幕間 死神の別の生き方
父親の顔は知らない。
母親の顔も知らない。
物心がついた時にはクリストファー・
父親は医師であったと聞いた。
遠い国から学びのために訪れた男だったらしい。
母親は画家であったらしい。
最もそれで生活が成り立つようなレベルの腕ではなく半ば趣味のような……有体に言ってしまえば画家崩れの女だった。
そんな2人は偶然からめぐり逢い惹かれ合った。
母の暮らす小さな借家に父も住むようになり、程なくして母は身籠った。
2人は結婚の約束をしていた。
だがそれは叶うことはなかった。
ある時父の国から数人の男たちがやってきて父を無理やり国に連れ戻した。
父は優れた医師を何代にも渡って輩出し続けた名門の出であり許嫁が定められていたのだ。
産まれたばかりの子と共に残された母はあっさりと折れてしまった。
彼女は子供を孤児院に預けるとどこへともなく姿を消した。
その後の消息は杳として知れない。
自ら命を断ったとも、父を追って遠い国へ向かったとも言われている。
いずれも噂話である。
物心ついてすぐにクリストファー・緑は自分は独りである事を知っていた。
クリストファーの預けられた孤児院を運営する夫婦は実はあるマフィア組織の構成員であり、子供たちを裏で金で売る人身売買を行っていた。
ある夜に孤児院に2人の男がやってきた。
マフィア組織『
敵対する組織の送り込んできた始末屋であった。
夜半に物音に気付いてクリストファーが様子を見に行った時、すでに夫婦は殺害されていた。
亡骸の脇には2人の男が立っていた。
クリストファーの姿を見た時、2人の男の内の1人が無言で刃物を取り出した。
……ああ、自分の死ぬのだ、と。
漠然とクリストファーは理解していた。
「……待て」
その男の手首を掴んでもう1人が止める。
黒い拳法着を着た男だった。
裾には赤い龍の刺繍がある。
「小僧、人が死ぬ所を見たのは初めてか?」
黒い拳法着の男の問いにクリストファーは無言でうなずいた。
男の視線が静かに冷気を帯びる。
「……死ぬのは怖くないか?」
黒い拳法着の男が放った殺気は彼をよく知る隣の相方ですら慄くほどのものであった。
だが赤い髪の子供は黙って何かを考えてから……。
「わからない」
と、そう返事をした。
「どうでもいい」
とも付け足した。
「……俺は誰からもいらない子供だから」
悔しさでもない、悲しさでもない。
単なる事実としてその子供は淡々とそう口にした。
「くくくく……」
殺気を消した黒衣の男が喉を鳴らして笑う。
「気に入った。この小僧を連れて帰るぞ」
「!? 本気ですか、
黒龍と呼ばれた黒い拳法着の男の言葉に相方が眉根を寄せた。
「見ろ、この狼のような目を。コイツは面白いガキだ。上手く育てりゃモノになるぜ」
そう言って黒龍はクリストファーと視線を合わせる。
赤い髪の子供はただ黙って彼を見上げていた。
────────────────────
クリストファーを連れ帰った黒龍。
彼は紅龍会のボスの片腕と言われる側近であり組織でも最強の刺客であった。
黒龍はクリストファーに拳術を教え込む。
それは成人男子に課すのと同等の厳しい鍛錬であった。
修行中に何度も赤い髪の子供は死にかけた。
だがクリストファーは一度も弱音を口にしたり修行から逃げたりする事はなかった。
クリストファーには天賦の才があった。
黒龍の見立て通りに彼はめきめきと腕を上げ、12になる頃には組織でもクリストファーと互角に勝負ができるものは極一部になっていた。
黒龍は組織内の少人数のある派閥のリーダーだった。
彼の派閥は人数こそ少ない者の一騎当千の猛者たちばかりが揃っており影響力は1番大きかった。
黒龍はあえてクリストファーを己の派閥のメンバーには加えなかった。
人数の多いある派閥の構成員となったクリストファー。
彼は着実に「仕事」をこなしていきいつしか裏社会に紅龍会の赤い髪の死神の名は畏怖をもって知れ渡るようになっていた。
クリストファーが15の時、組織のボスが死んだ。
ボスは高齢の上に長く病で臥せっており闘病を続けた上での死であった。
跡目の最有力者だと目されていた黒龍は名乗りを上げずに状況を静観した。
そしてその結果、組織内でもそれぞれ有力な派閥を率いている幹部2人が跡目を狙って争いが始まり組織は2つに分裂した。
クリストファーの所属する派閥のリーダーがその片方であった。
「……跡目争いにはお前は関わるな」
黒龍はクリストファーにある時そう告げた。
「そうはいかない。命じられれば戦うしかない」
クリストファーが答える。
直属の上司にあたる派閥のリーダーの命令は組織では絶対だ。
逆らえば組織への反逆と見なされる。
────────────────────
跡目争いは1年近く続いて、勝ったのはクリストファーが所属していたのではない敵対していた側の派閥のボスであった。
新しく紅龍会の首魁となった男は自分と敵対していた構成員たちの粛清を行った。
……そしてクリストファーも捕らえられた。
牢獄の中のクリストファー。
窓に嵌められた鉄格子の隙間からは月が見えていた。
足音が聞こえて鉄格子の前に誰かが立つ。
クリストファーはそちらを見ようとはしない。
彼は目を閉じたまま黙って座っている。
足音で彼にはだれが来たのかがわかっていた。
「だから言っただろう」
「……仕方のない事だ」
黒龍に目を閉じたままのクリストファーが答える。
「お前……殺されるぞ」
「そうだな。今まで散々俺がやってきた事だ」
鉄格子の外で黒龍は屈んだ。
座るクリストファーと視線の高さを合わせるように。
「もし……殺手をしていなかったとしたら、やってみたい事はあるか?」
「そんなものはない」
そっけなく言ってからクリストファーは目を開けた。
「いや、1つ」
それはこの赤い髪の男にとって数少ない思い出と呼べるものだった。
「いつかあんたと2人で食べたラーメンは美味かったな。ああいうものが作れるような人生には憧れがあるかもしれん」
「ああ、あれか。珍しくお前が物を食った後に喜んでたな……」
そう言ってから黒龍はゆっくりと腰を上げる。
立ち去っていく師にして育ての親。
その足音を聞きながらクリストファーは再び目を閉じた。
────────────────────
そしてクリストファーが新しいボスの前に引き出される日がやってきた。
「何か言いたいことはあるか? リュー」
ボスの言葉にクリストファーは静かに首を横に振る。
「何もない。殺せ」
迷いがなく淀みもない返答だった。
「……おい、待ちな」
声がして、その場に1人の男が現れる。
黒い拳法着の男は杖を突いていた。
「黒龍」
ボスが視線を鋭いものに変える。
黒龍は左手で杖をついて若干ふらつく足取りで近付いてくる。
その右手の袖がひらひらと揺れていた。
「ほらよ。受け取りな」
そう言うと黒龍は斜め掛けにしていた包みを床に投げ出した。
どさっと包みは重たい音を立てる。
「黒龍と呼ばれた男の片腕だ。ケジメにゃなるだろう。……そいつは見逃してやれ」
その言葉に目を見開いたのはクリストファーだった。
ボスの周囲の男が興奮して席を立つ。
「おいふざけるなよ黒龍!! こいつが俺たちの仲間を何人殺したと思ってやが……」
「口挟むんじゃねえ!!!!」
雷喝したのはボスだった。
激高した男はその一言で顔色を失い黙って再び座る。
ボスは床の上の包みと片腕になった黒龍を交互に見た。
「わかった。あんたには散々世話になった、元々あんたがその気だったら今この椅子に座ってたのはあんただったんだ。ここまですんなら異存はねえよ。リューは見逃してやる」
腕組みをするボス。
「流石に組織にゃもう置いておけねえがな。抜けてやってくんだな」
話は終わった、というようにボスは立ち上がって部屋を出ていった。
手下の男たちもめいめい様々な表情を浮かべてそれに続く。
そして部屋にはクリストファーと黒龍の2人の男が残された。
「何故こんなことをした」
「さてな。……自分でもよくわからんな」
切断した腕が痛むのだろう、黒龍の額には汗が浮かび苦笑するその表情は引き攣っていた。
「ラーメン作れよ。クリストファー」
クリストファーに肩を借りながら黒龍が言う。
「俺は結局殺すしかできなかった男だが、その俺が殺しを仕込んだお前に別の生き方ができるのなら、俺の人生にも何か意味みたいなもんがあったのかもしれねえと、そう思える」
「…………………」
肩を寄せ合って師弟は歩き始める。
「いつか俺にラーメンを作りにこいよ。今まで食ったラーメンの中で一番美味えって言わせてみな」
そう言って黒龍は笑った。
今までクリストファーが見たことのない穏やかな笑みだった。
「それまでに俺も左手で上手く箸を使えるようになっておかなきゃな」
────────────────────
それから5年が過ぎた。
今日もクリストファー・緑は厨房にいる。
ラーメンスープの味見皿で口に含む赤い髪の男。
「まだまだだな」
独りごちるクリストファー。
目指す味にはまだ遠い。
窓から外を見る。
今日は綺麗な月夜だ。
(長生きしろよ。
笑わない男はしばしの間無言で月を見上げていた。
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