第12話 飢狼

「……第5が来るぞ」


 朝食の席でそう渋い顔で切り出したメイヤー。

 大きなテーブルには彼のほかにクリスティンとリュー、そしてアルゴールの3人が着席している。

 最近は食事はこの4人で取る事が多い。

 何かと密談する事の多いメンバーの食事時の会話は当然そういった内容になりがちだ。


 侍従長の元に密偵からその報が届いたのがつい先ほどの話だ。


「第5大隊ですね……」


 緊張した面持ちのクリス。

 食事中であるが彼女の食欲は一気に減衰してしまった。

 リューは無表情のいつも通りの佇まいである。


「何をしに来る? 表向き俺たちは皇太子に抱え込まれた事になっている。それでもまだ攻撃してくるつもりなのか?」

「連中にはのっぴきならない事情があるのだよ」


 食後の紅茶のカップを優雅に口に運ぶメイヤー。

 アルゴールも食事を終え口元をナプキンで拭っている。


「今ひとつだ。芸術家アーティストたるこの私の舌は満足できていない。……クリストファー、昼食にはお前の芸術品アートなラーメンを所望する」

「わかった」


 二つ返事で承諾するリュー。

 最近クリスティンも知ったが基本的に彼は誰かにラーメンを作ってくれと言われて断る事がない。


「あ……じゃあ、私も食べたいです」

「当然私の分も頼むぞ。1人で別のもの食べるのは虚しいからな」


 遠慮がちに注文するクリスと尊大に注文するメイヤーである。


「……話を戻すぞ。実はな、最近皇太子の派閥に加わりたいという者が増えていてな」

「そうなんですか?」


 当の本人は死んでるのに……と思ったクリスティンではあるが、そんな事は間違っても外で口にはできない。


「元々権力争いというのは王宮の中だけの問題ではない。市井には大商人や有力者は多くいて、そういう連中も多かれ少なかれ権力とは結びついているものだ。奴らにとってはどっちに付くのかは死活問題。もし肩入れしたほうが負ければ一緒に没落する事になるからな」


 葉巻を咥えてメイヤーは火を着ける。


「それで様子見していた連中のうち数名がこっちに擦り寄る動きを見せておる。原因はこの前のお前らが第3のキリエッタを倒した一件だ」

「キリエッタ大隊長を?」


 不思議そうな顔をしているクリスにうむ、とうなずく侍従長。


「キリエッタ・ナウシズは王妃派が鳴り物入りで聖堂騎士団に迎え入れた、いわば派閥の金看板の1つだった。それをお前らが倒して退団させてしまった。その後事実はともかくとして世間的にはお前らは皇太子の派閥に加わった。それを見てこの政争は皇太子有利と踏んだ奴が出ているという事だな」

「え? キリエッタ大隊長はお辞めになっちゃったんですか?」


 驚くクリス。

 そう長い邂逅ではなかったがブロンドに褐色の肌のあの勝気そうな美人を思い出す。

 一度の敗北で心が折れてしまうような人物には見えなかったが……。


「ああ退団したらしい。任務に失敗して自信を喪失したのかなんだかわからんが、まあこちらとしては好都合だ。あの女傑が傷を癒してまた向かってくる事を想像したら頭が痛くなるからな」


 がははは、とメイヤーは上機嫌に笑っている。

 自分の関わる話というのもあって複雑な表情のクリスティン。


 パウル司祭が命を落とした一件も、それを発端とした一連の騒動も全ては表沙汰にされてはいない。

 世間的には彼らは任務中の事故死という事になっているらしい。

 だが世の中には独自のルートでそういった情報を得ている者がいるという事である。


「まあ、お前たちの事はある程度こちらからリークしているんだがな。キリエッタをやった奴をお抱えにしたというのは大きなプラスの材料になる」


 ニヤリと笑うメイヤー。


「さて反対に大きくマイナスを食らったのが王妃派だ。奴らは面子に掛けてお前らを始末しようとしておる。そこで第5を差し向けてきたわけだ」

「またあの変な世界に引きずり込まれるんでしょうか……」


 げんなりしたクリスティンが肩を落とすとメイヤーは首を横に振った。


「いやそれはない。第5の連中は1人も聖遺物アーティファクト持ちがおらん。聖域を使える者はいないという事だ」

「え? そうなんです?」


 意外な侍従長の発言にポカンとするクリス。


「聖堂騎士団の各大隊には5人前後の聖遺物持ちが配属されている。例外は創設されてからまだ歴史の浅い第6大隊と……そして初めからと決められている第5大隊だ」

「つまり……」


 そこで口を開いたのはリューだった。


「聖域を使えないが、使える者たちと同等の強さを持つのが第5か」

「その通りだ。聖域を使ってこないからといって油断はするなよ。第5の連中は手強いぞ」


 神妙な顔で真剣に告げるメイヤーであった。


 ────────────────────────


 ダナンの街に続く街道を一台の馬車が進んでいる。

 手綱を握るのは腹の出た巨漢、ブランドンだ。

 無精ヒゲの大男は陽気に鼻歌を歌いながら馬を走らせている。


「いい天気だよなぁ。本当ハラが減るぜ」

「お前は嵐の中でもハラ減るでしょうよ」


 ブランドンの隣に座っているスレイダー第5大隊長。

 彼は持ち上げた両手を後頭部に重ねて空を眺めている。

 その表情は隣の大男ほどの上機嫌さは感じられない。


「なぁなぁ兄貴、仕事が終わったらちょっとさ、のんびりしてから帰ろうぜ。いいだろ?」


 後ろの馬車からひょこっと顔を出したバサバサの金髪に少年のような顔立ちの小柄な騎士。

 悪戯っぽく笑いながらスレイダーを見ている彼の名はレオン・ザウバー。

 第5大隊所属の聖堂騎士団員である。

 そのレオンにスレイダーが何か言うより早く馬車の中から声が掛かった。


「お前ははしゃぐとしょうもないミスをするんだから、少しは真剣にやれ」

「何だよぅクリード。オレそんないつもミスってないだろ!!」


 クリードと呼ばれた男……モップトップの銀髪の目付きの鋭い男だ。

 食って掛かってきたレオンに一瞥もくれる事無く愛用の細剣を磨いている彼。

 聖堂騎士クリード・ブラント。


 そして、馬車の中にはもう1人聖堂騎士が乗っていた。

 ブランドンに並ぶほどの巨漢。だがそのシルエットはふくよかなブランドンと比べて筋肉質。

 四角い顎の糸目で寡黙なその男は黙って微笑んでいるように見えるいつもの表情で仲間たちを見ている。

 聖堂騎士ガブリエル・ノーマン。

 団内での愛称は「神父」 その呼び名の通りに普段は教会で神父として過ごしている事が多い。

 ある意味では一番聖堂騎士らしい聖堂騎士だとも言える。


「まあ……でも相手はあのキリエッタさんをやっちまってるって話だからなあ。クリードじゃないけどよ。真剣にやんねえと大怪我するぞ」

「ブランの兄貴まで……オレ仕事はちゃんとやるっつーの!」


 膨れているレオンは馬車の中に引っ込んでしまった。


「噂の死神はオレがやるよ。お前らは近付くんじゃないぞ。後は他の連中を近付けないでくれ」


 空を見上げたままのスレイダーがそう口にすると団員たちは一律神妙な表情を浮かべた。

 団長で、兄貴分で、保護者で……。

 彼らにとってスレイダーの言葉は絶対だった。


 ────────────────────────


 数日が過ぎた。

 クリスたちの拠点、王家の別荘には既に街には第5大隊の騎士団員が入り込んでいるらしいとの情報が入ってきている。


「流石にここに攻め込んでくるような真似はできん。しばらくは外へ出ないことだ」


 メイヤーはそう言っている。

 殊更に出歩きたいという欲求があるわけではないクリスティンだが、いざ外へ出るなと言われてみるとなんとも落ち着かない気分になる。

 皮肉な事にここ数日はずっと天気もいい。


 そんな彼女にとって喜ばしい話と言えば実家から手紙が届いた事だ。

 両親が心配しているといけないと思い、ここに来てから彼女は郷里に手紙を出していたのである。

 どうやら両親にも何も情報はいっていないらしく返事の手紙は普段の調子で近況の報告と励ましの言葉が綴られていた。


 何もしないのも気分が良くないので最近は使用人たちの仕事を手伝っているクリスティン。

 今は彼女は洗濯物を畳んでいるところだ。


(今回の一件が終わったら、私はどうなるんでしょうか)


 そういう事を考える余裕も最近ようやく出てきた。

 とりあえずもう聖堂騎士団には戻れまい。

 戻れと言われても司祭を殺めた身でのうのうと居座れる肝の太さは彼女にはない。


(まあ、まずは全てを解決してちゃんと外を歩ける身分に戻らないと)


 畳み終えた衣類を重ねて彼女は小さく息を吐く。


「……? リュー、お出かけです?」

「ああ。いくつか調味料を買ってきたい」


 外出の装いのリューにクリスティンは声を掛ける。

 出歩くなとは言われているが、リュー1人ならどうとでもなるだろうとは彼女も思う。


「雲が出てきたみたいですよ」


 見れば空の彼方から灰色の雲が近付いてきている。


「降り出す前には戻る」


 そう言って赤い髪の男は出かけていった。


 ────────────────────────


 市場で買い物を終えたリュー。

 彼は紙袋を手に帰路に着く……そのはずが……。


 彼が今向かっているのは別荘への道ではなかった。

 町外れの人気のない一角へ向かっている。


 クリストファー・リューには生まれ持った特異な能力ちからがある。

 彼は自身の周囲半径5mほどの空間にドーム状の不可視のオーラを展開する事ができる。

 そしてその中の事であれば視界の外であろうと指先で触れているように詳細に感知する事ができるのだ。


 聖堂騎士フェルディナントの聖域の中で後方からの射撃に反応できたのもこの能力故だ。


 そしてその彼の能力が今、自身を尾行する1人の男の姿を捉えていた。


「俺に何か用か」


 足を止めたリュー。

 彼は背後を振り返らずにそう言った。


「うん。……まぁ、用っちゃ用か……」

 

 どことなくとぼけた雰囲気の腰に長剣を下げた男。

 リューを尾行していた……聖堂騎士団第5大隊長スレイダー・マクシミリオン。

 彼は尾行がバレていた事にも特段なにも思うところはないようで、気乗りしない様子で後頭部を掻いていた。


「お前の首が欲しくてよ。……死神」


 ゴロゴロとどこかで雷が鳴っている。


「そうか……」


 足元に持っていた紙袋を置くとリューが振り返った。

 直感的に彼は理解する。

 目の前にいる男がかつてない強敵であるという事をだ。


 同時に彼は1人で出てきて正解だとも考えていた。

 この男が殺意を持っている状態でクリスティンと会わせるわけにはいかない。


「なぁ、ちょっと聞いてもいいかい?」

「答えるかはわからん」


 そっけなく答えるリューにスレイダーが苦笑する。

 ポツリポツリと足元の地面に雨の染みが広がり始める。


「お前さんなんでこんな話に首突っ込んでんだ? お前さんは流れの身だろ? こんな面倒ごとになる前にさっさとふけちまえばよかっただろうに」

「………………………………」


 雨脚が徐々に強まっていく。

 ざあざあと激しい音を立てて雨粒が降り注ぐ。


「俺は……」


 土砂降りの雨の中で2人の男が対峙する。


「…………………………」


 リューが何かを口にした。

 それは雨音の向こう側にかき消されてしまったかに思えた。

 ……だが、スレイダーの耳にはその台詞が届いていた。


 酷く驚いた顔をしている大隊長。


「……そうか」


 ぽつりとスレイダーが呟くように言う。


「そうかぁ……それじゃあ、退けねえよな……」


 やるせない顔をするスレイダー。

 その口元に浮かぶ苦い笑み。


「悪かったな。んじゃ、やるとするか」

「……来い」


 両者は構えを取った。

 そして2人は同時に地を蹴る。


 長剣を抜き放った男に先ほどまでのとぼけた雰囲気は微塵もない。


 飢狼のスレイダー。

 聖堂騎士団に所属する前の彼の呼び名だ。

 手の付けられない暴れ者で、誰も勝てない強者だった。


 土砂降りの雨を裂いて狼の牙が襲い来る。


 間合いを詰めたいリュー。

 間合いを取りたいスレイダー。

 激しい攻防の中で両者の駆け引きが続く。

 

 高速で何度も交差する両者。

 見る見るうちに双方の身体には生傷が増えていく。


(クソ強え!!! バケモンだぞコイツはッッッ!!!!)


 身体にいくつもの打撃痕を刻まれながらスレイダーは内心で叫んでいた。


(攻めきれない。勝ち筋が見えてこない。……こんな男がいるのか)


 既に何発の必殺を狙った打撃を叩き込んだか。

 それを全て阻まれている。

 リューは絶望感で目の前が暗くなるような気がした。


 どうすれば、この敵を倒せるのか……?


 そんな両者の攻防を第5大隊の団員たちが離れた場所から見ている。


「すげえ……何なんだアイツ。本気の兄貴をあんな……」


 レオンはガタガタと震えている。

 勿論雨に濡れた寒さからくる震えではない。

 クリードは無言だったが服の裾をぎゅっと強く握り締めていた。

 ガブリエルも相変わらずの無言であるが、彼にしては珍しく顔色を失っているように見える。


「なるほど。ありゃとんでもねーわ」


 親指と人差し指の横腹で顎をさすっているブランドン。


「けど、スレイダーが勝つぞ」


 副団長がそう口にしたまさにその瞬間。


 狼の牙は遂に赤い髪の男を捉えた。


「……ッ!!」


 愕然とするリュー。

 遂に彼の超人的な反射でも避け切れない一閃が来る。


 その身体をスレイダーの長剣が袈裟懸けに切り裂く。


「悪く思うな死神!!! こっちも色々と背負ってんだ!!!」


 目を見開き、一言の苦悶の声もなく……。

 激しく鮮血を噴き出しながらリューが倒れる。

 大地に打ち付けられる前に既に赤い髪の男の意識はなかった。


 そして倒れた対敵をしばしの間見つめてからスレイダーはよろよろと頼りない足取りで仲間たちの下へと歩いてくる。


「よー、お疲れ。今までで一番の強敵だったな」


 声を掛けたブランドンに倒れ掛かるスレイダー。

 傷だらけの大隊長はぜいぜいと荒い息を吐いている。


「だめだもう歩けもしねえ。負ぶって帰ってくれ」


 掠れた声で言うスレイダーをその言葉の通りにブランドンが背負った。


「凄かったな兄貴、アイツ……」

「あぁ」


 まだ興奮冷めやらぬ様子のレオン。

 スレイダーは先ほどのやり取りを記憶の中で反芻していた。


「俺は……」


 あの赤い髪の男は激しい雨の向こう側で……。


「クリスティンが好きだ」


 確かに……そう言っていた。


「……殺したくは……なかったな……」


 ブランドンの背で呟いた苦いその言葉は雨の音にかき消されて仲間たちの耳に入る事はなかった。


 ────────────────────────


「リュー!! リュー……しっかりしてください!! 死なないで……」


 涙と雨でぐしょぐしょの顔でクリスティンが悲痛な声を上げている。

 別荘へ運び込まれたリュー。

 ……彼は今死に瀕している。


「バカタレが……!! 死ぬなよ!! 死ぬんじゃないぞ……!! 金は山分けの約束だろうが!! こんな所で死ぬんじゃない!!!」


 血だらけのリューにあの状態維持の符をベタベタと貼り付けているメイヤー。

 それで幾分か出血は収まったように見えるが……。

 だが依然として彼は死に向かっている。

 その歩みがほんの僅かに遅くなっただけだ。


 ……雨が降り出してすぐの事だ。


「あらら、降ってきちゃいましたよ。私リューを迎えにいってきます」

「待たんかバカタレ。外は第5の連中がうろついとるんだぞ」


 そう言うとメイヤーはいつもの式神の紙人形をクリスに持たせた。


 傘を2本持って外へ出たクリスティン。

 しかし彼女はすぐに市場への道にリューの姿がない事に気付く。


「……なんだと? 待ってろ、すぐ調べる」


 用心深いメイヤーは何かあった時のために町中のあちこちに監視のための式神を仕込んでいるのだった。

 すぐにその式を通して彼が街のあちこちを走査する。


「いたぞ!! 西の外れだ!! ……だが、これは……」

「ど、どうしたんです!?」


 メイヤーの掠れた声にただならぬものを感じ取ったクリスティン。


「い、いやいい! 今はいい!! とにかく急げ!!!」


 そして駆けつけたクリスはメイヤーが見たものを自らも目の当たりにすることになる。

 ……血の海の中で倒れたリューの姿をだ。


 そして土砂降りの雨の中をリューを抱きかかえてクリスティンは別荘まで走ってきた。


 泣きながらリューの身体の雨や血を拭っているクリス。

 メイヤーは険しい顔で椅子に座り親指の爪を噛んでいた。


 ……医者がいないのだ。

 すぐにメイヤーは医者を呼びに行かせたのだが運悪く他に急患が出たとの事で出払ってしまっていた。

 そちらもかなり症状が重いらしく、こっちを優先しろと割り込むわけにもいかない。


 ガチャっと音がして部屋の戸が開く。

 入ってきたのはアルゴールだ。


「……見せてみるがいい」


 白いスーツの男が意識のないリューに歩み寄る。


「だめ……だめです、先生……リューを死霊に……しないで……」


 泣きながらクリスがアルゴールに縋りついた。

 そんな彼女をアルゴールが穏やかに離れさせる。


「落ち着くのだクリスティン。私はリューを芸術作品にするために来たのではない」

「……え?」


 ポカンとしているクリス。


「よいかね? 私は死を操る芸術家アーティストであり、それ即ちこの世でもっとも死を知る者である。そして物事と言うものはすべからく表裏一体。死を知るという事は同時に生を知る者でもあるという事だ」


 そう言ってアルゴールはリューに向けて手をかざした。

 掌にぼうっと淡い魔力の輝きが生まれ赤い髪の男を照らす。


「……確かに逃れえぬ死の使いに纏わりつかれているな」


 アルゴールの言葉にクリスティンは息を飲んだ。


「だがそれは常人相手であればという事。この天才的芸術家アルゴール・シュレディンガーならば話は別だ。死を操る私の術を逆流させる。リューに生命の力を注ぎ込むぞ」


 そこでアルゴールは眉を顰めた。


「だが、術式に耐えるには血が足りておらんな」

「わ、私の……私の血を使ってください!!!」


 ガバッと立ち上がってクリスは叫んでいた。


「いいだろう。ではこちらに」


 そう言ってアルゴールはクリスティンを手招きした。


 ────────────────────────


 ………………………………。


 どこまでも続く闇の中に自分は立っている。

 クリストファー・緑が自分の手を見る。

 その手は普通に見えている。

 だが周囲はどこまでも漆黒だ。


 ……これが死か。

 そう赤い髪の男は考える。


 いつかは自分にも訪れるだろうとわかっていた瞬間だった。


 その事に感慨はない。

 来るべき時が来ただけだ。

 自分の手で散々与えてきたものが、自分にも回ってきた。

 それだけの話だ。


 どこかでふと、自分の名を呼ばれた気がした。


 その声を聞くと不思議と気持ちが穏やかになる。

 1人の女性を彼は思いだしていた。


 悔いはなく、感慨もない。

 ……そのはずなのだが。

 ただ彼女を置いていかなければならない事は、少しだけ寂しい気がした。


 …………………………。


 ……やはり、気のせいではない。

 呼ばれている。

 この声は……自分が一番安らぐ声だ。


「……リュー」


 闇が終わり、世界を眩い輝きが満たした。


 視界が白く染まっていく。


「…………………………」


 クリストファー・緑はゆっくりと目を開いた。


 寝かされている。

 見えている天井は王家の別荘のものだ。


「……う……」


 身体を起こそうとして全身に走った激痛に呻く。

 見れば身体の傷には治療が施されているらしく傷口は包帯で覆われている。


「……リュー」


 名を呼ばれた。

 あの闇の中で自分を呼んでいた声だ。


 見ればベッドの傍らに座ったクリスティンがベッドに上体を投げ出すようにして眠っていた。

 泣き腫らした目をして、彼女は眠っていた。


「クリスティン」


 そっとリューがその頬に手を伸ばす。

 すると彼女の目がゆっくりと開いていく。


「……あ、リュー……」

「おはよう、クリスティン」


 数秒置いてクリスは跳ね起きた。


「リュー……」

「ああ」


 呼ばれて返事をする。

 やっぱり、その彼はいつもの仏頂面であったが……。


 ぼろぼろと涙の粒を零すクリスティン。


「よかったぁ……リュー……!! わたし、わたし……リューが助からなかったらどうしよう、どうしようって……」


 抱き着いてくるクリス。

 激痛にリューの表情が歪むが、彼はクリスティンを突き放そうとはしなかった。


「……呼ばれたからな」


 その静かな一言は彼の口の中だけで消えていき、実際に声になる事はなかった。


 扉の外では2人の男がそんな中の様子を窺っている。


「フン、アホらしい! 大騒ぎさせおって!! やっとれんわ!! 私は仕事に行くぞ……」


 大袈裟に床を踏み鳴らして去っていくメイヤー。

 去り際に彼はグスッと鼻を啜っているのがアルゴールにはわかっていた。


 そのメイヤーの後姿を見送ってからアルゴールは扉に視線を戻した。


「実に……芸術アートである」


 白衣の芸術家はそう言って静かにうなずくのであった。




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