黒絹の男

「お姉様、お姉様。起きて下さい」

耳元で澄んだ優しい声がする。懐かしい、妹の声が――…

「レイラ……?」

ヴェロニカが目を開けると、彼女は自室の天井に向かって手を伸ばしていた。いや、この時彼女は、記憶の向こうの過去に手を伸ばしていたのだ。過去に手を伸ばしても、掴めるものなど何も無いのに。

「あ……」

エレノアとレイラとの、暖かく懐かしい日々に戻れたのではないか。ふたり共自分の前から姿を消したのは、夢だったのではないか。そんな、淡く儚い希望はしかし、現実に勝てるはずも無かった。

「……私は」

あの人達の残してくれた自分を、大事にするべきではないか。ヴェロニカは、伸ばしていた手を下ろした。ヴェロニカが、人に優しく、親切にしようと思うことの模範は、エレノアで。弱者は守るべきだと思うのは、レイラが居たからこそだった。

だったら、何としてでも裁判に勝たねば。

「魔法士を、それも記憶魔法専門の人を探さないとね」

ふう、とため息をついて、ヴェロニカは起き上がった。床の上にスリッパが置いてあるのが目に入り、それを突っ掛けて立ち上がる。そしてヴェロニカは、ドレッサーの前に座り、ブラシを手に取ると髪を梳かし始めた。

「お嬢様、お目覚めですか?」

暗い金髪が、シャンデリアの薄明かりに照らされて光沢を放ち、それをヴェロニカが指でなぞった時だった。ドアの外からマイアの声が聞こえた。

「ええ。どうぞ」

ヴェロニカが返事をするとすぐに、ゆっくりとドアが開いて、マイアが入って来た。

「お嬢様、お体が冷えると良くありませんので、こちらを」

ヴェロニカの姿を見るなり、彼女は手にしていた布を広げて、ヴェロニカの肩にかけた。

「ありがとう、マイア」

「お嬢様の具合が良くなったようで、何よりです」

語尾は消え入るようだった。ヴェロニカが鏡に向き直ると、後ろで鼻をすする音がした。マイアは相当、ヴェロニカのことを心配していたのだろう。

自分はこんなにも大切にされているんだ。ヴェロニカは今ある幸せを失わないように、尽力するつもりだった。

これ以上、何も失わないように。


それから二週間。ヴェロニカは、契約書のヴェロニカの署名が偽物であることを証明するため、記憶魔法専門の魔法士を探して大忙しだった。

幾人もの魔法士に断られた。ヴェロニカに加担した、などという風評被害に遭いたくない者が大半だった。

多額の報酬を出すと約束して、やっとヴェロニカに協力してくれるという者が出た。

「ファビオ・セシルと申します」

肩までの黒髪に、髪と同色の瞳の青年は、いけ好かないとは言わないまでも、そこまで第一印象が良かった訳では無かった。

ミリ単位で調整していそうな作り笑顔に、緻密に計算された言動。どれをとっても当たり障りのないものだったが、その完璧さが逆に不自然だった。

「お嬢様の筆跡を頂けますか?」

ファビオは前金を受け取ると、ヴェロニカの筆跡を録る必要があると説明した。本物のヴェロニカの筆跡と、偽物のそれの違いを証明する為だった。

「ええ。もちろんですわ」

ヴェロニカはにこやかに答えてペンを握ったが、彼女が紙にペンを当てると、なんと先端が折れてしまった。

「これは大変です。お怪我はありませんか?」

ファビオがヴェロニカの手を見ようと前に乗り出すと、それをノアールが遮った。

「ヴェロニカ様、お手を拝借願います」

「大丈夫ですよ」

そう言いつつも、ヴェロニカはノアールに右手を差し出した。ヴェロニカの右手から滴るインクを、ノアールが丁寧にハンカチで拭う。

その様子を眺めていたファビオが口を開いた。

「本日はここまでと致しましょうか」

「ええ……、はい。」

急な事に、ヴェロニカは驚いたが、「実は私、この後用事がありまして」とファビオが付け加えた為納得した。怪我がなくて良かった、と言い軽い挨拶をすると、ファビオは帰って行った。

「ヴェロニカ様。あの者を見張るべきです」

ファビオが退室するとすぐに、ノアールが口を開いた。

「何故ですか?」

「貴女を嵌めた人物と関わっている可能性があります」

「それは……」

ヴェロニカの顔がさっと青ざめた。ヴェロニカが裁判に負けるように、自分と通じた魔法士がヴェロニカの証人になるよう仕向けた……?

「まだそうと決まった訳ではありませんが、可能性はあります。彼は有能な魔法士ですが、守銭奴です。お金銭かねさえあれば、彼を自分に有利に動かすことは誰でも可能です。それに、あれだけの大金を要求しているのに、護衛を要求しないのはおかしいと思います」

ノアールは真剣な眼差しで説いた。

「そうですね。用心するに越したことはありません。彼に護衛みはりを付けましょう」


それから数日後、アースラ男爵邸に突然、訪ねて来た者が居る。

その人物は焦りを露わに、しかし礼儀を欠くことはせず、門を叩いた。

「私は、ルーアン男爵家が三男、ブラントと申します。アースラ男爵令嬢にお話があって参りました」

改まった挨拶はブラントの得意とするところではないので、いささかぎこちなくなってしまったが、この旨は執事長、そしてヴェロニカ本人に伝わり、彼は特に変わった様子もないヴェロニカに対面した。

「それで、用件は何なの、ブラント」

表情を引き締めて、ヴェロニカは訊いた。彼女はブラントの訪問を予想していた。

「ああ、お前、ランテ伯爵に裁判を起こされたって本当かよ?」

「ええ。もちろん、冤罪だけどね」

ヴェロニカが落ち着き払って危惧する様子も無いので、ブラントは声を荒らげた。

「お前、大丈夫なのか?裁判で負けたら、爵位を失うばかりか、牢屋に入れられるんだぞ!」

「大丈夫よ。証人を見つけたから」

不敵な笑みの奥に、不安が見え隠れしていたが、それがヴェロニカには精一杯だった。

「……お前がそこまで言うならそうなんだろうけどさ、俺に出来ることがあれば遠慮なく言ってくれよ」

ヴェロニカから視線を外して、ブラントは引き下がった。

「貴方に出来ること、ね。それならひとつ、頼み事を良いかしら?」

「ああ。俺に出来る事なら」

「私の恩人となるはずの人の護衛を、引き受けて頂きたいの」


パキッ  ドサッ

真っ白な雪が木の枝に重くのしかかり、枝がその重さに耐えかねて折れた。

それを横目に、ひとりの男が、苛立ちを露わに雪を踏んで歩いていた。彼は神殿に行って神力について調べてきたばかりなのだが、そこで読んだ書物には、神力に破壊力があると記述されていた。

黒い瞳が、鋭く宙を睨む。ファビオは気付いていた。彼がヴェロニカの筆跡を録るのを邪魔したのは、ノアールだと。彼女は神力を使ってペン先を折ったのだ。

下手に動くと厄介なことになりかねない。さて、邪魔者をどうやって消そう?

ファビオはしばらく考えながら歩いていたが、ふと彼は立ち止まった。

顔を上げた彼の目の前には、雪化粧をした屋敷がたたずんでいた。

「今日こそあの司祭が居ないことを祈るね」

来訪者を迎え入れるべく口を開け始めた門を前にして、彼は口の中でそう呟いた。


「私に護衛を……ですか?」

驚いたふうを装って、ファビオは聞き返した。実は彼はそれ程驚いてはいない。ノアールに疑われていると分かった時から、彼は護衛という名の見張りが付けられる可能性を見出していた。

「前金も頂いて謝礼金まで頂く予定ですのに、護衛まで付けて頂いて、本当によろしいんですか?」

「もちろんです。ファビオ様は私の恩人となる方ですもの」

いかにも気前良さそうに、ヴェロニカが答えた。こちらも演技である。

「では、お言葉に甘えて」

にこりと笑ってそう答えると、ファビオはちらりと視線をずらした。彼の視線の先には、フードを目深に被ってシャールをつけた、修道司祭の姿があった。

「ヴェロニカ様、今日はこの後来客がありませんでしたか」

ファビオの視線を知ってか知らずか、ノアールはさり気なく言った。

「あら、そうでしたわね」

ノアールに向かって返事をして、ヴェロニカはファビオに向き直った。

「と、言うわけで、申し訳ありませんが、護衛の者を連れて、本日はお帰り下さい」

そう言ったヴェロニカの顔は笑っていたが、どこか作り物めいた光が、深海色の瞳の奥で揺れていた。


ファビオの護衛に任ぜられたのは、アースラ男爵邸の警備兵から抜粋された、十人の男達だった。否、ファビオはそう知らされていた。

その中で、隊長と思われる男は、黒髪に深緑色の瞳の好青年だった。

「今日から貴方の護衛をさせて頂きます、ブラント・レーン・ルーアンと申します」

「私はファビオ・セシルと申します。よろしくお願いします」

丁寧に挨拶を返しつつも、ファビオは思案を巡らせた。

"ルーアン"という家名は、ファビオも知っていた。男爵家だということまでは、思い出せる。

神殿に行って調べたりすると怪しまれるだろうから、下手な真似はよそう。

ファビオは、ブラントが見張りとしてヴェロニカに任ぜられたことまで推測し、それ以上は調べないことにした。

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