4.この程度
猿の隠邪はギィギィとした耳障りな声を出しながら跳びまわっている。
『まさかぁぁぁ。気づかれるぅぅぅなぁぁんてぇぇぇぇ』
司は隠邪の人語を初めて聞いた。今まで唸り声のようなものを出すような個体はいたが、喋る個体など記憶になかった。
この隠邪で最初に目立つのは四本の手だ。そのうち二本は人と同じくらいの長さで、もう二本は地面についている。
次に、大きな顔。司とさほど変わらないはずの背丈だというのに、体の半分が顔だ。
『しっぱぁぁぁい、しっぱぁぁぁぁぁい、オレのはじめてぇぇぇのぉぉぉ、しっぱぁぁぁぁい!』
一声高く叫んで猿は動きを止めた。そのまま天を仰いだかと思うと、糸が切れたようにがくんと顔を落とし、ゆっくりと顔を上げて司を見る。――おそらく見ているのだと思う。何しろ隠邪はすべてが黒いので、近寄らないと目がどこにあって何に視線を向けているのか分からない。
『オレぇぇぇ、しっぱいぃぃしたぁぁぁ。お前にぃぃぃ、攻撃ぃぃぃ、かわされたぁぁぁぁ。お前ぇぇ、もしかしてぇぇぇ、強いのかぁぁぁ?』
ギィギィとした耳障りな声は問うが、司は答えない。
話したくないからではない。威圧のつもりでもない。司はただひたすらに、怖かったのだ。
祓邪師は隠邪の気配が分かる。司だって五十メートル四方に隠邪がいれば分かるし、友介は術を使って感知の距離と強度をあげていたはずだ。なのになぜ、やられた祓邪師たちも含めて誰もこの猿の存在に気づかなかったのか。
その疑問は猿の隠邪を目の当たりにしてようやく分かった。猿の気配は他の隠邪とは違う。本来ならば隠邪は“世界に一点の違和感”を生み出すのだが、この猿は辺り一面を自分の気配に塗り変えてしまっている。
どうして誰もそれに気づかなかったのか。理由は簡単だ。この隠邪がありえないほど強大すぎるせいで、祓邪師の感覚が狂ってしまった。何しろすぐ横にいた友介が消えたことにすら、司は気づかなかったのだ。
司の足が震える。なんとか立っているが、本当は今にも座り込んでしまいそうだ。奥歯がカチカチと音を立てているのだって寒いわけではない。強すぎる相手を目の前にして、生物としての本能が悲鳴を上げているのだ。
しかし心の奥では、祓邪師としての司がずっと怒り狂っている。
(こいつがみんなを食ったんだな! ……友介も、
その思いが怖気づく自分をねじ伏せた。恐怖による金縛りが解ける。
最初に動いたのは左手だった。先ほど拾った友介のスマートフォンの電源ボタンを指で探り当てて押し、明るくなった液晶に表示されるボタンを操作する。画面は落ちた衝撃でひび割れていたので反応しない可能性もあったが、幸いなことにきちんと動いてくれた。
【緊急連絡完了:強力な隠邪が出現】
祓邪師は今日来た者が全員ではない。友介もそれは知っていた。だからアプリを使って危機を他の祓邪師に伝えようとしていたのだ。司が操作一回で連絡を終えられたのは、先ほどまでの友介が途中まで操作していてくれたおかげだった。
『あぁぁぁ?』
動けるようになった司を見咎めたのか、隠邪が声を上げる。
『何かぁぁ、してるうぅぅ?』
猿が二本の長い手うちの片方を振るう。長い腕がさらに伸び、司に迫ってきた。司が友介のスマートフォンを左へ放つと、猿の手と視線が液晶の明かりを追う。その機を司は逃さなかった。右手で刀印を作り、湧き上がる呪力の全てを籠める。
準備に要した時間は今までで一番短かったというのに、集められた呪力が今までで一番多かったというのは、今まで一度も感じたことのないほど激しい怒りのためだろう。
「隠邪逐滅――
使ったのはごく狭い部分に対しての最強技だ。狙った場所は、目。視界を奪えば勝機があるかもしれないとの考えからだったが、余力を残しておく普段とは違い、今の司は呪力のすべてを籠めている。もしかすると頭を両断してしまえるのではないか。
そう思って放った今までで最高の一撃を、猿はまるで羽虫でも追うかのようにして払いのけた。隠邪の前で光が弾け、霧散する。
「……え」
肩で息をしながら、司は呆然と立ち尽くした。一方の猿は何事もなかったのようにスマートフォンを掴む。司の攻撃を払いのけた手でいじろうとして、なぜかそこで動きを止めた。
『あぁぁれぇぇぇ?』
猿は自身の手を見つめる。くるりと返し、今度は裏をしげしげと眺めた。更にもう一度手を返し、ギィギィとした声で叫ぶ。
『あぁぁぁぁ! 指ぃぃ! 一本、ないぃぃぃ! えぇぇぇ! 今のでぇぇぇ? やられたああぁぁぁ? うがぁぁぁ! 傷つけられたぁぁぁぁ! こんなのぉぉぉ! 初めてだぁぁぁぁぁぁ!』
初めてだ、と言われても司は嬉しくもなんともない。あれは渾身の一撃だった。あわよくば頭を落としてしまえたらとさえ思ったのだ。それなのに指一本を落とすのがせいぜいだったとは。
『指がぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
だが、今の猿は自身の手に気を取られている。あれほど隙だらけなら今度こそ目が狙えるはずだ。そう思って司は呪力をかきあつめる。もう一度攻撃さえすればきっと勝機はある。呼吸を抑えて集中し、自分の内へ深く潜って呪力を集める。――うまくいかない。ほんの残り滓くらいしか集まらない。なぜだ、と焦る頭の片隅で「本当は分かってるよな?」と自分の声がする。
そう、分かっている。司は先ほどの攻撃に全呪力を使った。今の司にはまともに攻撃できるだけの呪力が残っていないのだ。しばらく休まなければ術を撃てない。
(せめてあと一人でもいいから、誰かいてくれれば……)
司が強く願った時だった。
「おや。何が起きたのかと思えば」
柔らかな低い声が聞こえてきて、司は反射的に顔を向ける。
塚の灰色の石段をゆっくりと下りてきた三十代半ばの人物は、司の師匠でもある祓邪師・
「聡さん!」
失ったと思った希望が司の心の中に湧き上がってきた。信頼する聡一とならば間違いなくこの状況を打破できる。司はそう信じた。
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