聖なる夜の片隅で
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
「きゃぁっ!」
長いエスカレーターを少し上ったところで女性が足を踏み外した。その瞬間、体格のいい長身の男が僕の前に素早く躍り出る。そうして「ドーンと来い!」と待ち構えたところで、背中から落ちてきた女性を見事にキャッチした。
「アキラくん、ナイスキャッチ」
パチパチ手を叩いて褒めてやる。すると、つられたように周りにいた人間たちからも拍手がわき起こった。
「大丈夫?」
立たせながらアキラくんが女性に声をかけた。
「はいっ。あの、ありがとうございます……っ」
「大きな荷物を持った人が多いから、気をつけて」
「は、はい……っ」
女性が落ちるきっかけになったのは、空いていた右側を駆け上がった男性の荷物が当たったからだ。女性自身も大きな荷物を持っていたから、バランスを崩して踏ん張ることができなかったのだろう。
そうして落ちてきたところをアキラくんがキャッチした。体が大きくて力も強いアキラくんじゃなかったら受け止めることなんてできなかったに違いない。
「やれやれ。どうして都会はどこもかしこもエスカレーターの片側を空けて乗るんだろうな。そうして空いたところを駆け足で上っていく。だからいまみたいなことが起きるとわかっているだろうに」
「おかしな風習ほどなくならないものだよな」
女性に見送られながら、その女性が落ちてきたエスカレーターに乗る。僕が乗ったすぐ後ろにピタリと体をくっつけるようにアキラくんが乗った。
「この前も危うく落ちかけた女性を抱き留めたよな。そうしてアキラくんに見惚れるところまでがワンセットだ」
「そうだったっけ?」
先ほど助けた女性もアキラくんを見た途端に頬を薔薇色に染めていた。なんなら「お礼にお茶でも」と言わんばかりの雰囲気だった。
「おうちゃん?」
「おうちゃんなんて呼ぶな。僕の名前は
「そう呼んだら怒るくせに」
「この時代にそぐわない名前だから変に目立って嫌なんだ」
「じゃあ、やっぱりおうちゃんだ」
アキラくんの言葉にハァとため息をつきながら、てっぺんに到着したエスカレーターから降りる。そのまま何歩か歩いていると、足早に駅へと向かう女性のキャリーが踏み出したロングブーツの足先にコツンとぶつかった。
「おうちゃん」
すぐにアキラくんの手が伸びてきて僕の右手を掴んだ。そのままギュッと握り締め、隣においでと言うように引き寄せる。
「俺の隣にいれば誰にもぶつからないよ」
「アキラくんくらい大きいと相手が避けてくれるからな」
「そうそう。俺、便利だろう?」
チラッと隣を見上げると、真っ黒で優しい目が僕を見下ろしていた。
(たしかにここまで混み合っているんだし、そうしたほうが無難か)
世の中はクリスマスということで、どこもかしこもいつも以上に賑わっている。普段だったらこんな人混みの中に出かけようなんて思わない。それでも今年は特別だからと、アキラくんと連れ立って大きな街にやって来た。
(アキラくんはそこらへんの人間よりずっと大きいからな)
鏡のように磨かれたショウウインドウに映るアキラくんは、相変わらずいい体つきをしている。そのせいか、誰もがぶつからないように避けていた。これならたしかに隣にいる僕にぶつかる人間もいないだろう。
アキラくんはどんな人混みの中でも頭一つ分飛び出るほどの背丈だ。おかげでこれまで物理的に見失ったこともない。防御壁だけでなくいい目印にもなった。
それに比べて僕はアキラくんの肩ほどしか背丈がない。全体的な作りが小振りだからか、アキラくんと手を繋いでいてもなぜか違和感がなかった。
(恋人に見えるならまだしも、兄弟なんて思われていたら最悪だな)
さすがに親子には見えないだろうが……見えないことを祈る。ショウウインドウを見ながらそんなことを考えた。
「今日のおうちゃんもかわいいよ?」
「……急に何を言い出すんだ」
「じっと見てるから、かわいい自分を確かめてるのかと思って」
「誰がそんな恥ずかしいことをするか」
「俺が選んだコートも帽子も似合ってるし、すごくかわいいと思うんだけどなぁ」
アキラくんの言葉に、もう一度ショウウインドウを見た。
コートはアキラくん一押しの薄桃色で、袖口と裾には真っ白でフワフワなファーがついている。モフモフのマフラーとお揃いの真っ赤な帽子は暖かいし、たしかにどこからどう見てもかわいいとしか言いようがない。
(寒いのにどうして短パンなんだと思ったけど、バランス的にはこれが正解なんだろう)
それにコーデュロイの短パンは以外と暖かかった。ロングブーツと尻が隠れるくらいのコート丈を考えるとベストバランスと言ってもいい。やや女性っぽく見えなくもないが、ずっと僕を見てきたアキラくんの見立てだからか完璧なほどかわいかった。
「まぁ、かわいいとは思う」
歩き出しながらぽつりと感想を述べる。
「おうちゃんは見た目どおりかわいいのが好きだよな」
それは違う。正確にはアキラくんがかわいいと言ってくれるものが好きなんだ。だから服も小物も部屋着もパジャマも、アキラくんが「かわいい」と言って選んだものしか身につけない。
「あ~、やっぱり満席かぁ」
アキラくんの声に、いつの間にか目的地に着いていたことに気がついた。目の前に広がる窓の向こう側の店内は人で溢れ返っている。
ここに来る前、駅直結のビルの出入り口近くにあるコーヒーショップにも行ってみたが、行き交う人の多さに立ち止まるのも諦めた。それなら大通りを渡って駅の向かい側まで行こうかとやって来たこの店も、結局は混み合っている。
「すし詰め状態だな」
「ここ、チェーン店の中でも日本一混んでるって聞いたことがあったけど、本当っぽいね」
なるほど、そう言われると納得できる混雑具合だ。
「別に店内じゃなくてもいいぞ」
歩行者専用の道沿いにある店だからか、周りを見るとテラス席以外でも花壇のへりに座って飲んでいる人間たちが結構いる。日中で太陽が出ているいまなら外で飲んでも寒くはなさそうだ。
「ま、たまにはそういうデートもいいかな。ちょっと待ってて、買って来るから」
アキラくんが店内に入るのを見届けた僕は、テラス席から少し離れた花壇のほうに移動した。
(これが本当のデートならよかったんだがな)
僕とアキラくんは恋人というわけじゃない。だからさっきのが言葉のあやだということはわかっている。それでも「デート」と言われると何だかこそばゆくなった。アキラくんは護衛のために僕から離れられないのだとわかっていても、「デート」と言われるだけで胸がときめいてしまう。
(でも、今年こそはそれを覆してみせる)
その決意を示すため、いつもと違うことをしようと考えた。今日は特別な日なんだと示したくて、こうして普段なら絶対に来ない雑多な人混みにも入った。
(そう決意していたのに、結局この有り様だ)
人混みが得意でない僕は、少し歩き回っただけで人間酔いしてしまった。おかげですぐさま休憩することになってしまった。そのことは残念だったものの、アキラくんの「デート」というひと言で気持ちが上向いていく。
(結局、僕はアキラくん次第で気持ちすら変化するということか)
ため息をつきながらも口元がにやけそうになる。それを誤魔化しながら、少し高さのある花壇のへりに座ってアキラくんを待った。
(アキラくんだって僕のこと好きだと言ってくれたのに、どうして噛んでくれないんだろうな……)
しかし、今夜こそ逃がしはしない。絶対にうなじを噛ませるぞと意気込みながら、目の前を流れていく人間たちをぼんやり見つめる。
「ねぇ、一人?」
不意に声をかけられて気分が急降下した。視線を向けると若い男が二人立っている。おそらく十代後半か二十代に入ったくらいに違いない。まぁまぁの服装にほどほどの背丈、顔は……そこそこか。
「一人なら一緒に遊ばない?」
「ご飯とかお茶とか、それともカラオケにする?」
口調からして、こういうことに手慣れているのだろう。
(その割には性差を見誤っているがな)
それとも人間たちの間で話題のエルなんとか、ということだろうか。
(どちらにしても、この僕に軽々しく声をかけるとは)
特別な日にするためにいつもと違うことをしているせいで気が緩んでいたのかもしれない。そうでなければ、こんな輩に易々と声をかけられたりはしなかったはずだ。
「ここじゃ寒いよね? 暖かいところに行こうよ」
そう言いながら一人が屈み込んだ。おかげで顔がよく見える。
(顔はそこそこより少し下、といったところだな)
人間の中ではほどほどかもしれないが、アキラくんの足元には遠く及ばない。一族の中でも美醜にうるさい僕の目に適う顔立ちとは言えなかった。そのせいでますます気分が悪くなる。
「気安く声をかけるな」
「はぁ?」
「え? なに、きみそういう系?」
そういう系とはどういう系だ。言いたいことがあるなら、きちんと説明できる言葉を使え。
「おまえらごときが声をかけてよい相手ではないということだ」
「な……!」
「おまえ、なに調子に乗っ……」
視線を合わせると、男の声がプツリと止まった。隣で眉を吊り上げた男の動きも止まっている。
「
僕の言葉に二人ともフラフラと離れて行った。
「まったく、無礼者が」
「本当だよ。おうちゃんに気安く声をかけるなんてろくでもないな」
男たちの背中を見送っていた視線を反対側に向けると、両手に紙コップを持ったアキラくんが立っていた。
「お待たせ。声をかけてきたのは、あいつらだけ?」
「うん」
「ま、二人くらいなら許してやるか」
隣に座ったアキラくんから紙コップを一つ受け取る。くんと嗅ぐと甘い香りがした。
「これは?」
「ええと、なんとかホワイトチョコ……なんとか?」
「それじゃ何か全然わからない」
「長くて覚えられなかったんだよ。でも季節限定って書いてあったから、クリスマス用じゃないかな」
ひと口飲むと、たしかにホワイトチョコらしき甘さが口に広がる。
(なかなかよい味わいだ)
こうした人間の食べ物を口にしたところで僕の栄養になることはない。それでも口にするのは、人間が作り出す嗜好品の味わいが好きだからだ。とくに僕はこのチェーン店のコーヒーがお気に入りで、季節限定なるものを密かに楽しみにしていたりする。アキラくんに言わせれば「コーヒーっていうかスイーツじゃない?」ということらしいが、コーヒーを使っているからコーヒーと呼ばれているのだろう。
ちなみに僕はチョコレートも好きだ。たしか、この大きなターミナル駅の地下にもお気に入りの店舗が入っていたはずだから、帰る前に寄ってみるのもいいかもしれない。
「この後、どうする?」
「もう人混みには戻りたくない」
「じゃあ帰ろうか」
アキラくんの言葉にコクリと頷く。
「帰りはずっと手を繋いでおこうね」
「なぜだ?」
「俺とくっついていれば誰にもぶつからないし、無礼な奴に声をかけられることもないでしょ?」
たしかにアキラくんがそばにいれば、そのとおりになるだろう。だからと言って、わざわざ手を繋ぐ必要があるんだろうか。
(……そうか、デートだから)
デートは手を繋ぐものだ。じゃあ、手を繋ぐのは正しい。
「俺、便利だろう?」
優しく笑っている黒目を見て、それから何とかという名前のコーヒーをひと口飲む。気のせいか、先ほどよりもずっと甘く感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます