第2話

 帰宅してすぐにシャワーを浴びた。髪も体も丁寧に洗い、ようやく人混み臭のようなものが消えたような気がする。最後に薔薇の香りの湯船に浸かりホッと息を吐く。

 浴室から出ると、いつものようにバスタオルを広げたアキラくんが待ち構えていた。僕が近づく前に全身をモフモフのタオルで包まれる。それだけでほとんどの水分がなくなるのだから、よほど吸水性に優れたタオルに違いない。


(向こうとは随分違うな)


 小さい頃、僕はヨーロッパと呼ばれる地域に住んでいた。父上の故郷があの辺りだったからで、いまでも両親と兄たちは向こうに住んでいる。

 その頃、僕はシャワーを浴びるのが大の苦手だった。湯船はなく用意されたタオルもゴワゴワで、しかも髪はひどくきしむし肌は荒れるし最悪だった。水の硬度のせいなのか、向こうの水には最後まで慣れることがなかった。


(だから母上の故郷であるこの島国に住むことにしたんだ)


 何よりこの島国には温泉がたくさんある。僕は温泉が何より好きだ。箱根、草津、熱海はもちろんのこと、ひとっ飛びに九州に行って湯布院や黒川、嬉野、それに砂風呂というものにも入ってみたい。


(アキラくんも温泉好きだしな)


 おかげで一緒に旅を楽しむこともできる。僕はそれが何よりも嬉しかった。


「はい、湯冷めしないように羽織って」


 タオルと同じくらいフカフカのバスローブを着せられ、鏡の前に座らされた。背後に立ったアキラくんが、今度はドライヤーで丁寧に髪の毛を乾かし始める。


「おうちゃんの髪、いつも艶々だね」

「ただの黒髪だぞ」

「俺みたいな天パーじゃないしすべすべだし、手入れし甲斐があるよ」


 ドライヤーの風で舞う自分の黒髪を見て、それから鏡に映るアキラくんを見た。

 アキラくんは僕と同じ黒目ながら髪はフワッとした茶色だ。僕としてはアキラくんのような髪のほうが好きなんだが、好みは人それぞれということなのだろう。

 そういえば、アキラくんは僕の目が一番きれいだとよく口にする。同じ黒目なのに全然違うとも言った。それに貧弱で貧相な僕のこの体も好きだと言う。


(アキラくんのような逞しい体のほうがよほどいいのに)


 できれば僕もそういう体になりたい。そう思ってきたのに僕の体は何十年経っても小柄なままだ。栄養が足りていないせいだろうが、口にできる食事が限られているためどうにもならない。かと言って人間の食べる物で大きくなれるわけでもなく、貧相で貧弱なこの体にずっと悩んできた。


(それも今夜噛まれれば変わるはずだ)


 アキラくんが噛めば僕はきっと生まれ変われる。


「はい、終了。我ながら完璧だ」


 鏡に映っている黒髪が眩しいくらいにキラキラ光っていた。


「さぁ、ご飯にしよう」


 鏡の向こう側で微笑むアキラくんの顔に、心臓がトクンと跳ねた。

 食堂へ行くと夕食の用意が整ったところだった。僕の席にはワイングラスが、アキラくんの席には大きなステーキと大好物のトマトサラダが並んでいる。


「今夜はドイツか」


 席に着きながらテーブルに視線を向けると、ワイングラスの横に“ドイツ産”と書かれたメモが置いてあった。


「ドイツって、一番目のお兄さんが住んでるところだよね?」

「あぁ。二十年ほどドイツにいるな。……随分と若い香りがする」


 グラスを満たしている赤色の液体からは新芽のような若い香りがした。これは十代前半……いや、十歳に満たない若さかもしれない。そう感じ眉をひそめたからか、アキラくんまでクンと鼻を鳴らした。そうして「たしかに随分と若い香りがするね」と口にする。


「そのくらいの年齢しか該当する血の持ち主がいないってことかもね」

「なんとも嘆かわしいな」


 揺らしたグラスから広がる香りはあまりに若く、蕾すらついていない若々しい薔薇を連想させた。


(それでも口にできるものが手に入るだけマシということか)


 僕は重度の食物アレルギーだ。長い歴史を持つ我が吸血鬼ヴァンパイア一族でも僕のような体質の者は初めてで、最初は戸惑ってばかりだった。


(口にできる血が“処女”かつ“信者であること”が条件とはな)


 僕はその二つを備えた人間の血しか口にすることができない。これは血を糧に生きる僕にとって大きな足枷だった。


(まったく、どんなアレルギーなんだか)


 いや、遺伝的な観点から見れば処女の血を好むのはおかしくない。ご先祖様の多くは処女の血を好んでいたと聞くし、中には処女の血しか口にしないという偏食家もいたほどだ。しかし“信者であること”という条件には家族の誰もが驚いた。


(一族を目の敵にしている者たちの血だなんて、どんな冗談かと思ったものだ)


 信者とは唯一の神を信じる者たちの総称だ。彼らはいにしえの時代から我らを忌み嫌い、この世から消し去ろうと何度も刃を向けてきた。そんな信者の血でなければ口にできないとは、どんな笑い話だろうか。

 この検査結果に父上は「なんということだ」と天を仰ぎ、母上は「神の思し召しだ」と笑った。一番目の兄は「もう少し調べたほうがいい」と言ったが、二番目の兄が「世界一数の多い信者でよかったじゃないか」と言ったことで、僕の食事内容は決定した。


「昔は潤沢だったと聞くが、これでは処女を探すのが一番手間取りそうだな」

「そのうち赤ん坊くらいしかいなくなったりしてね」

「さすがにそれはないだろう。……ないと願いたい」


 さすがに赤児の血を口にしたいとは思わない。人間から化け物と呼ばれる僕でもそのくらいの良心はある。


「まぁでも、人間の技術が格段に進歩したおかげで世界中からおうちゃんが飲める血を集めることができるんだし、そういった意味では人間様様ってことか」

「献血した人間には研究に貢献してもらうという名目で謝礼金を支払っている。それに人間たちの医療にも役立てていると聞いているぞ?」

「それならウィンウィンの関係ってことか。さすがはおうちゃんのお兄さんたちだ。世界中に研究所を作るって話を聞いたときは驚いたけど、始祖の一族だと考えることが違うね」

「あの人たちは暇を持て余しているんだ。無駄に知識欲もあって使い道に困っていたくらいだから、ちょうどいい」


 口ではそう言いながらも兄たちには感謝していた。


(研究ついでに、好みの人間を見つけては手を出しているという話は言わないほうがいいか)


 そういう意味では本当の目的がどちらにあるのかわかったものじゃない。


「アレルギーは大変だろうけど、お兄さんたちのおかげでおうちゃんはこうして無事に育った。本当によかった」


 アキラくんの言葉にチラッと視線を向ける。


(そんな厄介な体質も今夜で変わるはずだ)


 そう思いながらグラスに口をつけ、ゆっくりと傾けた。慣れ親しんだ味が舌に広がり喉の奥へと滑り落ちる。これがこの体での最後の晩餐予定だが、思いのほか普段と変わらないなと思った。


(いつもどおりアキラくんと過ごしているからだろうな)


 アキラくんは、僕が生まれたときに護衛として付き従うことを命じられた従者だ。これは僕たち一族とアキラくんたち一族との古い盟約に基づいた関係でもある。


(そう、僕とアキラくんはただの主従関係だ)


 しかし僕はアキラくんに恋をした。アキラくんには随分前に僕の気持ちを伝えてあるし、アキラくんも僕のことを好きだと言ってくれている。それなのにいつまで経っても最後の一歩を踏み出そうとしない。

 それが不満でならなかった。僕は主人になりたいのではなくアキラくんの恋人になりたいのだ。だから聖なる夜が来るたびに噛めと命じてきたのに、その願いはいまだに叶っていない。


(アキラくんだってそう願っているはずなのに)


 たしかにアキラくんは僕を護る存在だ。僕のためなら命さえ差し出すと絶対服従を誓っている。永遠とも思える命が尽きるまで僕を護るために生きると約束した。でも、僕はそれだけじゃ物足りないんだ。


(僕はもっと深い繋がりでアキラくんのそばにいたい)


 だからアキラくんに噛まれたい。純血の狼男ウェアウルフであるアキラくんに噛まれ、僕も狼男ウェアウルフになりたいと切望していた。


(今夜こそ絶対に噛ませる。絶対にだ)


 食事が終わり夜の闇が深くなった頃、いつもどおり僕の寝室に入った。いつもと違うのはベッドにアキラくんを座らせていることだ。


「本当にいいの?」

「何をいまさら」

「とても重要なことなんだよ? おうちゃんの人生に関わることでもある。そもそも何が起きるかわからないわけだし」

「僕はとっくの昔に覚悟を決めている」

「……まぁ、おうちゃんがそう言うなら……」


 そう言いながらもアキラくんの黒目は迷うように動いていた。


(まったく、それでも狼男ウェアウルフか)


 もちろん優しいアキラくんは大好きだが、こういうときはビシッと決めてほしい。


「いい加減アキラくんも覚悟を決めろ」


 聖なる夜は狼男ウェアウルフたちの能力が最大限に高まる。身体能力や繁殖力だけでなく、噛んだ相手を狼男ウェアウルフに変える力も高まると言われていた。

 だから僕は今日という日を選んだ。ずっと前から聖なる夜に噛まれることを望んできた。この日なら吸血鬼ヴァンパイアの僕でも狼男ウェアウルフになれると信じているからだ。


「さぁ、僕を噛むんだ」


 僕の命令にアキラくんが少しだけ眉を寄せる。


「おい、今回も噛まないつもりか? 僕がどのくらい待たされたと思うんだ? いくら寿命の長い吸血鬼ヴァンパイアでも、ずっと待たされるのは性に合わないと知っているだろう?」


 父上はまだ早いと口にしたが、そんなことはない。父上だって、まだ十数年しか生きていなかった母上をさっさと攫ったじゃないか。そのとき母上の一族と危うく戦争になりかけたことは有名な話だ。それに比べ五十年以上待っている僕は褒めてほしいくらいだ。


(それに、狼男ウェアウルフになればこの貧弱な体質も変わるはず)


 狼男ウェアウルフは強靱な肉体を持っている。総合力でいえば吸血鬼ヴァンパイアの右に出るものはいないが、肉体の強さだけなら狼男ウェアウルフのほうが圧倒的に上だろう。

 噛まれれば、そんな狼男ウェアウルフの強さが僕の中にも生まれるはずだ。うまくいけば虚弱体質とも呼べるこの体質さえ変えてくれるだろう。そうすれば血に悩まされることもない。アキラくんもそれは理解してくれている。


「アキラくん」


 少し強めに呼ぶと、ようやくアキラくんの黒目がキリッとした。


「たとえ純血の俺が噛んでも、始祖の血を引くおうちゃんが狼男ウェアウルフになるとは限らない。力がぶつかりあって、何か大変なことが起きるかもしれない。それでもいいんだね?」

「始祖の血を引く吸血鬼ヴァンパイアに噛まれた狼男ウェアウルフが変様することはわかっている。であれば、その逆が起きてもおかしくはない。僕はそれにかける」

「まぁ、たしかにそうなんだけど……」


 アキラくんの指が優しく僕の頬に触れた。


「なんだ、他にまだ何かあるのか?」

「そもそもおうちゃんのほうが上位種なんだから、命に関わるような大変なことにはならないと思う」

「じゃあ、問題ないだろう」


 頬に触れている指からは迷っているのを感じる。まったく、一端いっぱし狼男ウェアウルフならドンと構えろというのに、相変わらずアキラくんは僕に関することになると底抜けの心配性だ。


「問題ないなら早く噛め。今年こそアキラくんに噛んでもらうのだと母上にも連絡してある。母上からは『よかったな』と返事をいただいたぞ」

「あー……じゃあ、いいのか」

「いいもなにも、僕自身がいいと言っているんだ」


 だからグダグダ言うな。そもそも何年このやり取りをくり返してきたと思うんだ。


「わかったのなら、さっさと噛め」


 パジャマのボタンを外し、うなじがよく見えるようにグイッと襟を引き下ろした。背中が少し冷えるが、こうでもしなければ噛んでもらえないと思いさらに引っ張り下ろす。


「あー……」


 アキラくんの目がさまよっている。その姿にどうしようもなく腹が立った。


「アキラくん、いい加減にしろ。覚悟を決めてさっさと噛むんだ!」


 ずいっと身を乗り出し、ベッドに座っているアキラくんの膝に両手を載せた。そうしながらこれでもかと首をさらけ出す。


「問題は噛む噛まないじゃなくてね、」

「いいから噛め」


 僕の言葉にアキラくんが小さくため息をつく。


「念のため確認しておくけど、噛んだら本当に後戻りできないからね? それに噛まれるだけじゃ狼男ウェアウルフにはなれない。わかってる?」


 何が言いたいのかわからないが、いまさら知らないとも言えず「早く噛め」とだけ口にした。


「まぁ、お母上が許可をくれたのならいいか」


 何かを囁いたアキラくんが僕のうなじにキスをした。その感触にふるりと震えると、珍しく乱暴な仕草で僕をベッドに組み敷く。驚いて見上げたアキラくんの顔はまさに雄そのもので、僕は「ようやくだ」と微笑んだ。


 こうして僕は聖なる夜に大好きなアキラくんに噛まれた。同時にアキラくんの伴侶になった。


(まさか噛むことが伴侶になる儀式だったとは)


 だからアキラくんはあれほどためらっていたのだろう。


狼男ウェアウルフが噛んで相手を狼男ウェアウルフにするっていうのは伴侶を作るってことなんだよ。おうちゃん、知らなかったでしょ?」


 ほんの少し呆れたような眼差しでそう告げられたのは、ことがすべて終わった後だった。僕のうなじには狼男ウェアウルフの噛み痕があるだけでなく、体中に甘噛みの後が残っている。それも狼男ウェアウルフの愛情表現らしい。


(しかも噛む前後にああいうこともしなくてはいけなかったとは……)


 正直そこまでは考えていなかった。いや、恋人になったあかつきにはいずれする予定だったのだからよかったと思うことにしよう。


(それにしても……すごかった)


 思い出すだけで体が火照ってくる。とくに尻とお腹はジクジクして、何というか……。


「おうちゃん、後悔してない?」


 声をかけられて、慌てて淫らな記憶を打ち消した。若干熱くなった顔のままアキラくんを見ると、相変わらず心配そうな顔で僕を見ている。


(ベッドから起き上がれなくなるとは、さすがの僕も思っていなかったが)


 それでも心配より先にすることがあるだろう。へにょりと眉を下げるアキラくんの腕を引っ張ると、優しい目が驚いたように見開かれた。それにクスッと笑いながら首に両手を回す。


「僕はアキラくんと伴侶になれて嬉しい。死が二人を分かつまで僕のそばにいるんだ」


 まだ誓いの言葉を告げていないだろう? そう視線で訴えると、目を見開いていたアキラくんがニコッと微笑んだ。


「もちろん。それに死が二人を分かつことなんてないよ。俺はおうちゃんが死んだら後を追うし、おうちゃんを置いて先に死んだりはしないからね」

「いい答えだ」


 僕はご褒美だと言うようにアキラくんの唇にキスをした。

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