1.逆戻り

 灰色のやしろの中で、司は所持している金額をもう一度確かめる。


 札が二枚と、あとは小銭。本来ならば何をするにも少々心もとない額ではあるが、司はこの異界に長く滞在するつもりはないから構わない。これだけあれば電車でアヤがいる駅まで行くこともできるし、どこかで刃物の調達もできる。


(だけど電車へ刃物を持ち込むのはマズイよな。最寄り駅に着いてから買った方がいいか?)


 ふとそんな風に考えて、司は苦笑する。

 確かに現実世界では刃物を公共交通機関に持ち込まない方がいい。だが、司がこれから行く場所は異界だ。いかに現実世界に見えてもあれは猿の隠邪と聡一が作った虚構の世界だというのに、いったい何を気にすることがあるだろうか。


(もしかしたら既に俺の存在は聡一たちにマークされてて、刃物を売ってくれなかったりしてな)


 口元を歪めながら司は巾着の口を締める。

 空の色にも似た綺麗な青のこの巾着はユクミがくれたものだ。先ほど司が「ポケットに入れた小銭って邪魔だよなあ」とボヤいたとき、箪笥からこの巾着を出して来てくれた。

 もらってもいいのかと言うとユクミはこくりとうなずいて「手慰みに作ったものだけど、使ってもらえたら嬉しい」と言う。「助かるよ」と返すと、ユクミはみるみるうちに頬を紅潮させて小さく笑った。


 そのユクミは今、社の格子扉のところで室内に背を向けて何かをしている。ちらりと見えた手元に持っているのは自身の草履だ。先ほどまでは司の靴を持っていたので靴に興味があって見てみたいのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。何やら忙しく手を動かしているユクミの後ろ姿を、司はぼんやりと眺める。


 ユクミはとても不思議なあやかしだと思う。

 “妖”というのは自然の存在――岩や木、長く生きた獣などが力を持って変化したものだ。元のユクミは狐だという話だが、彼女の動きは妙に人間くさい。

 ここへ来たときに血や泥にまみれた服を洗ってくれていたのはもちろんのこと、首に包帯を巻いたり、手慰みに巾着を作っていたことなどもそうだ。


(あとは、俺と一緒に異界で行動したときも……ああ、俺が聡一や知穂ちゃんの話をしてる時もだな)


 どうもユクミは人間のことを分かっている気がしてならない。それも特定の誰かを個として知っているというより、ある程度の集団と付き合いがあったような感じだ。

 だが、司が「人間のことをどれくらい知っているのか」と尋ねても、ユクミは明確な返答をくれなかった。

 考えてみればユクミは自身の過去についてほとんど話さない。


(……いや、過去だけじゃないか)


 司が少し踏み込んだ質問をするとユクミはだいたい言葉を濁す。世界の作り方もその一つだ。もしも世界を作る方法が分かれば異界の攻略も分かるはずだと思ったのだが、やはりユクミは答えをくれない。

 この灰色の世界を作ったのはユクミだという話だったから、世界の作り方を知らないはずはない。それなのに言わないということは、もしかすると司が理解できないと思われたか、あるい司を信用できずに教えられないのかもしれない。


(構築方法から解除方法が推測できるんだとしたら、得体のしれない人間に教えるわけにはいかないよな。俺がこの灰色の世界を消すかもしれないし、『妖たちが移住した、妖だけの世界』を壊そうとするかもしれないし)


 司はそんなことをするつもりが毛頭ないが、しない人間だと信じてもらうにはまだ時間が足らないということだろう。そう自分を納得させながら、しかしほんの少し寂しくも思いつつ、司はユクミのもとへ歩み寄る。


「そろそろ行こうかと思うんだけど、大丈夫か?」

「ん? うん」

「さっきから何をやって……あ……」


 尾を踏まないよう注意しながら小さな頭越しに覗き込むと、細長い何かを持ったユクミは自身の草履についた泥を落としているところだった。司の靴は既に泥が落ちている。先ほどまで靴を持って何かしていた理由はこれのようだ。


「綺麗にしてくれたのか」


 ユクミの横にある茶色くなった布へ目を移しながら言うと、視界の端で小さな頭がこくんと動く。確かに汚れは放置しているより、落とした方がずっといい。司はそこまで気が回らなかった。


「ありがとう」

「……ううん」


 言葉は必要最低限だったが声は弾んでいる。どうやら嬉しかったらしい。合わせて小さく微笑った司は、知らないうちに入っていた肩の力がわずかに抜けるのを感じた。

 緊張は必要だ。しかし、あまり気負っていては良くない。きっと、このくらいがちょうどいい。



***



 社を出た司は再び鳥居を目指して歩く。今度の行先はユクミが会った『アヤ』という人物のところだ。


 他の誰とも気配が違うらしいアヤが何者なのか司には見当もつかない。もしかすると聡一側の人間だという可能性も考えたが、それでも会いに行こうと決めたのは少しでも情報を集めたいという気持ちのほか、実を言えば「ユクミの顔を立てた」というのがなくもない。理由は分からないが、ユクミがアヤのところへ行きたがっていたように感じられたからだ。


 司の過去の話に時間がかかったこともあって鳥居を潜った先で真っ先に見たのは東の空から昇る陽だ。続いて冷えた風が二人を出迎える。昨日と似た光景なのでどうやら今日も同じくらいの時間に異界へ到着したようだが、正確に時間を計れるものを持っているわけではないので、実際のところ何時についたのかは不明だった。


「やっぱり時間が分からないのは不便だな」


 呟いた司はもう一度スマートフォンの電源が入らないかどうかを試そうとした。昨日が駄目だったのだから今日も駄目だろうが、もしかしたらという可能性もある。

 ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、続いてズボンのポケットに手を入れ、司は「あれ」と声を上げた。

 昨日の朝に友介が渡してくれたモバイルバッテリーがない。どこか違う場所に入れたのだろうかとあちこち探り、司はもう一つ気が付いた。


「金も、マスクもない……」


 ユクミがくれた巾着はある。しかし中身は空っぽだ。

 他にも昨日、コンビニエンスストアで買った五枚入りマスクの残りがどこにもない。ユクミの社を出るとき、確かにジャケットにあることを確認したのに。


 もしかしたら鳥居の向こうに落としてきたのだろうか。ならば取りに行かなくてはいけない。湧きだしてきた嫌な予感を払うようにして勢いよく踵を返す司だったが、その先へ足を踏み出せなかったのは懐を探って呆然とするユクミを目にしたためだ。彼女はわずかに顔を青ざめさせている。


「……飴がない」

「飴? ……もしかして友介がくれたあれか?」


 司を見上げてユクミがうなずく。

 ユクミが箪笥に飴とラムネ、チョコレート菓子をしまったのを司は覚えている。そして朝になって、飴だけをまた懐に入れていたのも。

 どうやら昨日得たたものを失ったのは、司だけではないようだ。

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