5.幻ではなく

 聡一は司に隠邪を倒す術を教えてくれた人物、いわば司の師匠だ。

 祓邪師だった両親を亡くした聡一は七歳で梓津川家へ引き取られた。以降は司の祖母・佐夜子さよこが息子同然に育てたので梓津川家の人間だと言っても過言ではない。


 司も一歳から小夜子と暮らしている。

 当時の聡一は高校生で、司の面倒もよく見てくれたそうだ。

 ある程度大きくなった司が反抗すると、聡一は「あのころオムツを変えてやったお前が、こんな生意気なことを言うようになったんだな」などとしみじみ言ったりもして、司の気を挫いたりもしたものだ。


 今の司にとって聡一は、師匠である以上に父とも兄とも思えるほどの人物になっている。

 先ほど服の切れ端の群れを見たときは聡一も死んだのかと絶望したが、彼は生きていた。


 おそらく聡一は塚の上のやしろにいたのだろう。おかげで地上の隠邪の目から逃れ、無事でいられた。

 友介のスマートフォンから送った緊急連絡を見て塚の下で起きている危機を知った聡一は、即座に各地の祓邪師たちと共に然るべき対応を検討した。何かしらの手を打ち、満を持して隠邪の元へ来たに違いない。


 信頼する聡一とならば必ずこの隠邪を何とか退けられるはずだ。司は嬉しくて泣きそうになる。

 その気持ちが司を油断させた。隠邪の長い腕が迫っていたのに気づかなかったのだ。気が付くと、司の首は隠邪に掴まれていた。


(しまっ……!)


 司は攻撃に使うはずだった呪力を集めて隠邪の手を引き剥がそうとする。

 しかしもともと呪力は集まっていなかったうえ、この隠邪は規格外に強い。隠邪の指は離れるどころかピクリとも動かなかった。

 苦しい息の下で司は視線を動かす。この場には司が信頼する祓邪師がいる。彼がきっと助けてくれるはず。


 しかし聡一は先ほどの場所に立ったままで動く気配がなかった。


 ――どうして。


 助けを求めたいが声は出ない。代わりに司は聡一の方へ片手を伸ばす。その姿が見えていないはずはないのに、やはり聡一は動かない。まるで司を助ける気がないようだ。


 隠邪の指が首に食い込んで呼吸はさらに苦しくなり、痛みも増す。伸ばした片手も戻し、歯を食いしばってもがきながら、司は「もしかするとこれは隠邪が見せている幻かもしれない」と思った。隠邪が司の希望を失わせるため、あえて『何もしない聡一』の幻影を見せているのではないかと。本物の聡一は司を助けようと隠邪を攻撃しているはず。だからこの隠邪の指はもうすぐ首から離れる。


 そう信じて隠邪の指と格闘する司だったが、しかし淡い期待はすぐに打ち砕かれる。


『なぁぁぁ、聡一ぃぃぃ! こいつぅぅ、生意気ぃぃぃ! ほらぁぁぁ、指ぃぃ、落とされたぁぁぁ!』


 猿が聡一の名を呼んだ。

 それに応えて司の良く知る声が諭すように言う。


「司は攻撃術に特化しているから気を付けたほうがいい、と言っておいたはずだよ」

『あああぁぁぁ! こいつぅぅぅ! こいつがぁぁ! 司かぁぁぁぁ!』


 猿が腕を引き戻した。首を掴まれたままなので、司は否応なしに猿と対面することになった。

 猿の大きな顔の大きな眼窩には底知れぬ深淵のような真っ黒い瞳がある。その暗い円をぐりんと動かし、猿は大きな口をパカリと開いた。中から濃密な血の臭いが漂う。その口腔内には多数の布が張り付いていた。赤黒い色をした布。もしかしたら元は単なる黒だったのかもしれない布。


『どうしたぁぁぁ? 生意気なぁぁ、司ぁぁぁぁ。なんだかぁぁ、様子が違うなぁぁぁ?』


 耳障りな声と共に血生臭い息を吐き出し、猿は司の顔を覗き込む。


『もしかしてぇぇ。「総さぁぁん」がぁ、助けてくれないってぇぇ、分かったぁぁぁぁ? さっきまでぇぇ、キラキラした目ぇぇでぇぇ可愛かったぁぁぁのにぃぃぃ』


 猿はさらに顔を近づける。底知れぬ闇のような眼窩に飲み込まれてしまいそうな気すらする。


『ぐちゃぐちゃにしてやりたいくらいかわいかったのに』


 かろうじて言葉が聞き取れるほどの低さで言って、猿はまたギィギィとした声を上げ始めた。


『今はぁぁ泣ぁぁいちゃいそぉぉうだぁもぉぉんなぁぁぁ。司ああぁぁぁ、かぁぁぁわいそぉぉうぅぅ、かわいそぉぉぉうぅぅ』


 猿は司を握る手以外の三本で拍子を取り、可哀想、可哀想、と繰り返し叫んで、合間にゲラゲラと笑った。笑うたびに吐き出される血の臭いが司の心を少しずつ折っていく。

 そして、もう一つ。


(聡さん……)


 猿は聡一の名を知っている。聡一も猿が何者なのか知っているようだ。


(……どうして……)


 人間の敵である隠邪を倒し、封じ続けるのが、祓邪師の役目だ。その祓邪師がなんのために隠邪と交流を持っている。しかもこの隠邪はすでに大勢の祓邪師を食っている。司だって今しも食われそうになっているのに。


(……どうしてだよ……)


 祓邪師たちは皆、同じ使命を持つ仲間だ。聡一が幼くして両親を亡くした時だって、佐夜子を始めとした多くの祓邪師が支援したと聞く。のあのときだって同様だ。祓邪師たちは聡一を案じて出来る限りの手を差し伸べた。


(……どうして、なんだよ……)


 聡一のことをずっと家族だと思っていたのに。

 司の体から力が抜ける。両腕がだらりと垂れた。猿の指がついに首へ食い込み、血が流れだすのを感じる。


『あれぇぇぇ』


 猿がつまらなそうに司の顔を覗き込む。


『おいぃぃ、もうぅぅ、終わりかぁぁぁ?』


 体が揺さぶられる。猿の指がさらに食い込んだが、今の司はその痛みすらもどうでも良かった。


『つまんぇぇぇのぉぉ。だったらぁぁぁ、もうぅぅいいぃぃぃぃ』


 猿は司を放り投げた。

 月明かりの下で自分の血が軌跡を描く様子を見ているうちに地面へ叩きつけられ、転がった司はうつ伏せになって咳き込む。そのたびに首から血があふれ、「死」という言葉が少しずつ近づく。


『最初のぉぉ、必死だった時とかぁぁぁ、聡一がぁぁぁ助けてくれるぅぅ、って信じてたときはぁぁぁ、面白そうだったぁんだけどぉぉなぁぁぁぁ』

「司はいらないのか?」

『いいぃぃ。あいつはぁぁ、俺の指ぃぃぃ、落としたぁぁぁ。腹立つからぁぁ、食ってやらないぃぃぃぃ』

「そうか。だったらこっちへ来てくれ。どうやらお前も一緒にいる必要があるらしくて、私だけではうまくいかないんだ」

『ふぅぅぅん。しょうがねぇぇぇなぁぁぁぁ』


 聡一は隠邪とは淡々と話をしていた。その彼が、


「司」


 と呼ぶ。

 声はいつものように親しげな調子で、それだけを聞いていたらいつもの聡一と何も変わらない気がする。

 司が見るともなしに顔を向けると、聡一は枝を伸ばした木の下にいた。枝葉にさえぎられて月明かりは聡一のところまで届かず、彼がどんな表情をしているのかも分からない。ただ、聡一は司の方へ顔を向けてとてもとても優しい声で、


「さようなら」


 と告げた。

 その言葉が最後だった。聡一は司に背を向け、塚の頂上へ向かう石段を迷いのない足取りで進み始める。その後ろ姿は木々に隠れてすぐ見えなくなった。

 黒い猿はもう少しだけ下にいた。ギィギィとした声で『さよぉぉならぁぁ、さぁぁぁよならぁぁぁ』と囃し立てながら飛び跳ね、唐突に動きを止めたかと思うと虚空に向かって高らかに言い放つ。


『食っちゃってぇぇぇ、いいぜぇぇぇぇ』


 丘の影から十体近くの隠邪が現れて全てが司へ向かってきた。司は、遠ざかる『さよぉぉならぁぁ、さぁぁぁよならぁぁぁ』と言う声を聞きながら顔を伏せる。

 どうせもう助からないのだからあとは黙って死を待てばいい。わざわざ自分が攻撃されるところを見る必要もないだろう。

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