第11話 ギャップ萌え
文化祭。朝のホームルームにと教室へ向かったおれは、景気良くガラッとドアを開け、「おはよう!」と威勢よく踏み出し挨拶をしたのだが、どうやら隣のクラスと間違えてしまった様だ。
もう半年も毎朝通っているのに、あろうことか、自分の教室を間違えてしまった。いやはや。おれはおれで意外と、ある意味では緊張しているのだろうか。
発表が始まってしまえばおれも観客のうちの一人になってしまう訳だが、我が子がきちんとステージに立てるかどうかと気が気でないのかもしれない。
朝一番から、これはとんだ赤っ恥を掻いたと思い、教室を出ようと踵を返したら、生徒達から
「タツ兄どこ行きよん?」、
「朝から忘れ物?」
と呼び止められた。
聞き慣れた声に驚き、バッと振り返った。
見間違えたのも無理はない。あれだけ鮮やかだった教室の風景が、黒一辺倒になっているのだから。
茶髪の奴は一人もいない。全員が髪を黒く染め直し、長髪の者は皆、二つ結びのおさげにしている。
そして、すっぴん……ではないが、化粧も薄めのナチュラルメイク?というやつだ。普段の百合のまつ毛なんざ、まばたきで火を起こせるのではないかという程、長く真っ黒に反り返っているのに、今日は控えめでしおらしい。
改めて皆の顔を見渡して、おれは思わず吹き出してしまった。
「何だよそりゃ!教室間違えたかと思ったよ!」
入学式の前、証明写真と睨めっこをして確かに覚えたはずの顔がそこに並んでいた。
しかし、それももう半年前のこと。今日まで過ごした日々のおかげで、こいつらへの印象はおれの中ですっかり塗り替えられており、今目の前にある姿の方が逆に違和感があった。
「黒髪すっぴんってタツ兄が言うたんやろ?」
「自分で言い出しといて笑うとか有り得んやろー!」
大人しそうで、言うなれば、生徒手帳規則に記されてある様な、高校生らしい模範的な身なりをした子達が、桃果や百合の声でさえずっている。
「お前ら、そりゃもうギャップ萌えなんかじゃなくて詐欺だよ」と腹を抱えて笑うおれに、「ひどっ!言い過ぎやろ!」と模範生達から湧き上がるブーイングの嵐。
何とも滑稽だ。しかし、それぞれ自分なりの個性の現し方や拘りがあるであろうに。それらを取っ払ってステージに立とうという心意気は賞賛に値する。なかなか可愛げがあったものだ。
「まぁまぁ。思わず笑っちまったけど良いんじゃねぇの?それはそれで、ある意味お前ららしいよ」
後から来た担任も最初目を丸くし、その後少し口元が緩んでいたために、奴らからバッシングを浴びせられていた。
そして、文化祭の開幕に向けて体育館のフロアへ入場した段階から、こいつらは隣近所に座席を構えている生徒達からの視線を集めた。
それはそうだ。それが今までお前達が周りに与えてきたイメージというやつなのだから仕方ない。しかし、だからこそ今日は、これで良いのだ。
実行委員の生徒の司会進行の元、開会式なるものから始まり、順次演目がステージ上で行われていった。
体育祭の時とは違い、今回の行事においておれは係を任されていなかったので、開会から十三組の奴らの列に割り込み、腰を落ち着かせ観客を決め込んだ。
和装をして、どこで習ってきたのか知らないが、和楽器の演奏をするクラスがあれば、流行りのアイドルのダンスや衣装で会場を沸かせるクラスもある。アートパフォーマンスというのか、小芝居をしながら皆が少しずつ筆を入れていき、劇の終わりと共に一つの大きなアートを完成させるという演出。どのクラスもそれぞれ見応えがある発表だ。
すっかり観客気分でふんぞり返って見ているおれの両脇には、やや表情の固い十三組の奴らが。他のクラスの発表に圧倒されているのか。はたまた、おれにはさんざっぱら笑われ、周囲からは普段とは違った、好奇とも思える目を向けられながらステージに立つことに、やや怖気付いてきたのか。
ライトアップされたステージとは対照に、フロアのライトは落とされ薄暗く、その中で見えるこいつらの表情は、余計にどこか沈んで見えた。その様子を見て、さすがにおれも笑いすぎたかなと、少しばかり反省した。
「何だよお前ら。らしくねぇなぁ。緊張してんのかよ」隣にいる桃果の肩をパシンと叩いてやった。
いつもなら叩き返してきそうなところなのだが、「そりゃあね。全校生徒の前で歌うとか、やっぱ緊張はするよ」と、何やらいつもよりしおらしい。髪を暗くすると、性格まで暗くなるのかこいつは。
伴奏と指揮。大役なのに、意外といつも通りに見えるのは、少し向こうにいる杏子と環菜だ。
あとの者は、いつもより少し口数が多くなったり、桃果や百合といった普段から騒がしい奴は逆に、やや大人しくなっていたり。
体育祭の時はあれだけ応援席ではしゃぎ回っていたが、いつもと違った自分で、言うなれば真逆の姿で人前に立つというのは、やはりこいつらでも緊張するのだろう。
発表が終わったクラスは、ステージの下手側の控室へと出ていき、出番の三つ前からフロアの上手側で準備、待機をする段取りになっている。ステージの幕が降り、次に発表をするクラスが、慌ただしく控室へ移動と道具の搬入を始めた。
十三組も、発表の時が迫ってきたため、待機の最後尾に移動した。着替えも小道具も何も無い、我が身一つで乗り込めば良いから、ある意味うちのクラスは楽なものだ。
しかし、奴らの表情はというと、どれもこれもぎこちないものばかり。困った奴らである。
また一組、また一組と、前のクラスが控室へと消えていく。いよいよ控室はもう目の前だ。
今更、前のクラスの発表など、ほとんどの者が見ていない。拍手が起き、緞帳が降りていった。
間も無くして控室のドアが開き、実行委員の生徒が、十三組は控室に入る様にと促してきた。
ふと思い立ち、急いでおれは十三組の先頭にまで周り、控室の出入り口のドアの前に躍り出て、振り返って右の掌を挙げた。
「さぁ!ビッと気合い入れてやってきな!」
先頭の奴に右手を出す様に顎で促し、パチンと、ハイタッチをして控室へと送り込んだ。おれが着いて行けるのはここまでだから、全員の顔を見てハイタッチで見送ることにした。
二人、三人、四人……。良い流れの所で現れた桃果は、拳骨でおれの手を殴りつけてきたものだから、左手ですぐさま奴の頭を叩き返しておいた。
それを見た後続の奴らも、桃果を倣って拳骨を叩き込んでくるので、おれも負けじとやって来る頭を次々に叩き返して回った。
百合はおれが叩こうとした左手をサッと屈んで避けたので、「甘ぇ!」と言って右手で額をパチンとやっておいた。
ソプラノ組、アルト組の全員の頭を叩き終え、続くは指揮者の環菜。環菜はニヤニヤしながら近づいてくると、野球の投手さながら、大きく右手を振りかぶった。
一瞬おれは手を避けそうになったが、ぐっと力を込めて、おれの手を目がけて鋭く打ち抜いてくる環菜の手を迎え撃った。
バチーンと少し鈍い音が響く。
手がジンジンと痛痒い。「痛ぇなこの野郎!」と、皆と同じ様に環菜の頭を叩き返すと、「へへへ〜」と笑いながら軽い足取りで控室へと入って行った。
環菜の背中を見送り、振り返ると残るは一人。今日一番の大役である、伴奏の杏子。
差し出されたおれの掌を音が鳴らない程パシンと静かに叩き、前を見つめたまま小さく一言。
「行ってこうわい」
背中を押す様に、おれは杏子の後頭部をポンと叩いて返事をした。
全員を見送ったおれは再び、誰もいない十三組の観覧席に戻り、ステージの幕が開くのを待った。
司会の紹介の後、緞帳が緩やかに上がる。
最初に見えたのは、真っ黒の髪の環菜。眉毛は……間に合わなかったのだろう。小綺麗に書いてある。締まりのない顔と言っては聞こえが悪いが、普段通り口角の上がった表情でステージ中央の指揮台の前に。
続いて下手に設置されたピアノの前に立つのは杏子。黒い髪でお下げにしているとやはり違和感がある。しかしこいつもいつも通り太々しい、良く言えば堂々とした面持ちである。
順に、ステージやや後方のひな壇に立つ各パートのメンバーも、一段目、二段目、三段目と、その姿を見せた。
幕が上がるにつれ、会場のざわつきは大きくなっていく。
ステージ上で、いかにもしとやかな女子生徒といった身なりで立つのは、あの十三組の生徒達だ。無理はない。「あの金髪はどこに行った?」「あいつの……すっぴん?初めて見た」と、観客席の生徒達の会話は、はっきり聞き取れなくとも容易に想像がつく。まるで晒し者にでもされているかの様。
ステージに立つあいつらにとっては、会場が静まるまでの時間が、気が遠くなる程長く感じた奴もいるのではないだろうか。
それでも奴らは、会場が収まるまで、ピタリと直立不動のままその時を静かに待っていた。
観客席の者達にとっては、その無言の圧力を掛け続ける様な姿がまたかえって不気味で、一人、二人と口を閉じていき、ゆっくりゆっくりと波が引いていく様に静けさを取り戻していった。
会場が無音に包まれてから一呼吸置いて、指揮台の前に立つ環菜が、スッと足を開き両手をお腹に添えた。示し合わせた通り、全員がその動きに倣う。奴らが足を開く音だけが、会場中に小さく響いた。
その音から今度は三呼吸程置いて、環菜が大きく息を吸う。「群青」と、環菜のタイトルコール。そこから一拍置き、全員で歌詞の朗読が始まった。
懸命に語り掛ける奴らの姿に、今度はフロアの誰も口を開こうとはしなかった。
「ああ、この子達もふざけているのではなく、自分達と同じ様に真剣にステージに臨んでいるのかもしれない」と、少しだけ観客席の皆が奴らに歩み寄ってくれた様な気がした。
朗読が終わり、環菜が気をつけの姿勢を取ると、また全員がそれに倣って気をつけ。
環菜は深々と礼をした後、ふわりとスカートを踊らせながら体を返し、指揮台に上がった。杏子の方へと顔をやり、受けた杏子は静かにピアノ椅子に座る。それを見届けた環菜は、そのままゆっくり左から右へと全員の顔を見渡していった。
皆、まだほんのりぎこちなかった表情が、少しだけ緩んだ様に見えた。観客席からは見えないが、環菜の顔はさっきまで通りの朗らかな面持ちなのであろう。
肩を上げ、ふぅと大きく息を吐いてから、環菜が両手を掲げると共に、ザッと全員が構える。そこから滑り出す様に拍子を取り始めた環菜の右手に、会場中の視線が釘付けになった。
ゆったりと大きく振り上げた四拍目、環菜のその手に釣られる様に、観客席に座っていたおれも、思わず一緒に体が少し反り上がった。
十分に惹きつけられた観客を、まるで暖かく包み込む様に流れだした杏子の伴奏。
さっきまでは、ごくりと唾を飲むことさえ躊躇われるよう様な緊張感があったが、その少し力の入った肩を、優しく撫で下ろす様な心地の良い前奏である。
囁く様で、しかし、力強い歌声。奴らが歌い始めた所で、おれは身震いがした。狭い音楽室で毎日聴いていたそれとは違う。
環菜が作るリズムと、杏子の指が奏でる音に、桃果や百合をはじめとする両パートが乗せるその囁きは、ステージから観客席、或いはもっとその先へと届きそうで。
遠い空まで響く様なその歌声は、まるで本当に離れた仲間を想うような――
と、これはおれが奴らを贔屓目に見た感想なのだろうが、そうだとしても、とても良いものであった。
発表が終わり、環菜が手を下ろすと、ステージ上の奴らの肩からはやや力が抜けた様に感じた。
杏子は立ち上がり、また元のピアノの前に立った。ヒラリと観客席へ体を戻し、指揮台から降りた環菜は、つむじが見えそうなくらい深く深く礼をし、ゆっくり上げられたその顔は、より一層朗らかであった。
奴らの姿に見惚れていたおれは、ふと我に返った。
発表が終わったのに、会場は静寂に包まれたままの、何やら少し、異様な空気に感じられる。おれと時を同じくして、壇上の十三組の奴らもその空気に気付き、怪訝な顔つきでお互いを見合わせている。さすがの環菜も、少しばかり困惑している様子だ。
パチ……パチ……と、会場の誰かがゆっくり拍手を始めた。
その音で目を覚ました者が一人拍手を始め、それがまた一人と増えたかと思うと、瞬く間にその波はドッと会場中に広がり、割れる様な拍手が起こった。
惜しみなく注がれる賛辞の拍手。その渦の中にいるおれも、舞台上に立つ奴らも、まだ少し戸惑っていた。
ゆっくりと緞帳が降りていく中、奴らへの賞賛はいつまでも鳴り止むことがなかった。
緞帳が降りきったらすぐにおれは席を立ち、拍手を掻き分けながら下手側の控室の出口、奴らが出てくるドアの前へと向かった。舞台から降りてくるあいつらに、おれが一番に出迎えて声を掛けてやろうと思った。
ドアが開き、ちょうど先頭が出てきた。杏子だ。
なぜおれがここに立っているのかと、少し驚いた様子だった。おれが左の掌を向けると、ゆっくりこちらへ歩いて来た杏子はさっきより強めにおれの手を叩いていった。
杏子の口元は少しだけ緩んでいた様に見えた。
その後ろに続くソプラノ、アルト組。
「お前ら、良かったよ」
本当は腹から目一杯声を出して言ってやりたかったけど、照明の落とされた薄暗い会場では、また次の出番のクラスが準備に取り掛かっている。少し控えめな声のボリュームではあったが、心の中では手放しで喜んでいるおれがいた。
「ギャップ萌え作戦大成功やね!」とハイタッチしてきた百合には、額にまた一発お見舞いしておいた。
最後に出てきた環菜は、元々緩んだ顔ではあるのだが、完全に緊張の糸が切れて、さらにへたれた顔になっていた。
「あ〜、緊張した〜」
あの堂々とした普段通りの振る舞いで皆を導いた。今日の一番の立役者はお前だよ、環菜。おれは環菜の頭をポンと叩き、席へと見送った。
文化祭を終え、ホームルームへと戻ったこいつらは、自分達の発表の話で持ちきりだった。
頭の中が真っ白で気付いたら終わっていた。
楽しかったからもう一回歌いたい。
拍手が遅れてくる感じが凄かった。
最初幕が上がった時ざわついた時はどうなるかと思った。
黒染めまでしてステージに立った甲斐があった――。
感想はそれぞれだが、でも、全員のその顔からは一つの達成感が見られた。
それは、費やした時間の長さや苦労、そこに込められた想いに比例するのだろう。
今日、たった一瞬の感動を皆に与えるために、二ヶ月かけて練習してきたのだから。こいつらにしては、本当によくやったと思う。
担任は、発表が終わった後の拍手の中、涙が止まらなかったらしく、教室に帰って来てからも再び少し目が潤んでいた。こいつらときたら、どれだけこの先生に苦労をかけているのやら。
何はともあれ、百合ではないが、十三組のギャップ萌え作戦は大成功でその幕を閉じた。
教員採用試験の合格通知が届いたのは、文化祭から一週間程経った頃だった。校庭の木はすっかり葉が枯れ落ち、四国にも寒い冬が、静かにその足音を立てて近づいていた。
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