第9話





「おい、返事がないぞ。どうなってる」


 階段から降りてきた『兄ちゃん』は、我々の姿を見て絶句した。


 大男は私の拘束を解いて、私の尻の下にいた。彼は四つん這いになって私の椅子になったのだ。


「弟に何をした」


 兄ちゃんと呼ばれた男が私を睨みつける。


「さあ。彼は彼の意思で私に従っているんだよ」


「そうだよ、兄ちゃん」


 大男が満面の笑みで彼を見る。こうしてみると、本当に子供のようだ。兄ちゃんは苦々しい顔をして、私を睨んだ。


「何が目的だ」


 私は大きなため息をついた。


「だから、最初から言っているだろう。人間用の食べ物が欲しいんだ」


 兄ちゃんは訝しがるように、眉毛を跳ね上げた。


「本当にそれだけか」


「そうだ」


 兄ちゃんは少し考えるような顔をした後、大男が出てきた部屋へ向かった。そうして、すぐにビニール袋を二つ持ってくると、それを私の足元へ放り投げた。


「ほら、これでいいだろ。弟を元に戻せ」


 袋が地面に落ちた時に、何かが壊れたような嫌な音がしたが、自分が食べるわけではないしと思って、彼の要求通り大男から電子ドラッグをアンインストールした。もちろん、いくつかの命令とバックドアを残して。


 大男は我に返ると、あたりを窺うようにキョロキョロと首を動かした。


「あれ、兄ちゃん。どうしたの」


 先ほどの雰囲気とは違い、今度は子供のようになった。本来の彼はこうなのだろう。彼はゲームのキャラのようなものを演じていただけなのだ。


「あんた、何者だ」


「ただの電子ドラッグ屋さんだよ。もし入り用ならご贔屓に」


 名刺をネットワーク越しに彼に送りつけた。それで、彼が何をされたか合点がいったようだ。


「へっ、お前みたいなジジイも人間の真似か?」


 兄ちゃんは吐き捨てるように言った。私のことを爺呼ばわりするってことは、彼もシステムは子供型アンドロイドなのだろう。


「いくらだい?」


「いらねえよ。さっさと帰れ」


「いやいや、それは良くない」


 相場がどんなものなのか全くわからないが、適当な金額を彼に送金して「また来る」と言った。


「二度と顔見せんな」


 私はまた、スラム街の暗い道を通って街区から出ると、タクシーを捕まえた。タクシーの中で、私は支援AIを呼び出した。先程、大男にクラッキングを仕掛けたのは、私ではなくこの支援AIのスキルである。この支援AIにはミシェルモデルを学習させてある。


「ありがとう、ミシェル」


 支援AIは「どういたしまして」と答えた。


 やれやれ、食べ物一つ探すだけでこんなに骨が折れるとは。人間を世話するのも大変だ。




 急いで家に帰ると、アパートはシンと静まり返っており、マフィアはいなくなっていた。その代わり、壁に銃痕があって隣の部屋の玄関扉が消え失せていた。中を覗く気にはならなかった。手早く自分の家に滑り込む。


 部屋の中も、同様に静まり返っていた。子供を連れ帰ってきたことなど、まるでなかったみたいだった。それならどれだけ良いか。


 どうして私がこんな危険を冒してまで子供の世話をしなければならないのだろう。もしアンドロイドだったら、子供型だとしても自身の力で生きて行ける。あのスラムの店の兄弟だってたくましく生きているのだ。しかし、人間の子供はどうだ。どうして私が世話をしなければならないのだ。


 そんなことを思っていると、寝室から子供が顔を覗かせた。やはり、夢ではなかった。


 子供は私の持っているビニール袋を見ると駆け寄ってきて、中のものを勝手に取り出した。私がまだ何も言わないうちから、目を輝かせてかぶりついた。私は驚いた。彼女が食べているのがなんなのかは知らないが、人間はこういうふうに食事をするのだと、感動じみたものを覚えた。


「君はどうやって今まで生き抜いてきたのだ」


 無意識に頭を撫でていた。子供はポカンとした顔で私を見上げた。何か話しそうだと思ったが、結局彼女は何も話さなかった。再び、夢中になって食べ物を貪った。


 ふと、彼女の服が濡れていることに気づいた。彼女を隠していたクローゼットをみてみると、水たまりができていた。一瞬、どう言うことか理解できなかったが、ネットワークで検索してみると、人間は排泄をする生き物らしいと言うことがわかった。


 アンドロイドは排泄をしない。だから、この部屋にトイレと呼ばれるものはない。彼女は我慢できずに漏らしてしまったと言うことだろう。私は再び彼女を風呂で洗ってやり、新しい服を作ってやった。排泄の問題は最優先で考えねばならない。尿は処理して飲料水に、便は焼却するか有機分解すると言うのはどうだろう。その手のことが得意なアンドロイドを知っているが、用途を尋ねられてうまく誤魔化せる気がしない。自分で作るのが確実なような気がする。


 いつの間にか、彼女への怒りはすっかり消え失せていた。むしろ、もっと、こう、なんというか、別の感情が湧き上がってきた。


 一体、この感情はなんだろうか。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る