第19話 クリスティン、故郷に帰る
窓の外は激しい嵐であった。
雨粒がステンドグラスの窓をびりびりと鳴らし、時折雷鳴が轟く。
……それともこの嵐は激しい絶望の見せる幻影なのであろうか?
病床の王にはもうそれもわからない。
「おォ……ジェローム! ジェローム……余の……息子……」
フィニガン王は虚空に枯れ枝のような手を伸ばす。
そこにある見えない何かを掴み取ろうとするかのように。
「何故だ……! 何故お前が……死なねばならぬのだ……!!」
震える手は虚しく宙を掻き毟るのみであった。
何度も血の混じった咳をしながら王は嘆き続けた。
この日、王は昏睡に入った。
……そして命を落とす日まで二度と目覚める事はなかった。
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呆然とした表情のクリスティンはふらふらと数歩後ずさる。
そこで足が椅子に当たり、そのままストンと腰を落ろした。
そんな彼女の様子にメイヤーが眉を顰める。
「おいおい、大丈夫か? しっかりしろ」
「あ、すいません。……ちょっと、気が抜けてしまって」
メイヤーの言葉にそう答えるクリス。
だが彼女の表情はまだ抜け落ちたままである。
数ヶ月前のあの夜の事は今でも瞳を閉じれば鮮明に思い出せる。
生まれて初めて人を殺めた夜のことを。
それは皇太子を殺めたあの嵐の日の出来事も同じであった。
未だに思い出して夜に寝床の中で震えることもある。
全ては……不問となった。
司祭殺害の件を把握して彼女に追っ手を差し向けていたものは王妃とその一派だけだ。
その王妃が不問とした以上クリスティンの罪を知り断罪しようとする者は1人もいない。
なんとか、そうなってくれればと……クリスティンが半ば叶わぬと知りつつも願って止まなかった事が現実となったのである。
そんな彼女の肩にそっと手を置く者がいる。
見上げるとリューがいつもの無表情で自分を見ていた。
「よかったな」
「……リュー」
笑わない赤い髪の男を見てようやく少しだけ現実味がわいたクリスティン
「はい、ありがとう……ございます」
そう言って笑った彼女の目からポロッと涙の粒が零れ落ちた。
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皇太子は命を落とし、王は昏睡に入った。
国主としての権限は全てヒルダリア王妃が代行する事となった。
彼女はこの大国の最高権力者の座に就いたのである。
玉座に座る氷の王妃の表情はどことなく不満げだ。
その傍らには聖剣を帯びた聖堂騎士リタが控えている。
「ご気分はいかがですか」
「……いいとはいえないわね」
そう言いながら王妃は先ほど手入れを終えたばかりの爪の仕上がり具合を見ている。
「勝った気がしないわ」
「勝負事とはそういうものでございましょう」
王妃からすれば崖っぷちと言える劣勢からの大逆転である。
一夜にして全てはひっくり返った。
権力の場より追い落とされるのは時間の問題であったはずの自分は今この国の支配者となっている。
「ランドルス商会の会長がお会いしたいと」
「会う気はないわ。お帰り願って」
苦しい時に自分を見限った者をヒルダリアは許すことはない。
そもそもが自分に益のある者であろうがない者であろうが時勢で付く側をコロコロと変える者は王妃でなくとも好ましくは思われないであろう。
……だが皮肉にも今回彼女に勝利をもたらしたのは、そういう変節者であった。
皇太子ジェロームの側近でありながら彼の暗殺を持ちかけてきた男、侍従長ヴァイスハウプト・メイヤー。
「メイヤー卿への報酬の支払いは如何いたしましょうか」
「約束の額を払っておいてちょうだい。……いけ好かない男ではあるけど、結果を出したものには相応の見返りは与える……いつも言っている通りよ」
言葉通り、愉快ではなさそうな様子の主人を物言いたげな瞳で見るリタ。
「どうかして?」
「何故……試しの儀にご許可を下さったのですか」
先日、自分が望んだ聖剣を手にした経緯……その時の話を口にするリタ。
「貴女が喜ぶと思ったからよ。……でも何か不満がありそうね」
「上に立つ者が賭けに出るような真似をするべきではございません。私が剣を持ったまま姿を晦ませていたらどうするおつもりだったのですか?」
責めるようなリタの口調に女王はどこか楽しげである。
「だけど貴女はそうはしなかったでしょう?」
「しようかと考えはしました」
明け透けに言うリタ。
別に意外とも思わないのかヒルダリアの口元の微笑は揺るがない。
「……思い止まりはしましたが。私としてもお世話になった王妃様に後ろ足で砂をかけるような真似はしたくありませんので。ですが、誰もが私と同じように考えるわけではありません」
「わたくしだって相手は見ているわ」
肩を竦める王妃。
何を見て彼女はそう思うのだろうか……そうリタは不思議に思う。
自分など最も信用できない、してはいけない類の存在だと思うのだが……。
「それでもです。……間もなくお暇を頂く私の最後の忠言だと思ってください」
小さく嘆息するリタ。
「……貴女はいつまでわたくしの側にいてくれるのかしら?」
「あと少し、王妃様の治世の土台作りはお手伝いさせて頂きます。いきなり消えられては団長様に対しても気まずいでしょうし」
そう、王妃を権謀術数を駆使して支えたこの部下は間もなく彼女の元を去る。
皇太子との権力闘争の勝利と引き換えに聖剣を望んだリタ。
そのどちらの望みも叶った。
契約は既に成立しているのである。
そして、ヒルダリアには漠然とした予感があった。
「再び貴女が私の前に姿を現す時……それはきっと殺し合いになるのでしょうね」
その王妃の言葉をリタは否定しなかった。
「……そうならぬよう、願っております」
ただそれだけを口にして彼女は頭を下げた。
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皇太子ジェロームの死が公になってからの数日間、クリスティンたちは慌しく忙しい日々を過ごしていた。
まず、皇太子の私的な客人扱いであったクリスたちはそれ以上王家の別荘に留まるわけにはいかず、拠点をダナンの都のホテルへと移した。
クリスティンには聖堂騎士団に戻れる道もあったのだが、悩んだ末に彼女はそうしない道を選んだ。
これからの事は一旦郷里に帰って考えることにする。
いくら真相を知る者が周囲にいないとはいえ、パウル司祭を殺めた身で団に留まるのは流石に抵抗がある。
司祭の裏の顔を知らずに彼を慕っていた団員も多いのだ。
メイヤーたちが事の後始末をしている間にクリスティンは数ヶ月ぶりに第6大隊の大聖堂を訪れ挨拶を済ませて私物を引き上げてきた。
今日はあのジェロームが公に命を落としたとされた日以来、久しぶりに4人が揃って顔を合わせる日であった。
ダナンのホテルの一室に全員が集合している。
「さぁて……まずはこれだな。気になっておったろう? がははは、受け取るがいいお前たち!!」
上機嫌で自慢げなメイヤーがテーブルの上に並べているのは革製の四角い旅行カバンである。
同じものが3つ並んでいる。
「……?」
よくわからない顔のクリスがカバンを1つ受け取ると渡された鍵で開錠して中を改める。
「!? ……こっ、これ……!! んんっ、けほっけほっ!」
驚きすぎてむせたクリスティン
カバンの中には帯で括られた紙幣の束が綺麗に並べられている。
額は一目でわかるようなものではないが、途方も無い事はなんとなく想像できた。
「こ、これ……お金ってこんなにあるものなんですね……けほっ」
「おおよそ一人当たり2千万ヴェルヌと言ったところだな」
メイヤーの言葉にクリスの頭の中は真っ白になった。
2千万ヴェルヌという額は大雑把に言って国内でそこそこ裕福に暮らしている家の主人が生涯に稼ぐ金額の5倍くらいである。
「いらないですよ……これ、私は……」
カバンを返そうとしてくるクリスティンをメイヤーがジロリと睨んで眉を吊り上げた。
「何を言っとる。金は山分けという約束だったろうが。私はな……クリスティン、前にも言ったがペテン師の悪党だが殺しはやらんし金の上での約束は必ず守る」
語るメイヤーは偉そうにふんぞり返っている。
「それはお前の正当な取り分だ。……換金を急がなければもう2,3百万は乗せてやれたんだがな」
約束も何もメイヤーが勝手に言っていただけなのだが……。
ともあれ、受け取らないと話が収まりそうにない雰囲気である。
リューとアルゴールの2人はカバンの中を改めてもいないが、付き返そうとはしていない。
「いいんじゃないのか。あって困るものでもあるまい」
「いえ、これだけあると流石に困りますよ」
リューの言葉に本当に困っている様子のクリスティン。
これから実家に帰ると言うのにこの現金は持ち込めない。
何かの拍子で見られたら家がパニックになってしまう。
クリスティンの実家は身分にしては慎ましやかに暮らす地方貴族である。
家に今彼女が手にしているだけの資産はない。
「私も金はまったく必要とはしていないが、ここは受け取るのが美しい振る舞いというものだ。クリスティンよ」
「先生……」
アルゴールは1人優雅にワイングラスを傾けている。
「我らの
「おお、それはいい。めでたい場に相応しい」
グラスを回してワインを注いでいくメイヤー。
リューは相変わらずの無表情で、クリスはいいのかなぁというようなやや困った表情でグラスを受け取る。
「……では諸君! 我らの計画の成功を祝して!!!」
高らかに音頭を取るメイヤー。
シャンデリアの明かりの下で重なり合ったグラスが涼やかな音を立てた。
こうして……。
皇太子の殺害という大事を引き起こしながらも彼らは1人の脱落者も出すことなく裁きを受けることもなしに遂に大金を手にしたのだった。
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ホテルを出てた所でクリスティンは先を行くリューを呼び止めた。
振り返った赤い髪の男に銀の長髪を揺らして小走りで近付く。
彼は何も言わずにクリスを待っていた。
「…………………………」
色々と話したい事があったはずなのだが彼の顔を見たら何も言葉が出てこなくなってしまった。
礼なら前にも言ってあるし、きっとそれは彼も喜ばないだろう。
……だから、するのならこれからの話がいい。
「リュー、これ……私の実家の住所です。お店が出来たら連絡下さい。ああいえ! できなくても連絡が欲しいです」
リューは手渡された二つ折りの紙をじっと見ている。
表情の無い彼は相変わらず何を考えているのかわからない。
「機会があればな」
やがて彼はそう言うとポケットに紙をしまった。
再び背を向けた彼は静かに歩み去っていく。
「クリスティン……元気でな」
「あ」
最後に一度振り返ったリュー。
その時の彼は西日で影になっていたものの……。
少しだけ笑っていたようにクリスティンには見えた。
大きな荷物を背負った小柄な彼が歩いていく。
去り行く彼を見送って、そしてクリスは目の端の涙を拭った。
そして、彼女も家路に着く。
大きな革製のリュックを背負った旅装のクリスティン。
背にはリュックだけでなく大きな竜の牙の大剣に象牙をXの字に背負い手には大金の入ったバッグを持った彼女はかなりの重装備である。
故郷へは辻馬車を乗り継いで丸一日ほどの旅程だ。
まずは辻馬車の駅へと向かうクリスティン。
並みの大人でも辛い重たい荷物を背負っていても彼女の足取りは軽快だ。
「……クリスティン・イクサ・マギウス」
「はい?」
雑踏の中で不意に名を呼ばれ、クリスは振り返った。
聞き覚えのある声ではなかった。
女性の声のように聞こえたが……。
見れば背後に茶褐色のマントを着込んだ誰かが立っている。
黒いセミロングの髪のツリ目の整った顔立ちの女だ。
年のころは10代後半あたりに見える。
それはかつて王妃派にて『百舌』と呼ばれて暗躍した密偵だった。
「お前に用がある。私に付き合ってもらおう」
「……どういったご用件でしょうか?」
見知らぬ相手からの急な要求に首を傾げるクリスティンであった。
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連れて来られたのは町の中にある噴水の広場だった。
露店がいくつか出ており賑わっていて人影も多い。
そこでベンチに座らされたクリスに百舌が聞かせた話とは……有体に言って愚痴と恨み言である。
「はあ、なるほど。つまり私とリューのせいで仕事を無くしてしまったと」
相槌を打つクリスをギロッと剣呑な目で睨んだ百舌。
「そうだ! お前とクリストファー・緑の監視に失敗した私は王妃様から罷免されたんだ!! 一族からも当分仕事は回さないと言われてしまったし……私は……私は、干されてしまったというわけだ……」
「その節は大変ご迷惑をおかけしまして……」
なんとなく謝ってみるクリスであったが、当然のように百舌は納得した様子は無い。
「くっ! お前!! 本気で悪いと思ってないだろう!!」
「まあ、そこは……すいません。何しろ面識がないもので……」
なんでも、聞けば自分の知らないところでリューと戦って負けて任務続行が不可能になったらしい。
ちょっとクリスが自分の落ち度とするには厳しい案件である。
「リューの方には文句を言ったんです?」
「言えるわけないだろうが! バカ! あいつ普通に無視とかしてきそうだし!! そうなったら私が惨めすぎるだろう!!」
酷い言い様ではあるが、確かに相手にしないというのはリューの反応としてありそうではあると思うクリスである。
……そこでクリスはピンときた。
「そうだ。じゃあこれを差し上げますよ。しばらく働かなくても大丈夫だと思います」
「んん? なんのつもりだ……?」
手渡された大きなカバンを開いて中を改める百舌。
蓋を開けた瞬間、彼女がギョッとしたのがクリスにもわかった。
「ぶはっ!? なっ……これっ!? げほっ!! げほげほっ!!!」
大金を見た百舌がびっくりしすぎてむせている。
既視感を感じる反応である。
「驚かすな! バカ!! ……お金ってこんなにあるもんなんだな……」
そしてどっかで聞いたような台詞を口にしている。
「こんなもの受け取れるか! 私は物乞いじゃないんだ! 施しなど受けるつもりはない!!」
怒って突っぱねてからふと首を傾げる百舌。
「しかし、なんでお前こんな大金を持ってるんだ……?」
しまった、とそこで初めてクリスティンは思った。
確かに当然の疑問である。
軽率な振る舞いであった。
「そこは、まあ……皇太子さまの所で色々と……」
まさか奪ってきましたと言えるはずもなく言葉を濁すクリスティン。
「そうか。えらく金払いのいい男だったんだな。皇太子ジェロームは」
なんとか納得してくれたようである。
まあいきなり全額渡そうとした事が功を奏したか……。
盗み出してきたものならいきなり他人に全部やろうとはしないだろう。
「よし、わかった。それならこうしよう。クリスティン……お前はその金で私を雇え。お前が今日から私の
「はい? いえ、そう言われましても……。何をして貰えるんでしょうか?」
なんだかおかしな流れになってきてしまった。
「諜報でも暗殺でもなんでもこなすぞ」
「うーん……」
全然全くこれっぽっちもクリスが必要としていない役割である。
元暗殺者とさっき別れてきたばかりでまた元暗殺者と関わってしまった。
生来のお人好しさ故に突っぱねて置いていくのも気が引ける。
……まあ、実家は広いし自分のお人好しは両親譲りだ。
彼女1人連れて帰ってもどうにかなるだろう、とクリスティンは思った。
「わかりました。何をしてもらうのかはおいおい考えていくとして、とりあえずはそれでいいですよ。はい、ではこれを……」
「わあっ!!? だから全部渡そうとするんじゃない!! お前の金銭感覚どうなってるんだ!!?」
紙幣の詰まったカバンを突き付けられて百舌が慌てている。
「……私は月ごとに相場の報酬を貰えればそれでいい。じゃあ、これからよろしくな」
「はい。よろしくお願いします。ええと……モズさんでいいんですか?」
いや、と百舌が首を横に振る。
「それは王妃様に仕えていた時のコードネームだ。今も使っているのはおかしいか……。本名でいい。カエデだ。カエデ・ユキノセ……それが私の名前だ」
「わかりました。よろしくお願いします、カエデちゃん」
言われてカエデは渋い顔をする。
「ちゃん付けはやめてくれ。呼び捨てでいい」
妙な成り行きで元王妃配下の密偵だったカエデを雇う事になったクリスティン。
話がまとまった所で2人で辻馬車に乗り込んで出発する。
「……どこへ向かうんだ?」
「私の実家ですよ。ペルダムです」
カエデの問いにクリスティンが答える。
バルディオン王国辺境の街ペルダムが彼女の故郷だ。
牧歌的でのどかな町である。
「随分端っこだな。私は初めてだ」
「いい所ですよ。のどかで。住んでる人たちみんな優しいですし。……たまにイノシシ出ますけど」
自分で言っておいてトラウマが蘇ったクリスティン。
眉をひそめてこめかみを押さえる。
「暴れイノシシが出たら私が退治してやる。主人を守るのも仕事だからな」
「そうしてくれると助かります」
2度もイノシシを絞め殺した女にはなりたくないクリスであった。
何度か馬車を乗り継ぎ、いくつかの街を経由して丸1日。
2人はペルダムの街に到着した。
馬車を降りたクリスティンが大きく伸びをする。
「ああ、この草の匂い。帰ってきた感じがしますね」
「ふうん。結構いいところだな」
カエデは周囲をきょろきょろと見回している。
そして彼女の視線はある一点で停止した。
「お、あれは何か……お前に似てるな」
彼女が指を差した先……そこは街に入ってすぐの広場の、その中央にある銅像である。
「銅像? 私も初めてです。私がここを離れてから建てられたものでしょ……うぇ」
思わず変な声を出したクリスティン。
それは横倒しになっているイノシシを踏み付け、力強く握りこぶしを天に掲げているシスターの銅像であった。
やや見上げる角度になっているその顔は異様に凛々しい。
台座のプレートには『友を守り獰猛な暴れイノシシに立ち向かった1人のシスターの像』とある。
「な? お前に似ているだろう」
「いいえ? 全然? まったく? 赤の他人の像ですよ……」
そう答えたクリスティンは虚無の顔をしていた。
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