6.光明は微か

 隠邪おんじゃに食われて終わる。それは祓邪師はじゃしに相応しい最期な気がすると同時に、今の司にとってはひどく悔しいものでもあった。

 本当はまだ立てるはずだった。首から流れる血が完全に体力を奪ってしまうまではもう少し時間があったはずだ。確かに司の体に呪力は残っていないが、今の司が地に倒れ伏しているのは仲間聡一の裏切りに心折られた部分が大きい。もしも限界まで戦って倒れたのならまだ納得できたのかもしれないのに。


(だけど俺……もう、動けないんだ……)


 近づく隠邪の気配を感じながら司は「早く終わらせてくれ」と願う。

 この悔しさも、自嘲も、絶望も、全て隠邪に食わせて楽になりたい。


 その時だった。


「なんてこと!」


 狼狽した悲鳴が辺りに響いたかと思うと、


隠邪障壁おんじゃしょうへき――とどめ!」


 呪言が使われた。

 獲物の目の前で足止めを余儀なくされた隠邪が怒りの咆哮を上げるが、司の背後から聞こえる声はそれを凌駕した。


「薄汚い隠邪に、司を食わせたりするもんか!」


 声は続いて呪言を唱え、そのたびに隠邪の気配が消えていく。この声はきっと、司の祖母・佐夜子さよこのものだ。


 佐夜子は今回の討伐に遅れての参加だった。会談予定の政府高官が今日の夕方からしか都合がつかなかったためだ。だから今になって佐夜子の声が聞こえるのは変ではないが、佐夜子が感情に任せて叫ぶ姿は想像ができない。いつも飄々とした祖母が取り乱す姿を司は今まで一度も見たことがなかった。


 もしかするとこれは、司が未だ希望を捨てきれないがための幻聴だろうか。

 あるいは本当に佐夜子がいるなら、司を放置して聡一を追って欲しい。血を流し過ぎた司はどうせもう助からないのだから。

 そう言いたいのだが冷えていく体の感覚はもう無く、司はわずかな声すら出せなかった。


「司、司、遅くなってごめんよ! でも、あと少しだけ頑張るんだ!」


 そう言って何かを唱えた佐夜子はくぐもった呻きを漏らす。続いて何かを引きずるような音が司の横まで来て、ばしゃりと重い水音を響かせた。


闇光相剋あんこうそうこくおうじよ――陰陽相生いんようそうせい


 聞いたこともない呪言に続き、司の首に張り付いたものが体の中に何かを流しこんできた。出て行くばかりだった温かいものとは違い、芯から冷えきっているものだ。司の体に残っていた温かさが悲鳴を上げる。異質な冷たさが体の中をかき回す感覚はあまりにも気持ち悪くて、司は数度えづいた。


「もう少し弱くなさい」


 佐夜子が言うと同時に司の中の奇妙な感覚は嘘のように落ち着いた。消えたわけではない。ただ、調和したように思う。そのためだろうか、体が動かせる気がして、司は恐る恐る顔を上げる。

 すぐ横では着物姿の佐夜子が膝をつき、不安そうな面持ちで司を見ていた。


「……どうだい、司」

「平気みたいだ……」


 死を覚悟するほどに血を流したはずなのにどういうことだろうか。

 何があったのかは気になるが今は自分の状態よりも大事なことがある。腕に力を入れた司はわずかに上半身を起こし、眩暈に耐えながら佐夜子を見上げた。


「婆ちゃん、大変なことが起きたんだ。強い隠邪が現れた。みんなあの隠邪にやられた。ものすごい力を持った黒い猿だった。そして……そ、聡さん、が隠邪と、一緒に……」


 初めのうち勢い込んで話していた司の言葉は、途中で少し震えた。


「あいつ……いや、あいつらは、揃って塚のやしろの方へ行ったんだ」

「司」

「友介のおかげで祓邪師たちに連絡はできたと思う。婆ちゃんも見てくれたんだろ?」

「司、先に私が」

「急がないといけないんだ。社で何をするのか分からないけど、ろくな事じゃないはずで」

「――司!」


 佐夜子が司の言葉をぴしゃりと遮る。


「先に私の言うことを聞くんだ」

「なんでだよ。ものすごく強い隠邪が出たんだ。婆ちゃんの話はあとで――」


 言いかけた司は佐夜子と目が合って口を閉ざした。祖母の瞳はいつも以上に強い意志を宿している。

 加えて違和感があった。化粧をしているのだとしても、月に照らされているのだとしても、どうして佐夜子の顔はこんなに白いのだろうか。


 不安が胸をよぎる。おそるおそる視線を下へ向けた司は、祖母の淡藤色の着物が赤く染まっているのを見た。


「婆ちゃん! それ!」


 慌てて起き上がろうとした司は地面に倒れる。腕と足の力の入り方がちぐはぐで上手くいかなかったせいだ。もう一度起きようとしたが半身ずつにしか力が入らない。


(なんでだよ! 怪我したからどっかおかしくなったのか?)


 焦れば焦るほどうまくいかない。じたばたともがく司の横で、佐夜子が静かに話し始める。


「ここへ来る途中で隠邪出現の連絡を見たよ。お前が今言った黒い猿と言うのは、文献に記されるほどの強さを持つ隠邪で間違いはない思う。そんな隠邪を喚ぶ術があるのかどうか、私は知らないけれど……もしもあったのだとしたら、聡一はずっと前から何らかの準備をしていたんだろうね」


 もがく視界の隅で赤い色が淡藤色を侵食していく。気持ちは焦るというのに、司の体はどうしても言うことを聞いてくれない。


「聡一が何をしようとしているのかは分からない。ただ、聡一は、失ってばかりの子だから……」


 佐夜子の呼吸が少しずつ大きくなる。


「不憫な子。……だけど、愚かな子だ。人と隠邪は相容れない存在。隠邪の力で何かを得ようとしても、それは、得たとは言えない結果になるのに……」

「婆ちゃん!」


 どうしても起きられない体に見切りをつけ、司は叫ぶ。


「先に救急車を呼んでくれよ! でないと婆ちゃんが!」

「話し終えたら、連絡するよ」


 祖母の声には有無を言わせぬ迫力があった。気圧けおされて司はうなずく。早く話し終えてくれと願いながら体の隅々の把握を始めることにした。せめて佐夜子の止血くらいはしたい。そのためにも司は起き上がらなくてはならないのだ。


「隠邪を連れた聡一は、塚の上にある社へ行ったんだね。あそこは条件さえ揃うと、特別な場所になるんだよ。……この話は当主にだけ、口承で伝わるんだけど、聡一は社の話を教わる前に、両親を亡くしたから……私が、教えた。あの子は納賀良の当主になったから、教えるべきだった。……だけどそれが、こんな形で……」


 落ち着いて動くうちに司は体の扱い方が分かってきた。目や口などは問題ないが、手足は頭で考えてから動くまでに二秒ほどのズレがあるようだ。理解した司はいつもよりゆっくり身を起こそうとして、背中に奇妙な感覚があることに気が付いた。何か長いものが背中でうごめいている感覚。嫌な予感がして、司はおそるおそる振り返る。


 ――腕の太さほどの黒く長いものが、背中でのたうっていた。


 司の喉から引き攣った悲鳴が漏れる。これは隠邪だ。きっと先ほど現れたうちの一体に違いない。慌てた司は体の操作を誤り、再び地に倒れ伏した。


「この世界から、隠邪を祓うのが、祓邪師の役目。どれほど強かろうと、それが隠邪である限りは、祓邪師が、何とかしなくてはいけない」


 しかし佐夜子が静かに話を続けていることで、司の心はすっと落ち着く。

 佐夜子は周囲の隠邪をすべて消したようだ。なのにわざわざこの一体だけを残したのにはきっと理由がある。黙って見つめる司の考えが伝わったのだろうか、佐夜子の瞳がわずかに泳いだ。迷いのある祖母を見るのだって珍しい。先ほどの叫び声と言い、珍しいことばかりだ。


 そして佐夜子はさらに珍しい話を司に聞かせた。


「……司。お前の首に噛みついている隠邪は、私のしもべだ。私はこの隠邪に、お前を生かすよう命じた」


 隠邪を使役する術など、司は今まで見たことも聞いたこともなかった。

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