第4話 怒

どうやらおれの見積もりが甘かったようだ。


そのいずれが来ないまま三週間が過ぎた。




どの学年のどのクラスも、集団行動などとうに終わらせ、それぞれの学年の競技に取り組んでいる。それはおれが受け持った他のクラスにおいても然り。


一年生はバドミントン。五月の連休を目の前にして、いつまでもちんたらと集団行動などやっているのは十三組だけであった。




杏子や環菜は相変わらず遅刻常習犯。


「遅れてすみませ〜ん」

「…………」


二人とも、態度の調子も相変わらずである。何なら、定刻にやって来た日などあっただろうかという始末。


桃果や百合は気分屋だから前回は時間通りに集合したが、今日は遅れて来た。


「だってウチ、授業終わってから先生に呼び出されたとったんやけん仕方ないやん」と、言い訳を並べる桃果。


呼び出される様な事をしでかす自分が悪いとは思わないのだろうか。


よくよく理由を聞いてみると、一向に課題を提出しないため、教科担当から呼びつけられて小言を頂いていたらしい。それが次の授業に遅れた理由としてまかり通ると思っているのだから、何ともおめでたい奴だ。


そして百合の服装に目をやると、長袖の体操服を羽織っているのだが、その襟元からワイシャツが見えている。


「アタシだってねぇ、毎回毎回、忘れたくて忘れてくる訳じゃないんよ。分かる?」


 目元の化粧は忘れて来た試しが無いというのに。もうここまでくると、体操服なぞ持って来る気が無いのであろう。


ならばせめて、ジャージのファスナーを首まで締め上げてワイシャツが見えない様に隠せば良いのに。


隠したり嘘をついたりすることを推奨する訳ではないが、それならいくらか申し訳なさが伺えそうなものだ。


でもそれを言うと、「一番上まで締めるのはダサい」らしい。


というより、なぜ長袖の上着は持って来るのに、その下に着る半袖の体操服は持って来ないのだろうか。もうさっぱり分からない。



 そして、まだ体育の授業で集団行動などやっているのはこの十三組だけ。


「お前らいい加減に今日こそ集団行動終わらせろよ」


「もうええやん。よそのクラスは皆んなバドミントンしよるやんか」

「こんなんいつまでやったって一緒やけん。なんでアタシらぎりこんなことせないかんのよ」


桃果と百合。


この二人が手を組んだら本当に面倒だ。一足す一はニのはずだが、こいつらの文句は三にも四にもなる。


「一緒じゃねぇ! お前ら皆んながちゃんとやろうとするまでやるんだよ!」


「そんなん一生終わらんやん」


「つべこべ言うんじゃねぇ! さっさとランニングして体操しやがれ!」


案の定、のんびりダラダラ走る奴。楽しそうにお喋りしながら列から離されていく奴。当然、今日もやり直しだ。今日まで、一回で校庭三周の集団走をクリアできたことはない。


「はい、やり直し」


グダグダの三周を終えて戻ってきた奴らに、おれは静かに指示を下した。


「はぁー?」

「もーなんなん」


再度取り組み始めはしたが、全く改善は見られず、列も何もあったものじゃない。


ボールのいっぱい入った籠をひっくり返した様。一応前には進んでいるのだが、こっちで固まって進む奴らがいれば、向こうへ逸れていく奴もいて、中にはノロノロと失速していく奴もいて……。


「はい。やり直し」


「えー。また?」

「毎回どんだけ走らせたいんよ?」


少しずつ奴らのフラストレーションが溜まっていく。


ここまでくると、もう体育の授業と耳にするだけで面倒だろう。毎度毎度、こうもやたらとただ走らされ、それが終わればあっち向けこっち向けと面白くも無い兵隊ごっこをしなければならないのだから。


だが、その事態を招いているのは、他の誰でもない自分達自身であるというのに、その自覚が無いのだから救いようが無い。奴らからすれば、ただのおれの意地悪くらいのものなのだろう。高校生にもなって、聞いて呆れる。


半周して、丁度校庭の向こう側に行った辺りで列がバラけたのを見て、おれはすぐさま笛を吹き鳴らし、奴らに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、やり直しの呪文を唱えた。


言葉にならない不満を吐き散らしながら、ゾロゾロと歩いて奴らは戻って来た。しかし、苛立っているのはこちらも同じこと。


授業の開始には全員が揃った試しは無い。体操服は持って来ない。御宅を並べるばかりで、こちらの話は一つも聞きやしない。


こんなもの、運動か好きとか嫌いとかという話以前の問題だ。


やろうとすれはできることをしないのは、それはそいつ自身の怠慢。そしてそれがクラス全体に及んでいる。


年端も行かないガキどもに、ここまで舐められて黙っているほどおれは人間ができていない。むしろ、よく今日まで我慢してきたものだ。


直接おれに言った訳ではない。


「ホンマうざいわー」

「マジで意味分からんし」


そんな声が聞こえ、気付いた時にはおれは十三組の出席簿を地面に叩き付けていた。


――バァァァン!


地面へと叩きつけられた出席簿の音が校庭に響き渡った。


「いいぃ加減にしろよてめぇらぁぁ!」


さっきまでのざわつきがピタリと止んで、おれと奴らとの間に一瞬、キンと張り詰めた空気が流れた。


「毎回毎回授業の度によ、いつまでこんなこと続ける気だてめぇらはぁ!」


誰も口を開こうとはせず静寂だけが守られている。


分かるのは、こいつらが今抱いているのは「ああ、怒られてしまった」という反省や、おれから向けられた怒りに対する純粋な恐れ、といった類の感情ではないということだ。


特に杏子、桃果、百合。この三人は真っ直ぐこっちを見ていやがる。上等だ。


「集団行動もいつまで経っても終わりゃあしねぇ!皆んなで並んで走りましょう。皆んなで号令に合わせて動きましょう。そんなこともできねぇのか!」


小娘どもの冷めた目を前にし、おれの血圧がどんどん上がっていくのが自分でも分かった。そこで口を開いたのは桃果だ。


「たかが体育の授業で何をそんなに熱くなっとん? そんなおらばんでもええやんか」


多分桃果のこの一言で、おれの頭の血管が三本は破裂したであろう。


そのおかげで、頭からうまい具合に血が抜けたのだきっと。


さっきまでは、鼻血で顔を洗ってやろうかという勢いだったおれも、いくらか思考が冷静に働き、この揚げ足取りの小娘の足を、逆にこちらが取り上げてやろうという気さえしてきた。


「おいおい。冷てぇ水で面ぁ洗って出直せよ。『たかが体育の授業』だと? じゃあ一体、そのたかだか授業の一つもまともに取り組めねぇてめぇらは何なんだ? てめぇがおれに文句なんか言える立場なのかよ?」


「そもそも授業なんかやってないやん! ウチらずっと走らされて集団行動させられよるだけやんか!」


頭にカチンと来たのか、桃果は少し語気を強めてきた。おれもそのテンションに引っ張られる。


「だから! それすらできねぇ奴らはよう、授業なんか受ける資格がねぇって言ってんだよおれは!」


おれと桃果がヒートアップしてきたところへ、百合も割って入ってきた。


「けど別に全員が全員できてないわけじゃないやろ? できる人は合格にして差つけたら良いやんか。何回も何回もやらされるけん、アタシらだってやる気無くなるんよ」


少なくともおれの体育の授業で、百合のやる気のある姿を見たことが無い。体操服すら持って来ない様な奴だ。ついでだから、こいつの足も掬い上げてやろう。


「何でお前は自分がちゃんとできてる立場で物言ってんだ? それにおれは最初に言ったよな? 全員で合格しないと先には進まねぇってよ! これは集団行動なんだ! てめぇら全員がちゃんとやろうとしなきゃ駄目なんだよ!」


「はぁ? そんなん意味分からんし」


「意味が分かんなくてもやらなきゃいけねぇんだって言ってんだ!」


桃果も百合も、苦虫を噛み潰した様な顔をそっぽへとやった。ここぞとばかりに、おれは追い討ちをかけた。


「学校なんざな、来たくなけりゃあ辞めりゃ良いんだよ! てめぇらの歳で働いてる奴らだって世の中にゃあゴマンといんだ! そんな気概も根性も無ぇ、親の脛かじって学校来てるうちはよう、授業の一つくれぇシャキッと受けろってんだ!」


おれが会心の啖呵を切ったところで、ずっと黙ったままこちらを見ていた杏子が、おもむろに詰め寄って来た。


おれから視線を切ることなく目の前までやって来て、今にも胸ぐらを掴みかかって来そうな目つきとは対照的に、杏子は静かに口を開いた。


「熱苦しいって言わんかったっけ? そやってあんたの考えをいちいち押し付けてこられたらムカつくんよ」


全身の毛が逆立つ様な感覚を覚えた。桃果や百合を言い包めてやろうと一時は冷静を取り戻しかけたが、目の前の杏子の冷めた口調はかえっておれの温度を高めに高めて、すっかり鶏冠に来てしまった。


「あ? てめぇは誰に物言ってんだ?」


「は? あんた以外に誰がおるん?」


怒りのあまりに言葉も出てこない。おれは杏子の顔にジッと目を据えた。


というより、もはや杏子以外の存在はおれの視界から消え失せていた。


お互い睨み合ったまま、何十分にも思えるような時間が過ぎていた。誰一人と口を開かぬまま、いや、開いていたのだとしても、おれの耳には一つも入ってこなかった。


 

しばらく睨み合っているうちに、少しずつおれは冷静になっていったのだろう。杏子の向こうの景色も少しずつ輪郭を取り戻してきて、校庭にそよそよと吹く風がふわりと頬を撫でていることにも意識が回ってきた。


ふと冷静になり、嫌悪の念を送り続けてくる杏子から視線を外して、視線を右から左へとゆっくり全員の顔を見渡した。


客観的にこの状況を省みると、まぁなんとも、おれ自身が滑稽に思えてきた。


授業などまともに受ける気も糞も無い様なこんな野良猫どもを寄せ集めて、やれ真面目にしろだの、やれ言うことをきけだの、夢を持てだの――。


そんな無理難題を押し付けているおれが馬鹿だったのだ。ぬかに釘、暖簾に腕押し、『野良猫の耳に念仏』。


途端、おれの体からは熱が引き、ダラんと力が抜けた様な気がした。


「……もういいよ。てめぇらと話しても無駄だから、勝手にしな」


おれはゆるりと背を向け、奴らと、足元に叩きつけられたままの出席簿をそのままに、校庭を後にした。


去り際に背中越しで、奴らのザワザワとした話し声が聞こえた様な気がしたが、もう別にどうでも良かったから、そのままおれは真っ直ぐ喫煙所へと向かった。校庭を離れたくらいで腕時計に目をやったら、まだ授業の開始から二十分過ぎたあたりであった。




喫煙所のドアを開けると、ちょうどタバコを吸い終わって出ようとする職員と入れ違いになった。


狭い喫煙所の出入り口で、すれ違い様に「お疲れ様です」と声を掛けられたので、おれは軽く会釈だけしておいた。


一人になった喫煙所の奥の椅子に腰掛け、ラッキーストライクの煙を目一杯吸い込んだ。


何が「お疲れ様」なのだろう。


授業すら放っぽり出してきたおれが、疲れていようはずもありはしないのに。いや、あいつらにはもう授業すらしたくないと投げ出すくらいだから、もしかすればおれの心は疲れているのかもしれない。


あんな小娘達に舐められるために、おれは教師になったわけではないのだ。何故おれは、わざわざこんな見知らぬ土地までやって来て、ムカつくガキどもを相手にこんなことをやっているのだろうか。


思いふけりながらおれは椅子に深くもたれかかり、天井に向かって一つ、二つと煙を吐き出した。


煙の向こうに、センセイの顔が浮かんだ。


「なぁ……。センセイの夢の続きって、こんなつまんねぇことなのかよ」


心の声が口から漏れていた。当然、おれの目の前に浮かぶセンセイは、いつも通りの笑顔と、たまに見せる怒った顔とが入れ替わるだけで、今のおれには何も答えてはくれやしない。


そもそもおれは、なぜこうもセンセイのことは慕っているのだろうか。


大人らしい大人は、おれは今でも嫌いだ。親に捨てられたおかげで施設に収容され、多少なり歳上から煮湯を飲まされる生活をする羽目になり、そこで芽生えた愛着障害の様なこの心の歪みは、多分一生消えることはないと思う。


しかし、それでも道を踏み外さず、夢を持って今日までやってこれたのは、センセイという存在があったからだということは間違いない。かと言って、センセイを敬っているのであろうこの気持ちを、自分では分かっているのだが具体的には表すことができない。


ただ何となく、この人の言葉は信じて良いのだと思わせてくれる。


センセイは一体、おれにどんな魔法を掛けたというのだろうか。




タバコが二本、三本と灰になっていく中、そんな思いを巡らせていると、終業のチャイムが鳴った。


チャイムが鳴り終わり、いい加減に職員室へ戻ろうかと思った矢先、息を切らせた担任が喫煙所のドアを開けた。


「あ……」


思わず声が出てしまった。険しい表情の担任を見て、おれは奴らとのやり取り云々よりも、この時になってようやっと、自分が授業を途中で放棄したという事実を理解した。


ついさっきまではそんな思いは心の片隅にもなかったのだが、担任の眉間に寄った皺を見て、自分の行動の愚かさを一挙に突きつけられた気になり、一瞬戸惑ってしまった。


一切用意などしていなかった反省と謝罪の口上を、上っ面でも良いから何かしら並べ立てようと、頭の中の引き出しを漁り回っていた所へ、担任の方から先に口を開いた。


「川嶋先生、本当にすみません」


深々と頭を下げる担任を前にして、またまたおれは少し困惑した。


「うちのクラスの子達が本当に、面倒を掛けてしまって」


なぜこの人がおれに頭を下げているのだろうか。悪いのはあいつらと……、まぁ、百歩譲ったとして、授業を投げ出したおれなのではなかろうか。


「なんで先生が謝ってんですか?」


「担任の、私の指導がきちんと行き届いていないばっかりに、先生に苦労をかけてしまっているから」


別にあんたが悪い訳でも無かろうに。しかし、『教師と言えば親も同然、生徒と言えば子も同然』。ここは学校だから、その全てではないにしろ、子どもの責任は親にもついて回るものなのだろう。


そして本来ならばそれは、教科の担当であり、副担任であるおれについても然り……。


「それを言うなら先生、おれも副担任です。おれの方こそ申し訳ない」と、おれも一つ頭を下げた。


「私からもね、あの子達と少し話はしてきたんです。なので、先生もどこかでお時間作ってお話ししてあげてもらえたら」


よくよく聞くと担任は、つい今しがた、教室に集めた十三組の奴らに、小言を言ってからおれの所へとやって来たとのことであった。


おれが立ち去った後、校庭に放たれたままのあいつらを見て不審がった職員が、この時間たまたま授業が無かった担任にすぐに報告したらしい。


せっかくの空き時間を潰されて、まぁ良い迷惑だったろうに。担任業務というものも、なかなかどうして苦労が絶えないものである。


そう言ってしまうと他人事の様であるが、事の一端はおれにもある訳だ。




担任が去った後、おれは再び喫煙所の椅子に座り込み、どうしたものかともう一本タバコを咥えた。


もう勝手にしろと投げ出したのだから、しばらくうっちゃっておくというのも一つだが、結局は今日の様に、担任や周りの職員にも皺寄せが来ることを考えると、あまり賢いやり方ではなかろう。


かと言って次回、何事も無かったかのように授業に入るのではお互いにケジメのつけようもない。


ただでさえ高校の授業は、毎時間毎時間、入れ替わり立ち替わりで教師がやって来て、五十分間ひたすら講釈を垂れていくのだから。それだけの大人を相手にしていたら、いくら週に三回おれの授業があるとはいえ、あいつらの今日の感情は薄れてしまう。


良くも悪くも今日お互いに衝突しかけた出来事を、ナァナァで終わらせる訳にはいかない。



この際だから、正面からお互いぶつかって、腹を割って話す機会を設けてみよう。


そもそもおれは、あいつらをただの聞かん坊と決めつけ、あいつら自身のことを見ようとはしていなかったのかもしれない。今日みたいに投げやりにやるのではない。どうなっても良いから、とりあえず奴らと話してみよう。


これ以上は考えても無駄だと悟り、おれはタバコを灰皿に押しやり、喫煙所を後にしようと立ち上がったところでチャイムが鳴った。休み時間の終わりを告げる、次の授業の始業の鐘だ。


「やべぇ!」


次の時間も授業が入っていたことを今になって思い出したおれは、疾風の如く廊下を駆け抜け、校庭へと急いだ。

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