第6話 リューの正体

 ……それは、とても大きな街であった。


「おおっ……」


 大きな荷物を背負っているクリスティンが思わず前のめりになって目を輝かせている。

 眼前にあるのは立派な石造りの城壁と門だ。

 その城門の内側には数万人が暮らしている街道でも有数の大都市がある。


 自治都市ボルツ。

 通称『橋の街』……とはいえこの街に実際に橋があるわけではない。

 ずっと昔に大河に橋を架けようという計画が持ち上がった。

 多くの富豪や大商人が賛同しこの場所に人々が集った。

 人夫が集まれば彼らが生活するための諸々が必要になる。

 巨大な工事現場はいつしか集落になり街になった。

 こうして橋を架けるための街……ボルツが出来上がったのだ。

 だが、残念な事にその後計画が進むことはなかった。

 結局、橋桁を架ける為の川岸の土台を組んだ所で計画は頓挫し数十年が経過した今日の日まで工事は止まったままなのだ、

 今では橋のない橋の街ボルツは交易都市として繁栄している。


「ここは避けたかったがやむを得ない」


 リューの言葉に不思議そうな顔のクリス。


「どうしてこの街はダメなんです?」

「人が多過ぎる。襲撃者の気配を察知しにくい。奇襲もしやすいから俺たちにとって不利だ」


 憂いを口にするリューだが、その表情も口調もいつもの淡々としたものである。

 困った時も困った顔はしない。

 怒った顔も見せる事がなければ笑うこともない。

 ……それが、クリスティンの知るリューという男だ。


「私はそういうのまったくわからないですけど、リューは鋭いですね」

「職業柄身に付いた技能だ」


 そっけなく答える赤い髪の男。

 ラーメン屋はそんなに人の気配に敏感でなければいけないのだろうか? と疑問に思うクリスであった。


(リューには申し訳ないけど、しっかりとした設備の宿で休めそうなのはちょっと嬉しいな)


 国を飛び出してからは怪しげなボロ宿か野宿の状態が続いていたクリスにとってはちゃんとした宿での休息は喉から手が出るほど欲していたものだ。


 雑踏を歩む2人。

 流石にまっすぐ歩けないほどというわけではないが、視界に常にこれだけの他人がいる状況というのもクリスにとってはしばらくぶりの事である。


「あ~……でも流石に私くらいある女の人はいませんねぇ」


 背丈の話だ。

 達観しつつも苦笑するクリスティン。

 この大きくて目立つという点でこれまで彼女は良い目を見た記憶はほとんどない。

 背丈に関する記憶は大体があまり愉快ではないものばかりだった。


「俺ももう少し背丈が欲しいと思ったこともある」


 口を開いたリューを見るクリス。

 彼は前方に視線を注いだまま言葉を続ける。


「だがないものねだりをした所でどうにもならん。自分は自分だ」

「……そうですね」


 自分は自分、その言葉が胸に何かを残してクリスティンは頷いたのだった。


 ────────────────────


 蹄の音が響き渡る。

 街道を茶色い砂煙を立てながら走る二頭の騎馬。

 クリスたちを追跡する聖堂騎士団第3大隊所属の騎士、オーギュストとフェルディナントだ。


「……!」


 前方の街道脇の草むらから小石が道を横切るように飛んだ。

 それを見て2人は馬を止めると石の飛んだ草むらを見る。


「……百舌モズか」


 オーギュストが低い小声でその名を呼んだ。

 丈の長い草の中に潜んでいたのは小柄な黒衣の何者か……。

 覆面で目元以外を覆っており性別はわからない。


 王妃方の密偵……百舌である。

 無論通称であり、本名は誰も知らない。

 もしかすると雇い主であるヒルダリア王妃ですら知らないのかもしれない。


 パウル司祭が命を落としたあの夜にクリスたちを樹上で見ていたのもこの百舌だ。


「ソノ先ニハモウ連中ハイマセン。北ニ向カイマシタ」


 低くしわがれた声で言う黒覆面。

 オーギュストたちは聖堂騎士ベガが倒れていたという位置を検分した後で南下している途中であった。


「北か。そのまま行けばボルツですね」

「……オソラクハ」


 フェルディナントが北の方角を見やる。

 ここからなら特別馬を酷使せずとも半日でボルツに到着できる。


「よしご苦労だった。北に向かう」

「オ待チヲ」


 馬を北へ向けた2人を止める百舌。


「逃ゲテイル娘ト一緒ニイル小柄ナ赤毛ノ男……オオヨソ調ベガ付キマシタ」

「ほう。……誰だ?」


 興味深げにオーギュストが問う。


「クリストファー・リュー……『紅龍会レッドドラゴン』ノ『赤い髪の死神』デス」

「……!」


 聖堂騎士たちの眉が揺れた。

 紅龍会とは大陸の東部全域に勢力圏を持つ巨大なマフィア組織であり、その最強の刺客とされている『赤い髪の死神』は半ば伝説のような男だ。


「赤い髪の死神の話は私も聞いた事があります。確か、組織の跡目争いで死んだのでは?」

「おれは利き腕を切り落とされて放逐されたって聞いたがな」


 2人の聖堂騎士が聞いていた噂話で共通している部分がある。

 それは、紅龍会にはいくつかの派閥があり先代の門主ボスが没した時に各派閥のボスたちによる跡目争いが勃発した。

 そして……『赤い髪の死神』が所属していた派閥のボスは敗れて命を落とした。


 その後の『赤い髪の死神』についてはいくつかの噂があり、殺されたとも利き腕を奪われて追い出されたとも聞こえてくる。


「容姿モ……ソレカラ当代並ブ者ナシト言ワレテイル拳術モ。条件ガ完全ニ合致シテイマス。間違イハナイカト」

「まあベガをやったのがかの赤髪だっていうなら納得だがな。伝説の死神は生きてて何故か今うちの国のゴタゴタに首を突っ込んで来てるってわけか」


 百舌の言葉にオーギュストが頬の刀傷を無意識に撫でていた。

 それを隣で見ているフェルディナントは知っている……その動作が同僚が難敵を相手に覚悟を決めた時の癖である事を。


「相手が誰であろうと仕事が変わるわけじゃねえ」

「……そうですね」


 黒衣の密偵は一礼して見送る体勢になる。

 伝えるべきことは全て伝えた。

 ……後は彼らの任務である。


 走り出す2人の騎士。

 彼らの眼光は獲物を追う狩人のそれであった。


 ────────────────────


 バルディオン王国は豊かな国だ。

 建国から600年以上が経過したこの大陸でも有数の大国は温暖な気候で土地が肥えており鉱山資源も多い。

 何度かの戦乱を経験しているものの国力を大きく損ねることはなく王家はここまで存続してきた。


 荘厳な王宮にはそこかしこに美術館かと見まごうような価値のある美術品の数々が飾られている。

 そして今、王妃の私室に新しい大理石の石像が1つ運び込まれている所だ。


 1m半ある女神の像は重量にして数百kgになる。

 その石像を数人の使用人たちが慎重に台座の上に設置する。


「もう少しこちら側に向けて頂戴。……そう、それでいいわ」


 指示をしているドレスの女性こそがこの部屋の主、ヒルダリア王妃である。

 背の中ほどまである銀の髪と怜悧な美貌の持ち主で人々には氷の妃と呼ばれている。

 年齢は40近いはずだが見た目は20代と言っても十分通用するであろう。


「それと、その絵は飽きたからどこか別の場所に飾って頂戴」


 王妃の言葉に畏まった使用人たちが壁の大きな額縁を外しにかかる。

 彼らが布を被せた絵画を運び出し、部屋の扉が閉まると中に残った者は3名だ。


「ヒルダリア、今は絵の事などどうでもいいだろう」


 やや肥えた体型の初老の男が落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っている。

 口元と顎に薄く髭を生やしたカールのかかった髪型をしたこの男性は宰相ルーファウス……ヒルダリア王妃の父親だ。


「このような時だからこそ美しいものを目にして心を落ち着けなければなりませんわ、お父様」

「ううむ……。聖堂騎士たちは何をしておるのだ。小娘1人に何を手間取っている?」


 立ち止まって腕を組むと宰相はトントンと爪先で床を叩いた。


「お父様」


 それは冷たく硬質な声だった。

 ビクッと宰相が肩を震わせる。


「近くでそうイライラとされたのではわたくしも気が休まりませんわ」

「そ、そ、そうだな……。わかった。わしは執務室にいる事にしよう」


 そそくさと退出していくルーファウス。

 扉がばたんと閉まると王妃は大きく息を吐いた。


「……小さな男ね」

「お父君ですよ、お妃様」


 くぐもった声を出したのはその場の3人目。

 先ほどからずっと王妃の後方に無言で控えていたフードにを目深に被った灰色のローブの者だ。

 振り返った王妃が薄目で睨んだ。


「そんな事はあなたに言われなくてもわたくしが1番よくわかっているわ」


 広げて持っていた扇子を閉じるとその先端をローブの者の喉元に突き付ける王妃。

 両者の視線が交錯し僅かな沈黙の時間が流れる。


「それと、わたくしと話す時はきちんと顔を見せなさい……占星術師アストロジャー

「………………」


 王妃の言葉に従い無言で口元を覆っていた布を外すローブの者。

 外気に晒された素顔は切れ長で涼しげな瞳の若い女性のものだ。


「……貴女も綺麗な顔をしているわね。気に入らないわ」


 ふふん、と笑うと王妃は扇子をスッと引いた。

 そして彼女は椅子に座って足を組む。


「色々と思ったようにはいかないようだけど、手は打っているのでしょうね?」

「今は聖堂騎士たちの報告待ちです」


 占星術師と呼ばれた女が答える。

 王妃の口元から微笑が消える。


「わたくしを見限るつもりではないでしょうね?」

「そのような事は……。これまでも散々お力になってきたでしょう」


 訝しむように鋭い視線を向けてくる王妃に占星術師は静かに首を横に振って否定した。


「そうよ。わたくしは約束は守るわ。信賞必罰こそがわたくしの信条。それは貴女もよくわかっているでしょう? 貴女の望むを手に入れたいのなら変わらずにわたくしに尽くしなさいな」


 納得した様子で深く頷いた王妃。

『あれ』という何かを指した言葉が会話に出た時、ほんの少しだけ占星術師の瞳が揺れた。


「……仰せのままに」


 占星術師はそう言って静かに頭を下げた。


 ────────────────────


 ボルツに入ったリューとクリスティンの2人は門を潜ってすぐの広場にある立て看板を見ていた。

 そこには都市内の主要な施設が明記された地図が掲載されている。

 リューはしばらくの間看板の前から動かなかった。

 色々考えながら地図を頭の中に入れているのだ。


 それから2人は宿を取り、部屋に荷物を置く。

 当然のように相部屋である。


(まさか男の人と二人で外泊を繰り返すことになるなんてね……)


 クリスは所持金ゼロ、所持品はペン1本で飛び出してきているのでこの逃避行が始まってからの出費は全てリューの財布から出ているものだ。

 今現在着用している旅装もリューの支払いで入手したものである。

 否やも何もないのだが複雑な心境ではあるクリスティンだった。


(逃亡中じゃないなら相手にお金出させて夜の見張りまでさせてぐーすか寝てるんだからいいご身分ですねって言われちゃうなあ)


 夜はクリスは普通に就寝し朝までリューが見張りに就いている。

 その彼が眠りに就くのは日中の3時間だ。その間はクリスが代わりに周囲を見張る。

 起こさなくてもきっちり3時間で彼は目を覚ます。

 もっと休んでいいとクリスは言ったのだが、それに対する返答は「必要ない」の一言であった。


 その後2人は散策に出た。

 周辺の様子だけでも実際に見ておきたいとリューが希望した為である。


「……むっ!」

「うわっ」


 足を止めたリュー。

 唐突だったのでクリスティンはその背にぶつかりそうになった。


「な、なんです……?」


 見るとリューはある店舗を見ている。

 オリエンタルな雰囲気の飲食店……ラーメン屋である。


「良さそうな店だ」


 腕を組んだリューは店の外見に見入っている様子。


「……食べていきます?」

「そうしよう」


 何せ財布は相手なので恐る恐るという感じであったが、クリスがそう声を掛けると即座にリューが頷いた。


 入店した2人。

 リューは店内を見渡せる位置のテーブルを希望し2人はそこに着席した。

 そして運ばれてきた注文したラーメンを2人で食べる。


「わあ、美味しいですねぇ」


 湯気の立つ丼から麺をすすって顔を綻ばせたクリスティン。


「………………………」


 同じく食べているリューは無言だった。

 やや不機嫌にも見える表情だがそれはいつもの事だ。


「リュー、何かご不満が?」

「……いや」


 否定してからぐいっと丼を傾けてスープまで飲み干したリュー。

 ……食べるのが早い。

 クリスはまだ半分ほど食べた所である。


「味に関しては俺ならこうする、という部分はあるが、それはこの店ではなんの意味もない事だ」

「……?」


 首をかしげるクリスティン。


「究極的な事を言うならラーメンの味に関してはその店その店で最適は違う。商売として成立させスタッフが食っていけている以上はその時点で正解だ。いいも悪いもない」

「はい?」


 リューの言葉が今一つ理解できないクリスティン。


「俺たちは『ラーメン屋』だ。滅多に手に入らない希少な食材を使って誰もが言葉を失うほど美味いラーメンを作れた所で意味はない。商いを成立させることを前提にラーメンを作らなければならん」

「美味しければいいってものではないと……?」


 クリスの言葉にリューは肯くと言葉を続ける。


「値段が手ごろなラーメン屋同士で、美味い店なのに潰れる所もあれば微妙な味でも潰れない店もある。……無論、美味いに越したことはないがな」


 クリスティンの箸が止まった。


「どうした?」

「いえ……その……」


 視線を伏せるクリスに眉根を寄せたリュー。


「リューはその、自分のお仕事の事をそんなに真剣に考えていて凄いなって……。あの時だって屋台を引いて頑張ってたのに、私に会って台無しに……」


 沈んだ声のクリスティン。

 リューは少しの間黙っていたがやがて静かにお冷を口にした。


「自惚れるな」

「……ふぇ!?」


 いきなりの辛辣な物言いに素っ頓狂な反応をしてしまったクリス。


「お前ごときに台無しにされるほど俺の人生はヤワじゃない。言っておくが俺は自分で選んで今ここにいる。巻き込まれたわけでも流されたわけでもない」

「あわわわわ……」


 レンゲを手に慌てているクリス。


「俺がお前に手を貸しているのはそうするべきだと判断したからだ。お前がうじうじと悩むような話じゃない」

「リュー……わかりました!」


 眼差しから憂いを消したクリスティンは元気よくラーメンをすすった。


「いつかリューのお店ができたら今回のお礼に私が店頭で呼び込みをします!」

「それはいつの話になるかわからんな」


 そう言うとリューは窓の外に視線を向けて何事か物思いに耽っているようだった。


 ────────────────────────


 食事を終えた2人が散策を終えて宿への帰路に就いた。

 細い路地を進んでいると、先頭を行くリューが足を止める。


「……リュー?」


 クリスもそれに倣って立ち止まって……。

 そして、気付いた。


 自分たちの前方に立つ1人の男に。


 大剣を背負った茶髪のその男の左の頬には斜めの刀傷がある。

 野性味のある鋭い眼光が2人に向けられていた。


「……聖堂騎士団だ」

「そうですねぇ。……何と言うか、まあ……お仕事お疲れ様です」


 とほほ顔のクリスティン。


「聖堂騎士団第3大隊のオーギュスト・ユーグだ。お前たちを連れて来いと言われている」


 背から革製の覆いを付けたままの大剣を取るとそれでトンと床を打ったオーギュスト。


「……だそうだ」

「申し訳ないですけど、お断りさせて頂きます」


 疲れた顔で小刻みに首を横に振るクリス。


「後ろのお前は名乗らないのか」

「……!」


 リューの言葉に驚いたのはクリスティンだった。

 慌てた彼女が振り返ると背後の離れた場所に銀の髪の大弓を構えた男が立っているのが見えた。


 ……挟撃の体勢である。


「そいつは同じ第3のフェルディナント・マティアスだ。ま、シャイな奴なんでな。あの位置から大声で名乗らせるのは勘弁してやってくれや」


 そう言ってから切っ先で石畳を突いた大剣を杖のようにして聖堂騎士オーギュストは主にリューにジロジロと無遠慮な視線を注いでいる。


「小柄だとは聞いてたが本当に小さいな。噂の『赤い髪の死神』さんはよ」

「赤い髪の……?」


 オーギュストの言葉にいぶかしむ様に眉を顰めたクリスティン。


「昔の仇名だ」


 静かに言うリュー。


「……あまり好きな呼ばれ方じゃない」


 そう短く付け足して。


 背後のフェルディナントが無言で大弓に矢を番える。

 その相方を片手を上げてオーギュストが制した。


「まあそう急ぐな。始まっちまったらもうお喋りの時間は取れねえ。その前に聞いておきたい事がある」


 前方の聖堂騎士の視線がリューからクリスへ移る。


「……お前さん、なんでパウル大隊長を殺した?」


「……………………………………」


 オーギュストの問いに硬い表情のクリスティンは沈黙で応えた。

 その彼女の反応を見てオーギュストは納得したように肯く。


「なるほどな。やはり何かは知ってるようだな」


 大剣の覆いを外すオーギュスト。

 足元に革のカバーが落ちる。


「……よし、やるとするか」


 開戦の合図に背後のフェルディナントが弓を引く。

 ……そして銀髪の聖堂騎士は空へ向かって一矢を放った。


 ビシッ!!!!!


 空中の何もない場所に矢が突き立って空の景色にヒビが入る。

 同時に前方のオーギュストが大剣を構えて猛然と襲い掛かってきた。


 崩れていくボルツの町の風景の下から現れたのは切り立った崖に挟まれた峡谷だ。


 聖堂騎士フェルディナント・マティアスの『失われしロスト・聖域サンクチュアリ


 ……『嘆きの峡谷ラメントキャニオン


 オーギュストの斬撃を交わしカウンターの拳打を打ち込むリュー。

 それを聖堂騎士は手甲の装甲に当てて表面を滑らせ巧みに回避した。


「……!!」


 腕の、足の、背の……リューの衣服の数箇所が裂けて血が飛沫く。

 そしてまた、向かってくるオーギュストも数箇所に裂傷を負って血を流している。


「オォォラァァッッッ!!!」


 だが咆哮を上げた聖堂騎士は更なる猛攻を加えてきた。

 まるで負った裂傷の事などまったく意に介していないかのように。


(風が吹いていた……)


 攻防を続けながら冷静に状況を分析しているリュー。

 傷を負った箇所全てに風を浴びた感触があった。


(真空の刃……カマイタチのようなものか)


 この結界世界はあの弓を持つ聖堂騎士、フェルディナントの作り出したものだ。

 だから風の刃はオーギュストをも負傷させている。

 ロストサンクチュアリのいくつかのルールがリューには読めてきた。


 ……1人でやるしかない。


 先日倒したベガの言葉がリューの脳裏を過ぎる。

 それがこういうことなのだろう。

 聖域は取り込むときに敵味方の選別はできず、内部に取り込まれれば術者以外は味方だろうと等しく被害を受ける。


 それを織り込み済みの布陣なのだ。

 だからオーギュストは負傷に怯まず襲ってきている。


(『色々わかってきたぞ』って表情かおだなぁ!! 赤い髪の死神よ!!)


 表情には出さず内心でほくそ笑むオーギュスト。

 彼には相方の結界世界の性質やルールがよくわかっているのだ。


(だが甘いぜ。この聖域はそんな生ぬるいもんじゃねえ)


 聖域の主、聖堂騎士フェルディナントは今切り立った崖の上に立っていた。

 崖の高さは20m近くあり峡谷の底から彼の立つ位置へは崖を登ってくる以外に到達の手段はない。


「…………………………」


 無言で崖下の戦場を見下ろすフェルディナント。

 彼にはこの峡谷に吹き荒ぶ刃の風の軌道が全て見えている。


 射手が矢を……番える。


 これもこの嘆きの峡谷の法則の1つなのだが、術者の手から離れた所持品は術者扱いはされずに刃の風の攻撃を受ける事になる。

 つまり放った矢がそれに該当するのだ。

 だがそこは熟練のアーチャー、フェルディナント。

 風の軌道が見えている彼にはその隙間から標的を狙撃する事も可能だ。

 ただの狙撃ではない。

 避ければ風に当たるように、追い込むように狙撃する。


 きりきりと弦が鳴る。


 娘を殺してしまうわけにはいかないが、赤い髪の死神は別だ。

 そもそも必殺の覚悟でなければ倒せる相手ではないだろう。


 ロックオンした赤い髪の男を目で追う銀の髪の射手。

 しかし標的は高速で動き回り、しかも相方が近接戦を挑んでいる最中だ。

 両者の動きを見定めながら慎重に狙撃のタイミングを計る。


(……ここだ!)


 そしてフェルディナントの待ち望んだその一瞬が訪れる。

 僅かなぶれもなく完璧なタイミングで放たれる矢。


 ……そして、直上からリューへ向けて風切る矢が襲い掛かった。





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