1.どうか、誰かを
部屋の隅に置いてある鏡台の上で、丸い鏡が淡い輝きを放つ。
これは日に一度、妖力と引き換えに『ここではない景色』を映し出す鏡。
時が存在しないこの灰色の世界で、たった一つ時を感じさせてくれる物だった。
鏡台の前に座り、ユクミは鏡を覗き込む。映るものはいつもと同じ、白の髪と黄金の瞳を持つ幼い容姿の娘――自分自身だ。しかしユクミが妖力を籠めた息をふうっと吹きかけると、鏡面はゆらゆらと揺れ、次の瞬間には色鮮やかな景色を映し出す。
今日の鏡は町中の様子を見せてくれるらしい。青い空を背景にして、灰色の建物がたくさん
その中の一人にユクミの目は吸い寄せられた。両親らしき人物と左右の手を繋いで歩く女の子だ。この場で一番の笑顔を見せる彼女には、一体どんな嬉しいことがあったのだろうか。鏡は音を届けてくれないが、彼女の笑い声を聞いたような気持ちになって、ユクミは思わず顔を近づける。
途端に辺りは暗くなった。ユクミは明るく笑う女の子ではなく、鏡により近づいた自分を見る。
「あ……」
今日の“特別な時間”は終わりのようだ。鏡の中で、頭頂部にある白い狐耳が力なく下がった。ため息をついて立ち上がり、ユクミは室内と外とを隔てる格子扉の前へ移動する。
安心するべきか、残念に思うべきか。ユクミが外を垣間見ている間もこの世界では何も起きなかったようで、格子の向こうに見える景色はいつもと同じだった。
広い草原と、草原を一直線に貫く小道。
小道の奥にある、直線で出来た簡素な木の鳥居。
それらを灰色に染める、曇天の下で降る小糠雨。
ただ、それだけ。
何百年も変わらない世界には、今日も訪れる者がない。
「まだ、か……」
呟いて格子から離れ、ユクミは木の床の上で膝を抱えた。身動きひとつしなくなると、この灰色の世界に響くのは微かな雨音だけになる。もう慣れたとはいえ、時には寂しくなることもあった。
もう何百年も昔、ユクミが両親と一緒に住んでいたのは山の中の小屋だ。そこではいろいろな音が聞こえていた。
鳥の声、獣の声、木々のざわめき、草の揺れる音。――両親の笑い声。
色も鮮やかだった。山は薄紅、緑、茶など、季節ごとにくるくると色を変え、小屋の前の野原でも季節に応じて白や桃、黄といった色とりどりの花が咲き乱れた。
中でもユクミの目に焼き付いて離れない色は、赤だ。
あれは、山の木々が燃えるような色に葉を染める季節。
小屋へ戻った母とユクミを父が出迎えた。母と父は奥へ行ったが、ユクミは散策の途中で拾った綺麗な葉を土間で洗っていた。
そのときだ。尋常ならざる悲鳴が聞こえた。ユクミが慌てて奥へ行くと、部屋の中はまるで外の色を写し取ったかのように赤く変わっていた。その原因となったものは。
「母さん……」
小さく呼んで、ユクミは膝の中に頭を落とす。
あのときユクミは逃げてしまった。母が助からなかったのはユクミのせいだ。
だからユクミはこの灰色の世界で何百年も待ち続けている。今度こそ誰かの助けになりたいという一心で。
ここにはいずれ、助けを求めて『約束の者』が来るのだという。
「……どんな人なんだろうな」
男だろうか、女だろうか。若いのだろうか、年寄だろうか。そして、どんな助けが必要になるのだろうか。空想の中でユクミは、様々な『約束の者』といろいろな遣り取りを
『約束の者』はあの鳥居の前に現れるのだと聞いていたから、まずは誰かが鳥居の前に出現するのだ。それはきっと、突然のことで――。
「ん?」
確かにそれは突然だった。
先ほどまで何もなかったはずの鳥居の前に、動くものがある。
四回瞬きをして、ユクミは弾かれたように立ち上がった。格子扉に駆け寄り、隙間から必死に外を見る。想像が過ぎて現実との境が曖昧になってしまったのかと思ったが、灰色の景色の中には確かに新たな色彩が生まれていた。
「本当に来た!」
思わず格子を握って揺らすが、扉は開かない。当然だ。まだユクミは解放されていない。その昔に聞いた手順は行われていない。
しばらく食い入るように見つめていたユクミだったが、大事なことを思い出して慌てて部屋の奥へ走る。一番左の箪笥の一番上の引き出しを開け、震える手で着物を取り出した。白い地に花が描かれた綺麗なこの着物は、『約束の者』に会うとき袖を通そうと決めていたものだ。
急いで着替えを終え、格子扉を振り返る。もう目の前に来ていたらどうしようかと思ったが、訪問者の位置はあまり変わっていなかった。妙だとは思ったが、もしかするとこの道はとても長いのかもしれないと考えなおす。
余裕ができたので着ていた市松模様の着物を畳んで箪笥の一番下に仕舞い、櫛で髪を
これで、出迎えの準備は万端だ。
期待と不安を胸に、ユクミは『約束の者』が到着するのを待つ。
きっと『約束の者』はまず挨拶を述べ、次にユクミを解放するための言葉を唱えるだろう。格子扉が開き、ユクミと対面したら、今度は頼みごとを言うはずだ。『約束の者』の頼みがどんなものであろうとユクミは絶対にうなずく。そう決めている。ユクミが了承の言葉を返したら、喜ぶ『約束の者』と二人でこの世界を後にする。
想像とは多少の違う部分はあるかもしれないが、概ねこの流れで間違いはないはずだ。この数百年間、それこそ数限りなく『約束の者』と出会う場面を想像してきたユクミにはうまくやれる自信があった。
“あの老人”が用意してくれた着物や遊び道具といった品々を置いてゆくのは少しだけ残念だったが、本当に本当に、ほんの少しでしかない。何しろユクミは『約束の者』のために今までずっと待っていたのだ。
(だから、早く。ここまで来い)
しかし『約束の者』はなかなか来ない。そわそわしているうち、気が付くと格子扉は目の前にあった。どうやらあまりの遅さに焦れてしまい、少しずつ膝でにじり寄ってしまったようだ。最初から想像とは違う展開になってしまってユクミは少し落胆するが、まだ巻き返せる。何しろ『約束の者』はまだ道の途中にいるのだ。
とりあえず格子扉まで来たので、ユクミはそのまま目を凝らしてみる。訪問者は体つきからすると男性のようだ。髪も、着ているものも、履いているものも黒のため、まるで黒の化身のように思える。
ただ、足元が定まっていない。来るのが妙に遅いのは、前後左右に揺れながら進んでいるせいだった。もしかすると酒に酔ってるのかもしれない。
ううん、とユクミは小さく呻きを漏らす。
今までの想像の中には酔いどれとの出会いもあった。ユクミは酒の匂いがあまり得意ではないが、『約束の者』が望むのならすぐ横で飲まれても我慢するつもりでいる。ただし今後はほどほどの飲酒量にしてもらうつもりだ。
そんなことを考えながら持てるすべての感覚を来訪者へ向けていると、ようやくユクミの耳に「ぱしゃり」という小さな音が届いた。ぱしゃり、が近づくにつれ、ユクミの鼓動がどくどくと音を立てる。
ぱしゃり、と、どくどく、が共に響き合う頃、男がユクミのいる
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