第2話 2人のクリス、逃亡中

 この世には不可逆のものが沢山ある。

 生と死はその中でも最たるものだろう。

 失われてしまった命はもう戻ることはない。

 自らが殺めた上官、パウル司祭の亡骸の前で立ち尽くすシスター、クリスティン。

 そしてその事実を淡々と告げたのは赤い髪の小柄な男。

 何故ラーメン屋の彼が殺人という名の惨劇をこうも冷静に俯瞰しているのだろうか。


「だが、殺さなければお前が殺されていた」


 続いた男の言葉に俯いていた顔を上げるクリス。

 月明かりが白く浮かび上がらせる赤い髪の男の表情かおは先ほどまでと同じ。

 やや女性的とも言える整った顔は無表情でどのような感情もそこから読み取ることはできない。

 冷ややかで鋭い視線も相変わらずだ。


「どちらかが死ななければ収束しない話もある」

「もしかして……慰めようとしてくれてるんです?」


 恐る恐る尋ねてみるクリス。


「そんなつもりはない」


 だが男の返答はそっけなかった。


「早く状況を把握してしかるべき行動をとれと言いたいだけだ。不本意だが俺もお前の事情に巻き込まれた。お前が呆けたままでは俺も困る」

「は、はい……。でも私はラーメン屋さんの話は誰にもしませんし、すぐにこの場を離れてもらえれば……」


 目を閉じて首を横に振る赤い髪の男。


「手遅れだ。気付かなかったのか。木の上にもう1人いた。お前がその男を殺した所を見届けて離脱している」


 6は初めから聖堂騎士たちと一緒に現れた。

 聖堂騎士団員だったのかはわからない。

 手練れの隠密だ。

 戦闘には参加せず木の枝の上にいて全体を観察していた。

 赤い髪の男はその樹上の何者かも騎士の4人と合わせて始末しようとしていたのだが、相手は常に安全な距離を保っていて仕掛けることができなかった。


「俺はあっちの4人を殺している。お前の仲間と見なされるだろう」

「…………………」


 絶望的な気分になるクリス。

 2人で5人殺したという事になってしまった。

 坂道を転げ落ちていくように状況は悪化の一途を辿っている。


「まずはこの場を離脱する。行く当てがあるのか?」


 クリスは黙って首を横に振る。

 郷里は遠く、城下町には聖堂騎士団員関係者以外で親しい知人はいない。


「わかった。付いてこい」


 男はそう言うと早足で歩き始めた。

 慌ててその背を追うクリスティン。


「あの……! 私はクリスティンって言います! クリスティン・イクサ・マギウスです。ラーメン屋さんのお名前は……」


「クリストファー・リュー


 振り返らずに赤い髪の男はそう名乗った。


 ────────────────────


 そこからのリューの動きは迅速果断の一言に尽きた。


 彼はクリスを城壁沿いの農家の納屋に潜ませると

「ここで待て。必要なものを揃えてくる」

 そう言い残して姿を消した。


 薄暗い納屋の中でクリスはようやく一息付く。


(でも、私このままあの人に付いて行っちゃっていいのかな。全然知らない人なのに)


 膝を抱えて座るクリス。

 その瞳は不安に揺れている。


 正体不明の男……クリストファー・緑。


 ラーメン屋台を引いてはいたが単なるラーメン屋ではない事は瞭然だ。

 猛者揃いの聖堂騎士団員を4人も同時に相手取って物ともせずに片付けてしまった。

 それも何の得物も用いることなく徒手空拳でだ。


 ……そしてその事を気にも留めていないように見える。

 4人もの人間の命を奪ったという事を。


「………………………」


 ぶるっと肩を震わせるクリスティン。

 しかし今はあの謎の赤い髪の男に付いていくより他に道はないのも事実だ。

 このまま1人で逃げても早々に自分は見つかり捕縛されてしまうだろう。

 そうなれば自分はもうお終いだ。

 自らの弁護に必要な情報を持つ男は自分の手で殺してしまっているのだから。


 ……そうして月が約2時間分程傾いた頃に赤い髪の男が戻ってきた。


「待たせた。これを被れ。その恰好は目立ちすぎる」


 そう言ってリューが手渡してきたものは薄茶色の麻のフード付きのマントだった。

 リュー自身も同じものを着ている。


 納屋を連れ出されたクリス。

 彼が用立ててきたものとは無論外套だけではない。

 農家を出ると目の前の木に馬が一頭繋がれている。


「乗れ」


 自ら手綱を取り促すリュー。

 クリスは素直に従うと彼の後ろに騎乗しリューの腰に両手を回した。

 身長差は30cm以上になる2人。

 後ろのクリスティンはリューの頭越しに前の景色がよく見える。


「急ぐぞ。夜が明ける前に国境を越えてしまいたかったが……この調子では少し難しいか」

「え? バルディオンを出るんですか?」


 風を切って馬を走らせるリュー。

 周囲の風景がすごい速度で後方に流れていく。


「当然だ。この国は聖堂騎士団の庭だ。国内にいる限りは逃げ場はない」


 揺れが大きく蹄の音が響く馬上でもなぜか彼の静かな声はよく聞き取れた。


(……国外逃亡かぁ)


 何かここまでくると感情も一周して落ち着いてきたクリスティン。

 そういえば国を出るのは生まれて初めてだなあとか彼女は暢気に考え出した。


 ────────────────────


 そこにはただ流れる水だけがある。


 ルオル・アージンの大河。

 バルディオン王国と隣接する大平原地帯を隔てるこの大河は国境線の役割も果たしている。

 その川岸に立つクリスティン。

 対岸は遠く、ここからでは目視することはできない。

 その雄大な景色に彼女はしばし自らの置かれた状況も忘れて見入っていた。


「……すごいなぁ」


 思わず呟きが漏れる。

 これだけの量の水を見るのは生まれて初めての事だ。

 彼女は海を見たことはないが、やはりどこまで水が続いているのだと習った。

 この景色は海の景色とは違うのだろうかと彼女は思った。


「話がついた。行くぞ」


 リューが近付いてくる。

 見ると1人の老人が一艘の小舟を出航できるように準備している所だった。

 彼はここで暮らす漁師たちの1人であるが、必要に応じてこうして渡航者を乗せて対岸への臨時の船便を出す。

 全ては金次第……無論、非合法である。


「手際が良すぎませんか」


 船上の人となった2人のクリス。

 クリスティンがずっと気になっていた疑問を口にする。

 屋台のあったあの場からここまでの彼の行動はまるで予定表に沿っているかのように一切の無駄がなく迅速だった。

 咄嗟の判断でこれだけの事ができるものなのだろうか……。


「どこの国でもこういう事態を想定して出国のルートは予め考えておく」


 何でもないことのように言うリュー。

 だがそれは彼が自分は複雑な人生を歩んでいると告白したも同然である。

 確かにあの場から彼の動きには一切の迷いがなかった。

 クリスの方が一瞬、屋台はこのままにしていくのかと考えてしまったというのに……。


「屋台……すいませんでした。私のせいで……」

「仕方がない。だがあのスープには自信があった。せめて誰か口にしてくれればいいが、無理だろうな」


 そう言う赤髪の男はほんの僅かに……或いはそれはクリスの気のせいだったのかもしれないが……残念そうに眉を顰めた。


「……ぷっ」


 真面目な顔でそんな事を言い出した目の前の男に思わず吹き出してしまうクリスティン。


「笑えるような話はしていない」


 それに対してリューの様子は相変わらずであった。


 ────────────────────


 大河を渡航し対岸に渡った2人。

 一面水の世界を超えてきて今度眼前に広がったのは一面の草原だ。


 大平原と呼ばれているこの草原。

 大陸でも比較的に広い国土を持つバルディオン王国ではあるが、この大平原の広さはそのバルディオンの実に6倍強にもなる。

 広大な草原地帯を支配しているのはいくつかの獣人の部族。

 その中には人に友好的な種族もあれば険悪な種族もあるというが……。


「これである程度時間を稼げたはずだ。だがここで一息つくわけにはいかん。もう少し移動する」

「はい。もう付いていきます。お任せします」


 ここまでの道行きで既に事態はクリスの考えの及ぶ範囲をオーバーしてしまっている。

 今はとにかくこの赤い髪の男に付いていくより他はないのだ。


 川岸の三差路に立つ2人。

 ここからは3つのルートがある。

 草原に入っていく道と、草原に沿って北上するか南下するかの道だ。

 リューはその内の南下する道を選んで歩き始めた。

 馬は渡河する前に乗り捨ててきている。

 ここからは徒歩の旅になる。


「いつもなら今頃お祈りを終えている頃です」


 早足で先行するリューの背に何となくクリスは話しかけていた。


「それがまさか夜通し逃げて国外にいるなんて、人生って一晩でここまで変わるものなんですね……」


 リューは無言だ。

 返事を期待した発言ではなかったが、それでも少し寂しく思うクリスティン。

 それから僅かな間無言の行程が続いた。


「変化はいつも唐突だ」


 やがて、自身のその発言の通りに今度は不意にリューが口を開いた。


「命があるのなら……生きなければな」

「…………………」


 その簡潔な言葉がクリスティンの胸の内側に染みていく。


(そうだ。生きなきゃ。私はまだ……死にたくない!)


 噛み締めるようにそう思ってクリスは歩みを進めるのだった。


 しばらく歩いて2人が辿り着いたのは街道沿いの宿場町だ。

 寂れて煤けた町である。

 時折すれ違う者も薄汚れた者や胡散臭い風体の者たちばかり。

 そして彼らは例外なく友好的とは言い難い視線をチラチラと2人に向けてくる。


「ここはが多い。今の我々にはうってつけの町だ」


 リューは酒場を兼ねた食堂へ入った。


 店の中は日中なのに薄暗く陰気な髭面の中年の店主からは「いらっしゃい」の一言もない。

 それでもリューは気にした素振りもなくテーブルに着く。

 それに倣ってクリスも彼の正面に座った。


「何でもいい。2人前だ」


 リューが店主に向けてそう言うと彼は無言で奥の厨房へ消えていった。


「休ませてやりたいが、まずは何があったのか聞こう」

「あ、はい。えーと、そうですね……何からどう話せばいいのか……」


 俯いたクリスティン。

 彼女自身が昨夜からの出来事を把握し切れてはいない。

 やがて彼女はぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。


 忘れ物をして夜の聖堂に忍び込んだ事。

 そこでパウル神父が何者かと密会しているのを立ち聞きした事。

 彼らは毒殺の謀議をしていた事。

 立ち聞きがバレて司祭に追われていた事。


 話の最中に料理が運ばれてきたのでそこからは食事をしながらの会話になった。

 運ばれてきたのは名前もよくわからない和え物の料理で味は酷いものであった。


 話を終えるとずっと黙って聞いていたリューは

「そうか。わかった」

 とだけ口にした。


 ────────────────────


 がばっと跳ね起きたクリスティン。


 ベッドの上だ。

 時刻は……夜。

 窓から月明かりが差し込んでいる。


「…………夢?」


 呆然と呟く。

 そうだ……酷い夢を見た。

 自分が謀議の密会を立ち聞きして追われ、返り討ちで司祭を殺めてしまい国外に逃げる夢。


「なんだ……全部夢……」


 そこでガクッとクリスは項垂れた。


「な、わけないよねぇぇぇぇ……」


 ここは街道の安宿の一室だ。

 食事の後でリューは部屋を取り彼女は眠れと言われた。


「2人で眠るわけにはいかん。俺は見張りをする」


 クリスが眠りに就く前にそう言っていたリューは言葉の通りに窓枠に座って外に視線を向けていた。


「クリストファーさん。ごめんなさい、私眠り過ぎて……」

「構わない。休める時には休んでおけ」


 窓の外へ向けた視線はそのままで答えるリュー。


「それと俺の事はリューでいい。クリス同士で紛らわしい。さん付けも必要ない。呼び捨てろ」

「わ、わかりました……リュー。お陰様で十分休めました。ちょっと休み過ぎましたけど……」


 ベッドから下りたクリス。

 リューは一瞬だけ彼女に視線を向けてから再び窓の外を向く。


「ならば少し話をしておくか。これからの俺たちの行動についてだ」

「……お、お願いします」


 一度立ち上がったクリスだが再びベッドに腰を下ろした。

 幾分か体に力が入った彼女の膝の上に置かれた拳。


「お前の無実を証明しなければならない。その事が巻き込まれた俺の無実を証明する事にも繋がる」


 リューの言葉に下唇を噛むクリスティン。

 口に出して言うのは容易い。

 だが現実にはそれは途方も無く困難な道であった。


「司祭の密会の相手は『お妃様』と言った。つまりパウル司祭はヒルダリア王妃の派閥の者だったという事になる。それならば考えられる毒殺の標的とは……」

「ジェローム様……ですね」


 恐る恐るといった感じでクリスがその名を口にするとリューはうなずいた。


 ヒルダリア王妃と皇太子ジェローム。

 この血の繋がらない義理の母子が王宮内において権力闘争を繰り広げている政敵同士である事を知らない者はバルディオン国内には少ないだろう。

 国王フィニガンは長く病の床にあり高齢である事もあり国政の場に復帰できる可能性は極めて低いと言わざるをえない。

 現状国政は王妃ヒルダリアとその後ろ盾である父親、宰相ルーファウスと、その2人と政治的に敵対関係にある皇太子ジェロームが互いの派閥の者たちを率いて牽制や妨害を繰り返しながら回している状況であった。


 聖堂騎士団員は権力に対して中立であるとされてきた。

 しかし第6大隊長であるパウル・ゴドリック司祭はこの建前の影で王妃派と繋がっていたのだ。


「王妃派の連中に追われているのなら皇太子と結ぶべきだが……」

「もしかして、伝手があるんですか!?」


 一縷の希望に目を輝かせたクリス。


「……あるわけがないだろう」


 しかしそっけない返事に一転ガクッと肩を落とす事になる。


「ですよね。……すいません。ここまであまりにもテキパキと話を進めてくれるからつい希望が」

「ここまで俺がした事は流れのラーメン屋風情でもできる事だったというだけの事だ」


 驕るでもなく卑下することもなく、相変わらず淡々とした口調のリュー。

 出会って丸一日程度ではあるがクリスには少しこの仏頂面のラーメン屋の事がわかりかけてきた。

 もしかすると彼は冷たくも不機嫌にも見えるがそうではなく感情表現が苦手なだけなのではないか、と。


「皇太子派の誰かにコンタクトを取らなければならんが、ここからは慎重にならなければな。一手誤れば俺たちはより危険な立場に追いやられる事になるだろう」


 そう言って赤い髪の男は目を閉じて腕を組み何事かを考え込んでいる様子であった。


 ────────────────────────


 バルディオン王国城下市街、教会地下。


 ゆらめく蝋燭の炎が照らし出す石造りの部屋の中に数人の人影がある。

 1人は聖堂騎士の武装……サーコートに鎧姿の体格の良い中年男。

 こげ茶色の髪の精悍な顔立ちの男だ。

 聖堂騎士団第5大隊長、スレイダー・マクシミリオン。


「そんな格好で来るんじゃないよ。人目を引くだろう?」


 木製のテーブルに着くスレイダー。

 その彼に正面に座る者から不機嫌そうな声が掛かる。

 ハスキーな声だ。


 正面に座っているのは目立たない町衣装の女性。

 褐色の肌にブロンドのやや気の強そうな美人である。

 聖堂騎士団第3大隊長、キリエッタ・ナウシズである。


聖堂騎士オレたちが教会にいたって何もおかしい事はないって。堂々としてりゃいいんだよ」


 大袈裟に肩をすくめたスレイダー。


「ガサツな男だよ……まったくさ」


 そしてこちらは大袈裟にため息をつくキリエッタだ。


「戯言はそこまでだ」


 くぐもった低い声がして大隊長2人が上座を見た。

 そこに座っているのはローブにフード姿の何者か……口元にも布を垂らしているので顔が全く見えない。


「この体たらくに王妃様は大層失望しておられる。お前たちがその汚名を雪いでくれるのだろうな」

「はん……勝手に連帯責任にされちゃたまらないね。今回の件はアンタとパウルが勝手にやってた事だろう?」


 不快そうに鼻を鳴らしたキリエッタ。


「その通りだ。だが聖堂騎士団の大隊長とはこんなものなのかと言われるのはお前たちにとっても愉快な話ではないだろう。どの道逃げ出した団員の娘は放置するわけにはいかん」


 当日夜の話に付いてはこの2人の大隊長にも概ね説明はしてある。

 パウル司祭は密会の後、ほとんど時間を置かずして腹心の数名の騎士と共に聖堂を出発し……そして、全員が命を落とした。


「司祭が殺されたのは我々が会った直後だ。関係がないとは考えにくい。娘は何を知っている? そして合流した赤い髪の男は何者だ? 調べろ。探し出せ。……既に皇太子派にも情報はある程度渡っているだろう。パウル司祭が王妃様と通じていた事までバレていたかどうかはわからぬが、悠長に構えているわけにはいかないぞ」


 行け、というようにローブの者は手を払う仕草をした。

 それを合図に2人の大隊長が立ち上がる。


「へいへい。面倒な事になったねえ」

「かかった費用かねは少しは都合してもらえるんだろうね? 潤沢じゃないんだよ、大隊うちの資金もさ」


 それぞれ言い残して地下室を出ていく大隊長たち。


 そして2人が出て行った後で自然と蝋燭の明かりが消えて地下室は闇に包まれる。

 そこにいたはずのローブの者の姿もいつのまにか消え失せていた。


 ────────────────────────


 一夜が明けた。


 安宿の食堂で朝食を取るクリスとリュー。


(うう、本当にこれ美味しくないな……)


 何ともいえない表情になるクリスティン。

 昨日はそれどころじゃない精神状態だったのであまり気にならなかったがある程度落ち着いてから味わってみると宿の食事の味は酷いものであった。


「我慢しろ。これでもこの手の宿の食事としては大分マシな方だ」


 リューの声は相変わらず低く静かなものだったが食堂内が静かなのでよく通る。

 慌てて店主の方を見るクリス。

 案の定愛想のカケラもないガラの悪い店主はこちらをジロリと睨みつけてきた。


「睨まれちゃったじゃないですか! 私何も言ってないのに!」


 小声で抗議するクリスティン。


「目を見ればわかる」


 リューの返事はそっけなかった。

 わかるとは……? 疑問に思ったクリスだがやがてそれが「食事に不満のある者は目を見ればわかる」という意味なのだと理解する。

 ラーメン屋の特殊技能のようなものなのだろうか? と新たな疑問が沸いたわけだが。


 不意にその赤い髪の男が外へ鋭い視線を向けた。

 一瞬遅れて喧騒が聞こえてくる。

 音はまだ店からは離れているようだが……。

 リューは窓に近付いてそこから外の様子を窺う。


「えっ? 何? なんです……?」


 慌てて椅子から腰を浮かせるクリス。

 その彼女に向かって、落ち着けと言うようにリューは片手を上げた。


「俺たちとは関係なさそうだ。獣人の子が吊るし上げられている」

「子供を!? そんなのだめじゃないですか……!!」


 今度こそ椅子を鳴らして慌てて立ち上がると、そのままクリスは宿を出ていってしまった。


「……おい!」


 その背にリューが声を掛けるが効果はない。

 駆け出していってしまったクリス。

 リューは小さく嘆息するとその後を追った。


 ────────────────────────


「放せ!! 放せ人間ッッ!!!」


 騒いでいるのは灰色の毛の犬系の獣人の子供であった。

 草原の獣人特有の獣の革をなめした民族衣装を着ている。

 人間で言えば10歳前後くらいの背丈であろうか。


 片腕を掴まれて持ち上げられ足が浮いてしまっている。

 そしてその子供を掴み上げているのは見るからにならず者と言った風体の人間の大男だった。


「へへっ、ケモノがこんな所まで入り込んでやがるぜ!」


 周囲を数名のならず者が取り囲んでおり、彼らは下品な笑い声を上げて手を叩き子供を囃し立てている。


「こらー!! やめなさい!!!」


 そこにクリスティンが駆けつけてきた。


「ああん? 何だぁ、でっけえ姉ちゃんよお」


 剣呑な視線を向けてくるならず者たち。

 獣人の子も抵抗をやめて現れたクリスに見入っている。


 荒くれ者たちのおおよそ友好的とは言い難い出迎えにもクリスティンは怯まない。


「恥ずかしいと思わないんですか! 小さな子供に大の大人が寄ってたかって!! こんな事は天の女神エリス様もお許しになりませんよ!!」


 怒っているクリス。

 だがならず者たちもそんな彼女に怯む事は無く小ばかにしたような視線を向けてくる。


「ハッ! 女神様なんてのは生まれてこの方見た事もねえな。このガキの代わりに姉ちゃんがオレたちと遊んでくれるってんなら考えてやってもいいぜえ?」

「そいつぁいいや! ギャハハハ!!!!」


 手を叩いて大笑いしていたならず者たちの1人。

 その手をクリスティンが取った。


「お? おおっ?」


 好色そうな笑みを浮かべるならず者。

 数瞬先に自分が見る光景をまだ彼は予測できていない。


「えいっ!!」

「……ぉ?」


 気合を入れるとクリスはそのまま取った腕を掴んでその場で横に男を振り回す。

 そして数回の後、勢いのまま頭上に放り投げた。


「…………ぁーーーーーーーぃ」


 遥か頭上から男の悲鳴(?)が木霊している。

 1度地上からでは見え辛いほど小さな黒点になった後、再びならず者が降ってきた。

 品のない堕天使である。


 ……ズズン!!!!


 落下してきた男を抱き留めるクリスティン。

 お姫様抱っこの体勢で男はクリスの腕の中に納まった。


「………………………………」


 驚愕と恐怖の表情のままで男は硬直している。

 最早言葉もないようである。


「……な、なんだこのデカ女ぁ!!?」

「クソッタレが! なめんじゃねえぞ!!!」


 気色ばんだ男たちが武器を出した。

 面白いように全員の動きが一々連動している。

 きっと仲良し集団なのだろう。


「……!!」


 男の内の1人が何かに気付いた。

 その目は草原の方角の空を見ている。


「……やべえ」


 無数の影が空中にあった。

 その影はどんどん大きさを増している。

 こちらに近付いて来ているのだ。

 男は抜いて構えていた短刀を腰の鞘に戻して走り出した。


「おい、やべえぞ逃げろ!! 飛跳蟲ランドホッパーだ!! ザハ族が来るぞ!!!」


「げえッ!! 冗談じゃねえ!!!」

「殺されちまう!!」


 突然恐慌状態に陥ったならず者たちが我先にと逃げ出していってしまった。

 獣人の子を掴んでいた大男も手を放すと一目散に逃げ出していく。


 子供は地面に投げ出されて尻餅を突いた。


「ああ……もう、また酷い事をして……。君、大丈夫?」


 子供に駆け寄るクリスティン。

 すると子供は先ほどならず者たちに弄ばれていた時よりも数段必死な表情でクリスに縋り付いてくる。


「何やってんだ! あんたも逃げろ!! 殺されちゃうよ!!」

「……え?」


 そのクリスの呆けた声に重なるように周囲を埋め尽くした音。


 ビビビビビビビビビビビイイイイイ!!!!!!


 無数の羽音が周囲に満ちる。

 次々に着地する巨大な何か……。


 馬ほどもあるそれは鞍を着けた巨大なバッタである。

 跨っているのは成人の獣人たちだ。

 全員が武装している。


 種族は……様々のようだ。

 色々な種類の動物の獣人たちの混成部隊である。

 クリスティンは以前座学で草原の獣人たちはどの種類の動物の獣人かで種族に分かれており、種族で固まって行動するものだと学んでいたのだが……。


 クリスの二の腕を掴んでいる子供の手にギュっと力が入った。


 その2人の眼前に鋭い矛が突き付けられる。

 それを手にするのは大型蟲に跨るジャガーの頭を持つ戦士。


「探したぜ、リク。さあ一緒に来てもらうとしようか」


 獣頭の戦士はそう言ってギラリと輝く牙を見せて笑ったのだった。


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