2.過去から届いた
立ち尽くす男の様子をユクミがつぶさに見つめていると、低い小さな声が聞こえた。
「そこにいるのか。『約束の者』?」
ユクミは全身を震わせた。
寒いのではない。怖いのでもない。自分以外の声を聞けたことが、ただただ嬉しかった。ユクミが過ごしてきた何百年の間で、これほどまでの心持ちは想像ができなかった。
「違う」
返す声が上ずってしまったので、落ち着かせるために一度大きく呼吸する。
「『約束の者』は私ではない。『約束の者』とは、ここへ来た者のことだ」
「違うのか……ではあなたは、願いを叶えてくれないのか」
「願い?」
「『約束の者』がいないんじゃ、願いは叶えてもらえない……」
言葉は落胆の様相だが、声は淡々としたものだった。
ユクミはわずかに眉を寄せる。いまひとつ話がかみ合っていない。
「念のために聞くが、お前はここが何だか知っているのか?」
「知らない」
囁くように言って男は頭を上げた。整った顔立ちをした彼は二十歳くらいだろうか。不自然なほど白い顔の中にあって瞳の黒が印象的だが、その焦点は虚ろだった。
「俺はここに行けば、『約束の者』が願いを叶えてくれると聞いただけだ」
「誰に聞いた?」
「俺の祖母。
「祓邪師か」
ユクミは視線を落とす。
「お前は、私の正体を知っているか?」
「知っている。
「妖……他には?」
「他とはなんだ?」
男が逆に問いかけてきたので、ユクミはどう答えようか悩む。
(だったら言った方が、いいのかな)
わずかに考えてユクミは「不要だ」と判断する。
今のユクミは妖として生きているのだし、何よりこの男はユクミを純粋な妖だと思っているようだ。ならばユクミが「半端者」だと知ったときにはガッカリするかもしれない。
「……そうだな、私は妖だ」
だけど言い切ったときには少し罪悪感が湧いた。
その気持ちを心の底に押しこめてユクミは話を続ける。
「さて、改めて問おう。お前は何者だ?」
「俺は
ゆらりと動いて、司はユクミに背を見せる。そこでは脇の下辺りまで垂れ下がった黒いものが小刻みに動いていた。隠邪だ。
「今は、こいつから生気を与えられて生きてる、傀儡みたいなもんだ」
話している最中にも隠邪は下から崩れてきていた。自身と司の双方に生気を使うせいで存在を保てないのだ。じきに隠邪は消滅し、司も動かなくなるだろう。
「この隠邪は、俺の祖母が術でしもべにした。その時に話を聞いたんだ。異界にいる特別な妖『約束の者』の元までたどり着けば、願いを叶えてもらえると」
なるほど、とユクミは小さく笑う。
「時を経て話が歪んだのかもしれんな。――改めて言おう。『約束の者』とは私を解放した者のことであって、私のことではない」
「では、あなたは何者だ?」
「私はただの待つ者だ。『約束の者』を手助けするために時を重ねてきただけの者。だからもしお前が『約束の者』ならば、私はお前を助けてやる」
「助け手にはなってくれるんだな。だったら、頼む。俺には、しなくてはならないことが――」
再度ユクミの方へ向き直った司だったが、
「かはっ」
喉を絞ったような声を出してうつ伏せに倒れ込んだ。ユクミは咄嗟に立ち上がる。司の首には隠邪の頭部分しか残っていない。
「……強大な隠邪を倒す……四本の手を持った、猿を……そして……」
震える声で言って司は弱々しく土を掻いた。本当ならば拳を握り締めたいのだろうが、もうそんな力が残っていないのだ。
「……祓邪師のくせに、隠邪と手を組み、仲間たちを殺した……聡一……」
司の声に初めて感情が見えた。聡一、と名を呼ぶときだけ憎しみが感じられたのだ。だけどユクミには何故かそれがとても哀しいことのように思えた。
「……あいつ、みんな……頼む……助け……」
「さっきも言ったろう? 私が助けるのは『約束の者』だけだ。お前が本当に『約束の者』なら、この扉を開けるための言葉を知っているな?」
「……ごめ……婆ちゃ……でも、おかげで……ここ……」
「おい、司。聞いているか?」
「……大丈夫だ。……友介……ああ……大丈……」
既に意識が混濁しているのだろう、ぼそぼそと話し続ける司にはユクミの声が届いていないようだ。
(……もう、駄目か……)
ユクミは口を閉じて顔を伏せる。
司はユクミを解放できなかった。解放できないのなら司は『約束の者』ではない。『約束の者』でないのなら、司の望みは何一つとして叶わない。
だが、願いが叶ったと信じたまま逝く方が司も心安らかだろう。
立てた膝を戻してきちんと座り、ユクミは床の木目を見つめる。
ようやくここへ来た人物が『約束の者』でなかったのは残念だ。しかしユクミにはまだ時間がある。今までと同じように待てば、近いうちに本物の『約束の者』がここへ来るかもしれない。
それで良いのだろう、と記憶の中の老爺に呼びかけるが、聞こえるのは小さくなる司の声だけだ。
「……ぁ……だよ……聡さん……」
聡さん、というのが先ほど司が言った「聡一」なのかもしれない。名を呼び慣れた様子からは相手との距離の近さが窺え、その声には先ほどの憎悪に代わって深い悲哀が含まれていた。
きっと司は信頼していた相手に裏切られた。だからあんなにも憎む一方で、こんなにも悲しい。
理解できた途端、ユクミの心は過去へ戻る。
あれは何百年も前。山々が燃えるような色に葉を染める季節だ。
悲鳴を聞いてユクミが駆け込んだ部屋の中は、外の景色を映したかのような赤に染まっていた。
色の元は横たわる獣。複数の尾を持つ大きな狐。
「母さん!」
狐はまだ微かに動いていた気がする。駆け寄ろうとしたユクミの前に立ちはだかったのは父だ。
「次は、お前だ」
頭から血を被った父は刃物を下げていた。その姿があまりに怖くてユクミは母を置いて小屋を飛び出し、石に
「父さん、どうしてこんなことをするの!」
「オレは騙されたんだ。お前の、母親に」
血にまみれた父は何故か周囲に視線を走らせながら叫ぶ。
「だからお前はオレの子どもじゃない!」
振り下ろされた刃から逃げられたのはユクミの力だったのか、それともまだ生きていた母が最後の力を振り絞ってくれたおかげだったのかは分からない。
一人きりになってしまったユクミは山の中で何日も泣いた。自分の力だけで生きていける強さはあのときのユクミにはまだなかった。そしてまた父に縋ろうとして、結果的に失敗したのだ。こうして何百年も生き、強い力を得られたのは、あのとき彷徨っていたユクミに不思議な老爺が手を差し伸べてくれたおかげ。
――だったら、何をしてるの?
昔の自分が胸の奥で問いかけてくる。
――何のための力なの? 今度こそ誰かを助けるためじゃないの?
落としていた視線を上げる。格子扉の向こうにいるのは動かなくなった司。
――でも、まだ、息がある。
倒れた司が倒れた母と被った。
――手が届きさえすればいい。手が届けば、助けられる。
その思いが口を開かせた。
「逝くな!」
格子にとりついたユクミの叫びが
「逝くな! 言え!」
隠邪の頭が崩れ落ちた。残りはわずかな欠片だけ。
「司、司! 私をここから放つための言葉を言え!」
言いながらも不安がよぎる。
司の知る伝承は歪んでいた。では、解放の言葉はどうだろうか。正しく伝わったのだろうか。時が経つうちに失われていないだろうか。
ユクミは扉を開けるための言葉が何なのかを知らない。残念ながら司に教えてやることができない。
「私は扉を開けられない! 私一人ではお前のところへ行けないんだ!」
司は動かない。隠邪は消え去ろうとしている。司の体の下から、じわりと赤いものがにじみ始めた。
「扉が開きさえすれば、私が必ずお前を助けてやる! だから――だから、頼む! 司ああ!」
祈るような気持ちで叫んだそのときだった。
司の口がわずかに動く。
「――――」
社の扉が開いた。
あとは無我夢中だった。足に力を入れ、五歩の距離をユクミは跳ぶ。右手を伸ばして司の体に触れると、光が溢れ、灰色の世界を煌々と照らしだした。
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