第5話 他に座る
二日後。十三組の授業が始まる前、おれは誰よりも早く校庭に向かった。
この日の十三組の授業は四限だ。三限の終業のチャイムが鳴るのとほぼ同時に校庭に出たものだから、当然まだ誰も来てはいない。
今頃あいつらは性懲りも無く、のんべんだらりんとくっちゃべしながら支度をしているのだろう。
でも、今日勝手に早く出向いたのはおれだから、今日のところは文句など言うまい、などと考えながら、おれは地べたに膝を着き正座をした。
三日三晩にはやや足りないが、しばらく考えた末におれが出した答えがこれであった。
『正しく座る』で正座とは、昔の日本人は良い名前を付けたものだ。正座などするのはいつ振りだろうか。
教職課程の授業で武道を履修したが、おれの人生で正座などする機会は、後にも先にも全く無かったと言っても過言ではなかろう。
当時は何とも思わなかったが、これはこれでなかなか。脳天から体の真ん中に一本の芯を通された様で、身を整えることで心もキュッと引き締まる様な心持ちがしてきた。
武道の授業を教えに来た師範の様な教授から、「座り方を一つ見れば稽古の習熟度が分かる」などと言われ、そんなことがあってたまるものかと当時は思ったけれども、あながち大きく外れた事は言っていないのかもしれない。
そう考えると、ただ座るという姿勢一つ取っても、なかなか奥深いものだ。
そして、まずは物理的にも、同じ目の高さであいつらにものを言ってやろうという肚だ。
おれの方が年上で立場が上だとか、あいつらの程度が低いとか、そういう意味合いではないが、生徒に目線を合わせるということは教師にとって必要なことなのであろう。
社会人としては新米のヒヨッコも良い所だが、やはりおれも大人ではある。
それにあいつらは女だ。おれがシャチホコ立ちしようがひっくり返ろうが、どう頑張っても、あいつらと同じものの見方はできっこない。
ならせめて、同じ顔を見合わせるにしても、見下ろすのではなく、同じ高さで顔を突き合わせて話そうではないかという肚づもりであった。
おれが奴らと同じくらいの歳の頃、センセイもこうやってああだこうだと、時にこうして自分の心と向き合って、少しずつ自分の理想の教育論を構築していたのだろうか。
校庭の桜はすっかり緑になり、その隙間を抜ける風の音が心地よく耳に入ってくる。
そうこうしていると、後ろから声を掛けられた。
「え?先生なんで正座なんかしとん?」
顔だけ声の方へと振り返ると十三組の生徒達がゾロゾロと集まり始めていた。ついでに時計にも目をやると、もうじきチャイムが鳴ろうかという頃合いだった。
「今日はそういう気分なんだよ。お前らもそっちに座んな」
来た奴から順々に、輪になる様に座らせていった。別に深い意図は無かったが、運動部がよくやっている、指導者を囲った円陣に少し憧れていたので真似てみた。
「なんなん?またウチらに説教でもするん?」
珍しく早くやって来た桃果がしきりに訊いてくる。
おれが思っていた通り、こいつらは先日のことについては、そこまで深く気に留めていなかったのか、或いは、もうその時の感情などとうにどこかへいってしまっているのかもしれない。
『江戸っ子は 五月の鯉の 吹き流し 口先ばかりで はらわたはなし』
とは言うが、おれなんかよりよっぽどこいつらの方が江戸っ子らしい。
案の定、チャイムが鳴り終わっても全員が揃うことはなかったが、皆が輪になって座っているのを見るなり、今日は何やらいつもと雰囲気が違うぞと察したのか、遅れて来た奴らは怪訝な面持ちで輪に加わってきている。
環菜だけは、「皆んなで輪になって何するん〜?」と、ブレる様子が見られない。締まりがない締まりがないと思って見てきたが、こいつに関しては、本当に悪意や他意はないのかもしれない。
全員の顔が揃ったのを見計らってから、おれは話を始めた。
「とりあえずその……あれだよ。こないだは……悪かったな」
小娘相手に頭を下げる事を躊躇った訳ではない。
でも、こう改まってこいつらに謝罪の口上を述べるとなると、何となくおれの中で気恥ずかしさがあったのか、やや緊張もあったのか、膝に置いて握りしめていた手には、じんわりと汗が滲んだ気がした。自分で思うよりも、実はおれは気が小さいのかもしれない。
もう一呼吸置いてから、おれは口を開いた。
「おれは授業を投げ出しちまった。それは、お前達と向き合うことを辞めて逃げ出したことと同じだ。自分の思い通りにいかねぇお前らを棚に上げて、卑怯な真似をやっちまった。お前らには、目の前のことをちゃんとやれって言っておきながら。本当に申し訳ない」
おれは両の掌を着いて頭を下げた。
湿った手に着いた泥を軽く足にはたきながらゆっくり顔を上げると、奴らは皆、きょとんと目を丸くしていた。
「え?そんなこと言うためだけにわざわざ正座までして待っとったん?」
桃果の野郎が抜かしやがった。
「そんなことってなんだよ!おれは誠心誠意、心からお前らに頭を下げてよ、またこれからしっかりと、気持ちを新たにやっていくからよろしく頼むよっていう、仕切り直しみてぇなもんじゃねぇか!」
「ふーん。変なの」
「アタシら別に、先生が思っとる程は気にしてないで」
過ぎたるは及ばざるが如し。桃果にしろ百合にしろ、気風が良いのも度が過ぎるとただの馬鹿にしか思えない。もしかしたらこいつらは、本当にはらわたが無いのかしらん。
「まぁ、何にせよだ。おれも今日までのことをちったぁ反省してんだよ。だからここは一つさ、お前らも協力してくれ。授業なんてもんはおれ一人じゃあ成り立たねぇんだ。お前ら生徒がいて初めて授業になるんだからよ」
おれはもう一度手を着いて、皆の顔を見渡しながら訴えた。
「つまりさ、俺も心を入れ替えるけんアタシらも真面目にやってくれ、ってこと?」
百合は頭が良いのか悪いのか分からない。とりあえず褒める振りをしておけば良いであろう。
「察しが良いな。そういうこった」
「先生が言いよることも分かるんやけどね〜。集団行動ばっかりで面白くないんよね〜」
いつもそう。何なら今も、楽しそうにヘラヘラと締まりのない顔をしているくせに、面白くないと口にするとは何事か、環菜。人間は楽しい時に笑うものなのだ。
「そんなことはよう、させてるおれも分かってんだよ」
「じゃあやらんで良いやん。他のクラスだってもう終わってバドミントンしよるやん」と、すかさず桃果。こいつは人の揚げ足を取ることしか考えていないのか。
「そこが違ぇよ。他のクラスは、その面白くねぇことをちゃんと終わらせたから、今は楽しいことをやってんだよ」
小学生を前にして、ものの道理を言って聞かせてやっている様な気さえしてきた。
「じゃあさ、まずお前らがやる事は、チャイムが鳴り終わるまでに集合しな。今までやってこなかった事を一つずつやっていくことにしようや。そして、面倒なことはおれも一緒にやってくからよ」
結局言っていることは、「チャイムが鳴り終わるまでに来い!」、「さっさと集団行動なんか終わらせろ!」ということなのだが、小学生並みの扱いをしてやらねば納得がいかない様なので。
「休み時間なんか短いんやけん遅れても仕方ないやん」
「ほうよ。前の授業が終わるん遅くて間に合わん時だってあるやんか」
最近の小学生は手強い。のべつ幕なしとはこのこと。
こうも文句が絶えないと、学校のルールにしろ大人の小言にしろ、目に付くもの耳にすること、こいつらはその全てに噛み付かなければ気が済まないのかと思えてくる。
「正当な理由があるならそれを伝えたら良い話だろうが。それにさ、もし遅れてやって来るにしても、遅れてしまった人間らしい態度ってもんがあんだろ?慌てた素振りでやって来て、真面目そうな面持ちで、「へい、どうもすいやせん」って深々と頭を下げてりゃあよ、見てる方も「おう、しょうがねぇな」ってなるんだよ。それが人情ってもんだろ」
「なんなんそれ。意味分からんし」
桃果……。お前のそのキラキラでうねうねの頭は、一体何のためについているのだ。
こうも聞き分けが悪いと、いくら小学生相手とはいえ、だんだん腹が立ってきた。
「そりゃあもちろんルールを守ることは大切だろうけどさ、相手も人間なんだってことだよ!」
「ますます意味分からんのやけど」
厚かましい。逆にここまでくると、小学生が相手なら、拳骨をくれてやっているかもしれない。
「うるせぇ!飾りじゃねぇんだからよう、四の五の言う前に、ちったぁてめぇの頭で考えろ!」
途端、皆が顔を見合わせながらクスクスと笑いだした。
こっちはずっと真剣に話しているというのにどういった了見なのか。多分おれは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思う。
そんなおれに向かって環菜が言い出した。
「先生ってさ〜、なんか先生らしくないやんね〜」
「は?どこがだよ?」
全くもって心外だ。人の道理というものを、こうも丁寧に説いてやろうとしているというのに。そのおれが教師じゃなければ、一体全体何だと言うのか。
「わざわざ正座までして喋り出す先生初めて見たで〜。ってか、いつまで正座しとん〜?」
環菜からすればおれは変わり者ということか。おれから見ても、お前は十分変わっていると思うのだが。
「そりゃちゃんとしてないんはウチらやけどさ、こんなことせんでも、もっとちゃんと怒れば良いやん」
桃果の発言とは思えない。皆、さっきまでより少し気が緩んだのか、各々が勝手な事を言い始めた。
「なんかさ、先生って喋り方も面白いよね。『てやんでい』みたいな感じで」
「なにをう?こっちは最初っからよう、ずぅっと大真面目にやってんだよ!」
「それそれ!そんな感じ!」
「先生やなくて、威勢の良い近所の兄ちゃんって感じよね!」
「てめぇら……。こっちが下手に出てりゃあ調子に乗りやがって」
「へい、どうもすいやせん!」
すっかり拍子抜けだ。こっちがどれだけ思いを巡らせ、気を張って今日に臨んだことか。
もう何だかすっかりおれまで気が抜けてしまい、おれは足を崩して自分の足にとんと頬杖をついた。こいつら相手に、ああだこうだと思慮深くやる方が無駄なのかもしれない。
円を見渡し、緩んだ顔の中に一つ浮いている奴が目に入った。
「杏子。お前は何か言いてぇ事は無ぇのか?」
さっきまでのざわつきが、テレビの電源を切った様にピタリと止み、和らいでいた空気の温度がほんの少しだけ下がった気がした。杏子は輪の一番後ろに座り、今日ここへ来てからは一度も口を開いていなかった。
「……別に」
杏子は一瞬だけこちらを見たが、すぐに他所へと目を逸らした。
「そうかい。まぁ、なんだ。熱苦しいかもしんねぇけどよ、『親の意見と茄子の花は 千に一つも仇はない』って言うだろ?おれはお前らの親じゃあねぇが、良かれと思って言ってんだよ」
今度は返事もしなかった。でも、突っ張った様に見えるが、毎日学校には来るし、こうして授業にも一応毎回顔は出すのだから、そうは捻くれた者でもないのだろう。とりあえず今日の所はこれで良い。
「ってかさー、もう話終わり?早よせな時間もったいないやん」
普段授業に遅れて来て、いつまでもダラダラやってるのはてめぇらじゃねぇか。どの口が言いやがる。その言葉をおれはグッと飲み込んだ。
「そうだな。じゃあ、遅れた分、さっさとやっちまうか」
全員が四列横隊で整列。改めて始業の挨拶をして出席確認を取った。
さあ、ここから集団走。体育委員の右向け右の号令が掛かった後、おれは列の最後尾に付いた。
「え?先生何しよん?」
「おれも一緒にするって言ったろ?だから一緒に走んだよ」
「えー!やめてやそういうん!」
「うるせぇ!列から乱れる奴は片っ端から追い回すかんな!」
おれは出席簿を片手に、奴らの後ろに着いて走った。それでもピリッとしない奴がいるのは予想の範疇だ。
「桃果!てめぇもっと前だろ!しっかり走れ!」
手に持っていた出席簿で、おれは桃果の頭をパシンと小突いた。
「痛っ!皆んなが速いけん着いていけんのよ!ってか先生は着いて来んでええけん!」
「じゃあおれが手ぇ引いてやっから来い」
桃果の手を引っ張ろうとしたら、「キモ!絶対嫌やし!」と言うのでもう一回小突いてやった。
「そんだけ喋れりゃ大丈夫。しゃんしゃん走りな」
「分かったけん!」と口を膨らませながら列に戻るのを見届けた。
そういえばと思い出したので百合の近くまで行き、その頭を一発パシンと。
「え?アタシちゃんと走りよるやんか!」
「てめぇ今日も着替えずに下にワイシャツ着てんだろ?忘れたのはもう良いよ。チャック上げときな」
「はぁ?嫌やっていっつも言いよるやん」
おれは黙ってもう一発。今度はさっきより強めにバシンと。百合は眉間に皺を寄せ、キッと睨み返してきたが、おれはその視線をしっかりキャッチしたまま、無言で百合の隣をピッタリと並走した。
しばらくすると、「あー!もー!分かった分かった!」と観念しファスナーを上げていた。
その後も、次から次へと列からはみ出したり、掛け声を無視してぺちゃくちゃ楽しそうに話したりしている奴の頭を、あっちへ行って叩き向こうへ回って叩きと駆け回った。
モグラ叩きの練習などしても意味が無いというのに。ただのランニングのはずが、おれだけインディアンランニングになってしまったので、グランド三週終えた頃にはややくたびれてしまった。
「先生だけなんかしんどそうやね」、
「情けなー。タバコぎり吸いよるけんやろ」
ケラケラと、何がこんなに楽しいのか。
「あ?てめぇらがしっかり走んねぇからだろこの野郎」
「じゃあ、先生もお疲れみたいやし、今日はこれでオッケーにしよや」
「駄目だ!ちゃんと走るまでやんだよ!」
「「えー!」」
結局その後三回やり直しをした。
これじゃあ埒が開かないし、そもそもどうすれば合格になるのか分からないと喚きだしたので、「五人おれに頭を小突かれたらやり直し」という明確なルールを付け足した。
新ルール導入の元でさっそく取り組んでみると、四人目が小突かれた際に、
「やば!リーチかかったよ!」、
「皆んな!次先生来たら避けなあかんで!」
と楽しげに騒ぎ出したので、手の届く範囲で騒いでいる奴ら二、三人を片っ端から小突いてやった。
校庭を三周合格し終えた後、「ねぇー、毎回こんな感じでやるん?アタシもう頭叩かれすぎて馬鹿になりそうなんやけど」と百合がぼやく。
「当たり前だろ。おれはこの一年間、お前らのこと追い掛け回すかんな」
「キモー!ウチらのストーカーやん!」
「もちろん体操も集団行動もだかんな。さ、とっととやっちまおうぜ」
準備体操は桃果の目の前に立って一緒に取り組み、百合の動きが遅れたら頭を小突き、杏子や環奈と並んで行進をして、次の授業の時には何とか二班とも集団行動を合格することができた。
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