円貰えたら何に使うか?」といった、空想的な論述形式のものや、果ては時事問題についてまで。


消費税が八パーセントになったところで、こいつらの生活はさほど変わりないだろうに。


 更に、設問は全て英語で書かれているというのも何とも意地が悪い。英語ができないから赤点だったというのに、こう英語責めされたとあれば、例え嫌いでなくとも鬱陶しかろう。


 杏子のペンが進まない気持ちも分からんでもないが、これをやっつけてしまわなければ進級が危うい。


杏子の顔が、辞書へと問題へと何度も行ったり来たりしている様を、おれは教卓から静かに見守っていた。


 というよりは多分、一緒になって考えても分からないため、手助けの仕様も無かったというのが本音だ。


日本人のくせに英語なんざ必死にやるのは馬鹿のやる事だ。そうタカを括っておれは生きてきた訳だが、この時ばかりは、少しくらい勉強しておいても良かったのかなと思ってしまった。



 時計がもうすぐ十八時を指す。三月に入ってからいくらか日も長くはなってきたとはいえ、お天道さんはもうすっかり沈みかけ、西の空は真っ赤に焼けている。


 そろそろ教室を閉めなければと思いつつ、杏子の課題の進み具合を覗き込んだ。六割ほど埋まっている。大したものだ。


締め切りは来週末だから、明日からの土日も家で根を詰めてやってきてくれれれば何とかなる。


「だいぶ進んだじゃん。今日はこの辺にしとこうか」


 杏子の手から離れたシャーペンは机の上を力無く転がり、風船が萎む様に大きく息を吐きながらぐったりと、杏子は椅子にもたれかかった。


カタカタと数センチ転がったシャーペンの先の英文が、ふと目に付いた。


「I want to become a teacher」。


いくら英語が苦手でも、簡単な単語くらいはおれでもなんとなく分かる。むしろ簡単な、自分でも理解できる単語しか分からないから、そこだけくっきり浮かび上がる感覚だ。


「I」が私で、「teacher」は教師だから……。


「ん?ティーチャーってお前、先生になりてぇの?」


 はっとしたように慌てて、杏子はプリントを両手で隠した。


「へぇー。杏子が先生かぁ」


 おれは隣の席に座り、杏子の方に体を向け、机にどかっと頬杖を着いた。


杏子はいそいそとプリントや筆記用具を片付けている。膝に置いた鞄に筆箱を入れ掛けた所でピタと手を止め、視線を落としたまま口を開いた。


「わたしみたいなんが先生になりたいって言うたらおかしい?」


「なんで?」


「なんでって……。わたしってこんなんやし。別に喧嘩っ早いつもりはないけど、カッとなったらいらんことまで言うてしまうし。かと言って、気に入らん時にまで愛想振りまいて笑顔で接するとかは無理やし……」


「ふーん」


 いつもつっけんどんとした杏子が、少し自信の無さそうに自分のことを話そうとする姿は、とても新鮮だった。杏子がこちらを見ていないのを良いことに、思わずおれは口角が上がってしまいそうだ。


「じゃあそんなお前がさ、なんで先生になんかなりてぇの?」


 少しの間を空け、杏子は何かを決心した様に話し始めた。


「わたし、幼稚園の先生になりたいんよね」


 おれは足を組んで、黙って杏子の話に耳を傾けた。


「わたしね、ちょっと歳が離れた弟がおるんよ。わたしはその時まだ小学生やったんやけど、その弟が赤ん坊やってね、初めて自分の足で歩いたのを目の前で見た時に、すごい感動してさ。小さい子どもらの成長とか成功を間近で見れる仕事って良いなと思って」


 シンプルだけど、それでいて明確な理由だ。


十五、六の小娘だと見くびっていたが、いやはや。


話を聞く限りでは、小学生の時に見つけた感動がそのまま夢となって、それを今でも温めているとは。見上げたものだ。


学校の部活動を始めた中学生になっても、コツコツとピアノを習い続けていたということも合点がいった。幼稚園や保育園の先生にとって、ピアノは必須だからということであろう。


「なれんじゃね?」


 え?っと杏子は大きく目を開いて、ゆっくりこちらを向いた。あの日のセンセイがおれの中にスゥッと重なった気がした。


「なれんじゃねぇの?お前なら」


 センセイを通して見える杏子の目はキラキラ輝いて見えた。


「先生はさ、なんで先生になったん?」


 杏子の問いによって、おれは引き戻された。


「そんなもん……。」


 おれは視線を杏子の向こうの窓の外にやった。


「なりたかったからに決まってんだろ」


「なんそれ」


 杏子が笑った。細い眉をしならせ、普段はキッと吊り上がった目をさらに細めて、杏子が笑っている。初めて向けられたこいつの笑顔に、おれは自然と口を開いた。


「おれさ、来年はこの学校にいねぇんだ」

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