第12話 冬はマラソンって誰が決めた
――冬。ここはあまり雪が降らない。夏同様、いや、より一層乾いた空気によって身が凍え、ただただ寒いばかりである。これもここの土地柄というものだろう。
冬の寒気を伴う季節風は、中国山脈が一身に受けているため、山の方では雪も降るには降るのだが、街中においては、積雪によって交通が困難という様なことはほとんど無いらしい。
しかし、向こうに見える石鎚山は、街中から見ても絶景である。
制服もすっかり衣替えをし、吐く息が白くなった頃、晴れた空をふと見渡すと、あのビルの向こうに石鎚山が、その顔をくっきりと見せている。
そもそもこの間までは、その姿は霞んでしまい見えていなかったので、冬は空気が澄んでいるという意味をここに来て初めて実感した。
体育祭、文化祭と、大きな行事と共に慌しく過ぎていった二学期。それなりに目標を持って、皆で前向きに取り組むことができたのだが、三学期の体育の授業は、おれにとっても奴らにとっても、それはそれは険しいものになる。
「お前らも知ってると思うけど、今日からの体育は持久走だから」
「出たー!」と仰け反り返る桃果。何も出てやしないよ。
桃果に続いて皆、「なんでこんな寒い中わざわざ走らないかんのよ」、「ただ走るだけとか何も面白くないやん」と。
こうなるのは目に見えてはいたが、まぁ。気持ちは分からないでもない。
「授業なんだから仕方ねぇだろ。持久走やんねぇと、三学期の体育の点やれねぇんだから」
「出た出た!学校だからー。授業だからー」、
「教師はええよね。生徒に、お前らやれーって言っとけばええだけなんやけん」、
「ね。結局やるんはアタシらやもんね」
と、さえずるさえずる。その物言いにカチンときたおれは、少しだけ意地悪を言ってみることに。
「じゃあ別にやんなくて良いよ。その代わりお前ら、体育赤点だから」
すかさず、「そんなん横暴やん!」、「そうやって権力振りかざしてさ。汚い大人のやることやん」、「あーあ。こんな大人にはなりたくないねー」とよくもこう、ピーチクパーチクと。だんだん腹が立ってきた。
「てめぇらこの一年で何も変わってねぇのかよ?ちょっと嫌なことがあったらすぐ文句垂れやがって!世の中よう、嫌だ嫌だで渡っていけるほど甘かねぇんだよ!」
こう威勢よくおれが啖呵を切った後には、大抵碌な事が無い。
「……じゃあさ、タツ兄も一緒に走りや」
それ見たことか。何となくこんなことを言い出す奴が出てくることは予想していたが、桃果の一言に一瞬詰まってしまったおれの隙を、奴らは見逃してはくれなかった。
「ええね!それならアタシらもやる気出るわ!」と、ここぞとばかりに百合。
「心は一つ、やもんね〜。タツ兄〜」と環菜も乗っかる、乗っかる。この一年で磨かれた団結力を無駄に発揮して。
「わーったよ!やりゃあ良いんだろ?」
ワッと歓声が上がる。「さすが!」、「よっ!タツ兄!」と、本当に現金な奴らである。いや、結局持久走をやる事に何ら変わりは無いし、こいつらは誰も得していないというのに。まったく、変な奴らだ。
持久走は学校の外周を使って行う。正門から出て、学校の敷地に沿った歩道をぐるりと裏門まで回る。
裏門から入るとすぐ校庭なので、あとは校舎に沿って正門まで帰って来たら一周とカウントされる。
これでおおよそ五百メートル程。六周がノルマなので、約三キロが一回の授業の課題となる。
二人一組に分かれて、ペアの者が実施している間は、もう一人が周回のカウントと、六周終了の際のタイムの確認、記録を行う。デジタルタイマーを準備してあるので実施者自身でも確認はできるのだが、ペアできちんと確認するという決め事として取り組む。
「ペアは出席番号順な。一番と二番がペア。三番と四番がペア、って感じで。今日は奇数の番号の奴から走ろうか」
奇数番号の奴らがゾロゾロとスタート位置に準備を始めた所で気付いた。このクラスの人数は偶数だから、欠席者がいなければペアの余りが出ない。
「ありゃ?そういや、おれだけペアがいねぇじゃんか」
「やったら、タツ兄は二回とも走れば良いやん」
スタートラインに立つ桃果が余計なことを口にしだした。いや、おれが黙っておけば良かったのか。
「いや……それはさすがにしんどいって」
「えー。タツ兄、ウチらと一緒に走ってくれるんやなかったん?」
桃果。お前はもう黙っててくれ。
「ほんなら、アタシらとは走ってくれんの?さみしー」
すかさず偶数組の百合も追い討ちをかけてきた。
結局おれは二班とも一緒に走ることになった。何の恨みがあってこんな仕打ちをされなければいけないのか。
まぁでも、一緒に体を動かすのは悪いことでは無い。それに、サボっている奴がいたらひっぱたいて回ってやってれば、そのうち桃果や百合がおれとは一緒に走りたがらなくなるだろう。集団走と同じだ。
一班目は、「寒いー、しんどいー」と最後尾を独走する桃果の頭を叩いているうちに六周走り終えてしまった。
「ウチはね、チーターと一緒で、ガッと走ったら安まんとしばらく走れんなるんよ」と訳の分からないことを言っている。
『鳴く猫は鼠を取らぬ』と言うが、まさにこいつのことだ。口はそれだけ回るのに、足は動かないときた。
どうせ少し前にやっていた動物ドキュメンタリーか何か見たのだろう。そういうことなら、いっそのことマグロでも見習えば良いのに。
いや、こいつの口はマグロの様なものだ。何かにケチをつけて喋っていないと生きていけないみたいだから。
おれと桃果がのんびり走る間に、「お先に〜」と、環菜には笑顔で周回遅れを食らった。あいつはやっぱり今からでも運動部に入った方が良い。
あまりにも桃果が遅いので時間が押してしまい、一班目が終わったらすぐに二班目のスタートとなった。
こっちの班は桃果程のんびりだらだら走る者がいないため、ある意味おれはしんどかった。真面目に走ってくれるのは嬉しいのだが、そうなると、こっちも真面目に走らなければならないのでなかなか骨が折れる。
半分程走り終えた時には、さすがにそこそこ息が上がってしまった。
「タツ兄ー、しっかり走らんとー!」走り終えた奇数組が茶々を入れてくる。
よし決めた。一番声を張り上げている桃果は、次の授業でおれと同じ目に合わせてやろう。
桃果への復讐に燃え、少し元気が出たところで、チラと前に目をやると周回遅れ組の杏子がいる。こいつもチーターなどと吐かすのだろうか。
でも、杏子に関してはその言い分もいくらか納得はいく。
授業やクラスマッチ、体育祭と杏子のことを見てきたが、こいつのバネには目を見張るものがあった。
その反面、本当に持久走は不得意なのかもしれない。容易に追い付くことができたので、そのまま杏子と並走した。
「お前マラソン嫌いなの?」
「……まぁ、……得意……ではない」
息を切らしながら答えた杏子は、本当に苦手なのだろう。嫌いとはっきり言わない所が、杏子らしいと言えば杏子らしい。
「やらせといて何だけど、おれも正直好きじゃあねぇんだよ。ただ走るだけって面白くも何ともねぇかんな」
今度は返事が無い。杏子の息切れ気味の吐息だけが返ってくる。あんまり話し掛けて疲れさせるのもあれだからと、しばらくおれも黙って並んで走ることにした。
「先生はまだ……結構余裕そうやね。……置いてって……かまんよ」
息は上がって、よく熟れたリンゴみたいな火照った顔で走る杏子には悪いが、杏子に合わせて走るのは、おれにとってはまだ楽なペースだった。いつの間にか杏子は最後尾になっていた。
速いか遅いかという問題は置いておいて、自分のペースで必死に隣を走る杏子の姿を見てふと思った。
最初の集団行動こそすんなり事が運ばなかったものの、それ以降はこうして皆それなりに取り組んでいる。杏子に限らず、他の奴らもそうだ。
少し気を抜いたら不平不満のオンパレードではあるが、こちらがうまいこと手綱を引いてやれば、それなりには前へと向かって進むことができている。
派手で生意気な奴らではあるが、まだまだこいつらも十五、六の子どもである。時には並んで、時には手を引いてやりながら、共に歩む。そんな存在が必要なのだ。
忘れていた。おれもこいつらの歳の頃、えもいえぬ気持ちに押し潰されそうだったことを。
思い出した。センセイと一緒に過ごした、病室に差し込む光を。
「良いんだよ。お前一人でビリじゃあ気の毒だから、おれも一緒に走ってやるよ」
杏子と肩を並べながら、歩道のアスファルトを蹴る一歩一歩を、しっかりと踏み締めた。
正門が見えた。ほとんどの奴が走り終え、先に走った奇数組と一緒に座ってゴール付近で一息ついている。杏子はそこから残りあと一周。
周回遅れにしている訳だからおれは本当ならここで六周のノルマは終わりだが、この際だから最後まで杏子に付き合うことにした。
「あー!杏子ちゃん!頑張れー!」
「杏子〜!あと一周よ〜!」
「タツ兄なんかに負けんな!」
「抜かせ!抜かせ!」
ノルマ達成組を横切る際に、声援が耳に飛び込んできた。
今言った奴ら。次の時間に桃果と同じ目に合わせてやるからな。そして生憎、杏子には返事をする余裕は無さそうだ。
でも、皆からの応援とおれへの野次を聞いて、杏子の足取りがほんの少しだけ軽くなった様に見えた。
外周を終えて裏門をくぐると、あとは校庭を抜けるだけ。視界の向こうの方に、正門のところで待機している奴らを捉えたとほぼ同時くらいに、声援が上がり始めた。
「杏子ちゃーん!ラスト、ラスト!」
体育祭の借り物競走でのラストスパートが脳裏に蘇った。たかが体育の授業の持久走で、何とも騒がしい奴らだ。まぁ、今に分かったことではないが。
皆が見守る中並んでゴールし、杏子はそのままフラフラっと二、三歩進んだかと思うと、すぐ膝に手を着いて項垂れた。
一班のドンケツだった桃果よりかは良いタイムだった。やはりあの野郎は次もこの調子ならお説教だ。
環菜が「杏子〜、お疲れ〜」と杏子に向かってタオルを投げる。まだ息が整っていない杏子は、それを受け取るとすぐその場にへたりこんだ。
おれだけなのかもしれないが、体育の授業の成績は非常につけにくい。もちろん競技毎に実技試験の形をとるが、それでもだ。
実技の点がだいたい四〜五割。残りは、思考や判断、取り組む態度といったものである。実技に関しては数値化しやすいからまだ良い。それ以外の観点においては、かなり曖昧なものに感じる。
例えば、正当な理由無く遅刻や忘れ物をしたら減点。これだけで済むのなら目に見えて分かるのだが、一言に態度と言われてもという話だ。
どうやっても運動が苦手な者がいるのは分かる。そんな者達を実技の出来栄えだけで評価してしまうと、どれだけその人なりに懸命に取り組んでも赤点になってしまうという事態を配慮してのものなのであろうが。
その仕組みの一方で、担当教師の価値観や物差しによる偏りが出てしまうことも否めなくはないと思ってしまう。だから、おれにとっては非常に成績がつけにくいと感じてしまう。
三学期の実技は持久走しか無いから、自ずとそのタイムが成績に直結する。ではその他の観点も含めて成績をつけるとすれば……。
今日の光景だけを見て言うのならば、おれは全員に文句無しで、五段階評価の五をつけてやりたいくらい。
訂正。桃果は少し微妙かもしれない。
でも、今日の調子で残りの実技に取り組めるなら、こいつらの体育の成績に関しては何も心配いらないと確信した。
いよいよ年度末がやって来た。おれの任期もあと残りわずかである。
そういえば、おれが一年契約の、産休代理の講師であるということは、十三組の奴らはおろか、生徒達には誰にも公言していなかった。
おれは一年しかいないから。
それを理由や言い訳にするつもりは毛頭無かったし、そもそも奴らにそれを伝えるタイミングも無かったと言えば無かった気がする。
しかし、奴らにはきちんと伝えておかねばなるまい。それが一年共に過ごした、奴らへの義理であり、筋なのだろうという思いが日に日に強まっていった。
そんなおれの思いは、まぁ伝えていないのだから奴らが知る由も無いのだが、来年もおれがこの学校にいて当然の如く話は弾んでいる。
私立高校なのだから、公立学校の様に定期的に異動がある訳では無いから、そうなるのも無理は無い。
「もうすぐウチらも二年やね。なんか中学の時より早い気がする」
「そういや来年、修学旅行やん。六月やっけ?ランド行けるんチョー楽しみなんやけど」
全国ほとんどの学校と同様に、この学校も修学旅行は二年生で実施する。三泊四日で関東への旅行。二日目の都内で自由行動、最終日は朝からランドで豪遊。田舎暮らしの女子高校生にとっては夢のような旅である。
「タツ兄関東おったんやったら、ランド行ったことあるん?」
「何回かあるけどさ、大して面白くもねぇよ。あんなもん人を見に行く様なもんだかんな」
「それは行ったことあるけん言えるんよ」
「タツ兄もさ、アタシらと行ったらおもろいと思うよ。教師も大抵は持ち上がりなんやろ?」
「いやー、タツ兄だけ留年とかあり得るで。副担やけんね」
「てめぇらは自分の進級の心配しろってんだ」
話が盛り上がれば盛り上がる程、いつ、どう切り出して良いのか分からない。そんなモヤモヤした心持ちのまま、いよいよ学年末考査を終えてしまった。
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